しゅんたろうさん、谷川俊太郎さんとは「おつきあい」があります、かれこれ40年になるでしょうか、
ただし「教科書」を通してのおつきあいですけれども。そうはいっても、中学校一年から三年生までどこかに俊太郎さんの詩は必ず掲載されているのです、音読なり多少の精読なりを加えるというのを毎年重ねていくと谷川俊太郎さんではなく、「しゅんちゃん」といった感じになるものです(^.^)
さてそのしゅんちゃん、長いつきあいもあってイート&ウオークについて一筆書いてくださいました。ので皆様にご紹介申し上げます。
「名前を付けるという行為は愛情と関心と敬意のあらわれであり、また名前と実体とはきりはなすことのむずかしい関係にあって、それが言語の本質の一つをなしているのは確かですが、目前の一輪の花のせいみょうさな美しさに驚きと畏敬を感ずるとき、それに名前をつけるという行為がどこか自然に対する冒瀆とも思えることがわたしにはあります。~略~花を感ずるには花という集合名詞だけで十分だというのは、星を感ずるのに天文学は要らないと思うのに似ています。一つ一つの花がそれぞれにどんなに微妙繊細に違っているか、その相違にわたしが鈍感だとは思いませんし、好きな花、嫌いな花の区別もあります。でも、花の名はイクラ覚えようとしてもすぐに忘れてしまう。しかし、山菜の名は少しずつ覚え始めています。ごくわずかな違いで食べられたり、毒であったりするからです。目で見るだけでなく食べること,体ぐるみでかかわること、それがわたしには必要なのでしょう。花に限りません、これはわたしの人間とのつきあいにもいえます。人類よりもひとりひとりの個人とかかわることでしか、わたしの言葉は現実と拮抗できないのだと思います。ちなみに、わたしの好みは派手な大輪の花よりも、小さい地味な花のほうに傾きます、そして切り花よりも野生の野花のほうに。」
どうでしたか。
ちなみにこの文章は『ひとり暮らし』草思社刊 「花」の文章です。興味のある方はそちらをお読みください(^.^)
また写真はいずれも新緑と花に埋まる小川弥生さん宅のスナップです。