桜って名優だと、えらいもんだとつくづく思います。
主役はもちろんこなせるけれど、それにはこだわらず脇役に徹する、手を抜きません。
(↑ 二枚 橋立ユース桜)
そうなのに、とうの主役がいなくなってしまったというところがとみに増えています。特に統合の進む学校。 かえって寂しさがつのります。
そんな中で 、ここ、平治峠の新兵衛地蔵公園。
ここの桜には桜助演俳優賞と言うのがあるならわたしは贈ります。
さて、主役はこの地蔵様。
『 合掌する姿で、高さ五・三メートル。台座も含めると約七メートルもある。文政五(一八二二)年冬、この地を支配していた宮津藩の重税などの圧政に耐えかねた農民が決起した「文政丹後一揆」が起きた。』
一揆前夜の様子を絵本『新兵衛じぞう』はこうつづります。「この丹後地方は、夏なのに雨ばかり降って、お米がわずかしか採れない年が続いた。それなのに、年貢米の他に、人頭税といって、七歳から七十歳までの人が、お金を納めなければならなくなった。百姓たちは、たべるものもままならず、産まれた赤ん坊もお母さんの乳が出ないのでやせ細るばかりだった。」
『「義を見てせざるは勇なきなり」と、三万人とも五万人ともいわれる農民たちを率いたとされ首謀者の一人、常吉村出身の吉田新兵衛は、その責めを受けて処刑された。一揆の十一年後、新兵衛らの霊を慰めるために村などから集められた浄財で像は建立されたと伝わる。』と京都新聞ふる里昔語り137話。
その新兵衛さんが辞世の想いを託したのがこの桜の花。
「桜咲く さくらの山の桜花 ちる桜あれば 咲く桜あり」
梨の木舎の羽田さんもこのいきさつに関心をもって、こんなブログをアップされています。
「宮津藩文政百姓一揆」
『ときは江戸末期文政5年(1822)12月13日。歴史に名高い「宮津藩文政百姓一揆」、丹後半島・宮津藩領の120カ村が一揆をおこす。新兵衛じぞうは、その先頭にたち35歳の若さで打ち首になった義民・新兵衛(とそして一緒に強訴した為次郎、元蔵、大工長五郎)を祭っている。
この経緯が絵本になった。お地蔵さんにまつわる真相を解明したのが、安田正明、安田千恵子のもと小学校教師ご夫妻であり、『新兵衛じぞう』と同時刊行の『資料集 平智地蔵の謎』に解明にいたる古文書が掲載されていて、これもまたおもしろい。
新兵衛たちが処刑されたあと、近隣の常林寺と光明寺の和尚さんと村人が久美浜(丹後半島、天領であった)の代官・蓑笠之助に、お地蔵さん建設予定地の天領への変更を願い出ている。新兵衛たちを祭ろうと考えたが、宮津藩領では許可されない。天領にかえてもらおうとおもいたった。蓑笠之助――この名前にもエピソードがあるようだ――は一揆に同情的であったらしい。調査の上で天領への変更を許している。そして設立のための寄進は、近隣の村人や旅人あわせて7万5000人に及んでいる。多くの人の思いと行動が、おおきな地蔵さんをつくらせ、そしておおきなお地蔵さんであったことが村人の蜂起を今に伝えることになった。新兵衛さん、曹洞宗で、石門心学を学んだ35歳の青年は、不条理への抵抗の術を次の世代にどう引き継ぐか、胸に畳ん』だ想いを桜に託し浄土へ旅立ったと。
先だってフランスのテレビが取材に訪れられたさいそのエピソードにいたく興味を持って取材されたということ。さすがに民権と自由の国フランス(^.^)
原発、消費税増税、TPP、集団的自衛権、さらに温暖化をはじめ50年で江戸時代に戻るであろうとされる人口問題など新兵衛さんはどう思っていらっしゃるのでしょうか。