2013/02/17
「明日悲別で」宮津公演が24日、 海星公園の関係者の方から、公演について連絡がありました、「まだチケットに余裕がある、買ったか、他にも紹介してくれ」。
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「悲別」と書いて「かなしべつ」と読む。閉山した炭鉱の町だが、実在はしない。脚本家の倉本聰さんがつくり出した架空の地である。まだ貧しかった戦後の時代、這い上がる日本を地の底から支えたのがヤマの人たちだった
▼国が豊かになるのと入れ違いに炭鉱はさびれていく。倉本さんが「悲別」を舞台に、失われてゆく故郷(ふるさと)と人間模様をドラマにしたのは1984年のことだ。以来29年、今度は炭鉱に原発を重ねた劇をつくり、全国ツアーが始まった
▼その「明日(あした)、悲別で」を見ると、国策に翻弄(ほんろう)されて悲哀をなめ、怒りにふるえる個々の存在がつきつけられる。国の舵(かじ)取りにもまれて、使い捨てにされる人間。名もない人々の一語一語が胸に刺さる
▼閉山で去る労働者らは坑内に刻む。「我ラ世ニ遅レ不要ト言ハレタリ ヨッテ此処(ここ)ヲ去ル 文明我ワヲ踏石ニシ高所ニ登リテ 踏石ヲ捨テル 踏石ノ言葉既(すで)ニ聞クモノナシ」。誰にも起こりうる痛みを分かち持ってほしい、と倉本さんは言う
▼現実に戻れば、原発事故で故郷を追われた多くの人は、帰るめどが今もたたない。なのに、原発への関心や、共有は薄れてきたようだ。総選挙でも主役は経済が占め、原発は脇に追いやられた
▼炭鉱や原発に限らず、人が軽くみられる社会で希望を探すのは難しい。足尾鉱毒を告発した田中正造をまねて言うなら「真の文明は人を棄(す)てざるべし」であろうと、舞台を見終えて考えた。もうひと月で、3・11から2年の日がめぐってくる。 2/11天声人語
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倉本さんは、「誰にも起こりうる痛み」とおっしゃいます。そのとおりです。薪炭を産し、町の暮らしを支えた世屋の里も「ヤマ」です。「ヤマ」をたたまざるを得ない悲哀。薪炭のヤマと石炭のヤマとが味わった悲哀は、時間差こそあれ、精神的な位相は、共通しています。
倉本さん、「それでもほんとうに神様はいるのか」と問います。ヤマに生きたおためさんは、「上世屋のお観音さまは、ねぎゃうごとをようきいとくれるええかんのんさんだ」といいました。どこがかみ合い、どこが違うのでしょうか。ステージを見ながら考えたいと思っています。、、、、、、、
もちろん買ってると答えました。まだのかた、ぜひみてください(^.^)