宮津エコツアー · 「雨乞い」

「雨乞い」

2013/02/14
生きかわり 死にかわりして 打つ田かな (村上鬼城)
「目の前 にみる田んぼとそこで田をうつ人、しかしその後ろに目にみえない、家族と村落の社会学 の本質を、たった17文字の中に凝縮しているように思える」俳句だと現滋賀県知事嘉田さんが滋賀県立琵琶湖博物館 総括学芸員時代におっしゃっていました。


苛斂誅求の時代も米を納め、気象災害の時は立ち向かい、あるいはしのび、あるいは考えて道を拓き、死にかわって生き代わって田を守り一生を終えていった里の人たち。世屋の里の場合、慶雲上人に率いられた一団による開村を704年としています。現在2013年、その間1300年余、一代20年としたら、世代の数、60代!「目に見えないけれどあるんだよ」とおっしゃっているわけです。

おためさんもその一代を担った一人。そのおためさんが、根付け籠もりや雨乞いのことをかたってくれました。

「かみせやのお観音様は、ようねぎゃあごとをきいとくれる値打ちのあるおかんのんさんだわなあ。
【根付け籠もり】
田植えをすませたら、根付けごもりゆうて、ぐあいよう根をつけてもらうよう二晩籠もって頼んだんだ。女は、お宮さんには参られんで男ばっかり、女はご飯を炊いてもっていくだけでした。


【雨乞い】
それから、お観音さんに、雨をおくれゆうて頼んだら、おくれた。雨乞いの時は、朝はお宮さん、午後は観音さんで、お千度をあげたんだ。お千度ゆうのは、竹を割って、盆踊りみてぃゃあに輪になって、中にコモをして、その上に年寄りがおって、そこへ竹を10本ずつ、千本になるまで投げるんだ。それを年寄りが数えておって、千本になったら、ほい、もうええど、ゆうて教えただ。
それでもあかんときは、太鼓をもってあがって、それを雷の代わりに、火をたいて稲光りのかわりにし、青年が滝の上に上がって、そこに木で堰を作って、裸になって水を村中へほくっただ。だ、おっさんは観音経を詠み上げとるだ。最後にその堰をどおっとながしただ。そうしたら、じきに黒雲がわいてきて、雨が降ったもんだで。それだけは重宝に不思議にようきいとくれたもんだ。」
(1975, 上世屋小中 育友会誌)

1300年余の時を、米作りと「お観音さん・お宮さん」は、しっかりと結び合って旅してきたのです。

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