縄文の人たちが、ここに暮らしていた、7000年前のこと。
その看全体全体。
この看板を「当時の縄文人」と見立てて、彼らが見ていたであろう世界。
竹野川の対岸に低い山並の上に雪の山。世屋高原のある丹後半島の山だ。
この景観に、彼らの暮らしがあったのだ。
暮らしの想像図を置いてみた。
タイムスリップした気分になると、会話も聞こえてくるようだ。
そのころ彼らはどんな言葉を話していたのだろう、それは、今に伝わっているのだろうか!縄文のころの、古代語の研究を紐解いてみると、今の顔は「ツラ」、今のトンボは「アケズ」と言っていたのではないかと言うこと。これらがそうかも知れないという。
「民族学者の柳田国男(やなぎだくにお)は、1930年に『蝸牛考』(かぎゅうこう)を出版し、「方言周圏論」(ほうげんしゅうけんろん)を提唱しました。この理論は、新しく生み出された言葉は、発祥(はっしょう)の場所を中心として、そこから離れた場所に行くにつれて、古い表現が残っているとする主張です。日本語の古代語を研究している小泉保(こいずみたもつ)は、顔を意味する「カオ」と「ツラ」、昆虫のトンボを意味する各地方の方言を比較し、「ツラ」やトンボを意味する「アケズ」に類する表現が、沖縄や九州と東北地方の岩手などに残っていることから、大和政権のあった近畿地方を中心に、弥生時代の日本語が生み出され、時間をかけて周辺地域に伝わり、東北北部や九州・沖縄に、古い表現が残ったとしました。」
そのほか、「くま」:熊 「はち」:器の一種である「鉢(はち)」「こぶし」:拳(こぶし)「あし(足)」「はな(鼻)」「くし(櫛)」「かお(顔)」、、これらも古代日本語に遡ることができると話も話もある。
縄文人にはは、北方系や南方系のルートがあり、複雑とされるが、あし(足)はな(鼻)くし(櫛)等が、通じるかも知れないと思うと、振り向けば縄文人、7000年が一気に縮まる。
対岸の小高い丘にある、三坂稲荷から、逆に、この遺跡を眺めた。
眼下には沼地、入り江、干潟だったかも知れない地形が広がる。この稲荷には干塩稲荷の名。干塩とは波が引く、大津波が来たことが命名の起源だと。その大津波に襲われた『大昔』、それはいつかとは特定しない。あくまでも『大昔』。その体験をしたのは、彼ら縄文人だったのかも知れない。
世屋高原には火山灰が厚く積もっている黒ぼく層がある。それは九州鬼界カルデラの大爆発による。これも、7000年前という。海からも空からも襲い来る天変地異を生き抜いて今がある、私たちは、さらに7000年を生き続けられるのだろうか。
イサナゴ・磯砂山に沈む正月の夕日が羽衣姐さんを照らしていた。磯砂山は大宮町からは『西南西』の方角にある。