「失った水田107万㌶」 12日、農水省の横山政務官が発表と朝日新聞。12年の作付け水田が232㌶に対して、減反政策を始めて以来宅地、工場用地、耕作放棄で失われた水田の面積が107万㌶にのぼっていると。歴史を閉じた里の荒れたたんぼも含みます。
日風水さんの「日本の全歴史を通じてのスーパースターは誰かと問えば、私は即座に二宮尊徳先生を挙げる。その生き様、その志の高さに惚れ込んでいるからだ。」で始まる尊徳さん賛歌を思いながらこの記事を読みました。
ちなみに、その賛歌、、、、、、、(^.^)
「日本の全歴史を通じてのスーパースターは誰かと問えば、私は即座に二宮尊徳先生を挙げる。その生き様、その志の高さに惚れ込んでいるからだ。武士でもなく、まして殿様でもなく、父母に死別されてしまった一介の孤児が、どん底の境地から身を起こし、自分の家を再建したのみならず、貧に苦しむ荒れ果てた村々を六百余りも立て直すという超人的な力は、いったいどこから出てきたのだろうか。そして、その尊徳先生の思想である報徳思想が、砂漠にふる慈雨のように人々の心に染み入り、ひとたび報徳思想に目覚めるや、その人を奮起せしめ、事業を成功へと導いてやまないその魅力は、どこにあるだろうか。
今日、日本は経済大国となったが、経済活動の根底を支えている思想といえば、報徳思想にほかならない。勤労・倹約・推譲・自他両全・積小為大という報徳五項目を実践してきたがゆえに、日本製品は世界に冠たる品質を確立し、信用されているのである。
われら日本人の中から、江戸時代の熟成期間を経て、二宮尊徳先生のような人が出たということは、決して奇跡ではない。それは葦原の瑞穂の国の必然だったのだ。われら日本人は、この日本列島に、万民が万代にわたって共に栄える国を築きたいと願ってきたのだ。その思い、その願い、その志が、何千年何万年と熟成され、ついに二宮金次郎という男に乗り移り大爆発を起こしたのだ。生ける尊徳先生は荒れた村々を再興した。死んでそのまま神となった尊徳先生は、報徳思想となって、われら日本人の行く末を導いてくれている。
「蒔けば生え植うれば育つ天地の あはれ恵みの限りなき世ぞ」と、まず天地の恩に感謝し、大自然の力を活用し、「めしと汁木綿着物は身を助く その余は我をせむるのみなり」と慎ましく生き、余計なものを生産しなければ、万物万民はこの地球上で万代まで楽しく暮らしてゆけるのだ。
今こそ、万代弥栄の道を邁進しよう 二宮先生が、その70年の生涯を通じて世に示してくれたものは、自分の分度を守り、勤労に励み、未来に備えて倹約し、余ったものは、子孫・社会に推譲してゆけば、この世は万代にわたって弥栄に栄え、生きながらにして極楽浄土に住むことができるのだと言う事です。 たとえば、天保8年(1837年)に大坂では大塩平八郎の乱が起きました。この乱の直接的な原因となったのは、冷害による米の不作となった天保の飢饉でした。大塩平八郎は、その決起の檄文では、無慈悲な役人・商人に天誅を加え、彼らの蔵から金米を奪い取って、困窮した民衆に分け与えるのだと記した。乱の顛末は、知ってのとおり、あっけなく終わりました。それによって、一粒の米が増えたわけではありませんでした。 ちょうど同じころ、二宮先生は、報徳記によれば、天保4年の初夏、ある時、茄子を食べたら、秋茄子の味がしたそうだ。それで、箸を投げて、嘆いて、こう言った。「今、時節は初夏だというのに、これがもう秋茄子の味をしているのは、ただごとではない。これによって考えれば、夏の陽の気が薄くて、陰の気がすでに盛んになってきているのだ。これでは米が豊熟できるはずがない。今のうちに非常の場合に備えておかなければ、民衆は飢渇の災いにかかるかも知れない。」と。そこで、村々に触れを出して、こう言った。「今年は五穀が熟作できない。今のうちに凶荒の備えをせよ。一戸ごとに畑一反歩ずつ租税を免除するから、すみやかに稗を蒔き、飢渇を免れる種にせよ。うっかりしていてはならない。」この二宮先生の「先見の明」によって、村々の民衆は稗によって食糧不足を補い、一人として餓死したものは出ませんでした。 このように、同じ天保の大飢饉にあっても、その処し方ひとつで、かたや飢餓地獄になったり、かたやいつもどおりの豊かな生活を楽しめたりと、道は分かれてしまうのです。 さて、現在の日本のおかれている状況は、天保の大飢饉以上に深刻です。食糧自給率が4割以下という国は、すでに国としての独立を失っています。いったん世界のどこかで火山が大爆発し、世界的な冷害が起き、食糧の生産量が落ちたら、食糧を外国に依存している日本は、たちまちにして飢餓地獄と化すでしょう。「国に三年の蓄えがなければ、その国は国とは言えない」という言葉のように、現在の日本では、大豆も小麦も米も、その備蓄量は、数ヶ月分しかありません。いかに工業力を誇ろうとも、飢えたる腹を満たすものは、五穀しかありません。 飢餓地獄になってその時はじめて、大塩平八郎のように、世界の食糧大国に向って、食糧を奪いに乱を起こすのか、それとも、二宮先生のように先見の明をもって、今日の今から、耕地放棄地・荒地・未利用地を徹底的に活用し、食糧の増産に努めるのか。未来の日本がどうなるかは、ほかでもない現在を生きている日本人一人ひとりの自覚と奮起にかかっているのです。 日本という国土は、使い方を過たねば、世界に冠たる恵まれた国土です。豊葦原の瑞穂の国であり、国土の6~7割が緑の山です。先ず国土の大半を占める山は、三内丸山の縄文社会にならって、日本の潜在自然植生に適った本物の森に戻そう。栗やドングリをもたらしてくれる広葉樹林こそ、災害にも強く、食料不足にも役立つ山となります。落ち葉を活用すれば、田畑の肥料になります。日本の誇る発酵技術を駆使すれば、木の葉からアミノ酸を作ることができるようになるでしょう。そうすれば、あえて畜産・酪農をせずとも、タンパク質は確保できます。水田になるところは、米を作り、畑には大豆や野菜を作る。家々の庭には柿の木を植えておけば、干し柿として保存食糧に役立ちます。 今日の日本人があくせくとしているのは、国の食糧自給率が4割以下であり、エネルギーの自給率に至っては5パーセントであり、常に生活の大半を外国に依存した国家運営をしているからです。二宮先生の道歌にあるように、「我といふその大元を尋ぬれば食ふと着るとの二つなりけり」なのです。日本人の生活の大元がいつも定まっていないので、世界の景気の変動に一喜一憂した、先のおぼつかない暮らしのため、落ち着きがないのです。 日本は世界に冠たる恵まれた国なのです。山と平地を食糧生産の場として徹底的に活用すれば、森が育つ20年後には、食糧大国となり、緑あふれるこの世の極楽浄土となることでしょう。「春植ゑて秋のみのりを願ふ身はいく世経るとも安さ楽しさ」という境地こそ、万代弥栄の道であり、この道を実践哲学によって現実に示してくれた人こそ、二宮尊徳先生であり、この道をわれら現代人も一歩一歩着実に進んでゆけば、世界と戦わずして現実としての極楽浄土を築くことができるのです。」
www.yamato-uta.com/yasaka.htm – 日風水 さん
(pm5.08)
空には、一番星。