宮津エコツアー · 貝原益軒さんは上世屋を訪れた!

貝原益軒さんは上世屋を訪れた!

ほほう、これが天橋立、に・ほ・ん・さ・ん・け・い、の!と眺める旅人。

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こうして日本三景としての天橋立を訪れる方がひきもきらない、それは、「養生の術は先ず心気を養うべし。こころを和にし、気を平かにし、怒りと欲をおさへ、うれひ、思ひを少なくし、こころを苦しめず、気をそこなわず、是れ心気を養う要道なり。」と述べられた、旅する医者にして本草学者にして儒学者貝原益軒さんのお陰によるところ大です。
その貝原先生を橋立に導いたのは、江戸時代前期の儒学者の先輩、林春斎先生が、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立・安藝嚴嶋爲三處奇觀」とされた『日本国事跡考』。~当然お読みになっておられるはず~ 林先生が「三處奇觀」とされたのは、もともと月・紅葉・雪が風流な物の代表格でそれに合うロケーションをと指折られて、月なら松島 モミジなら宮島 橋立は 雪。それをあてられたということ。芭蕉さんも松島の月を見たいと旅に出られたわけですし、扶桑随一の文人林先生が選定されたとあっては、貝原先生、相当うずうずされての来丹であったことは想像に難くありません。そうして物にされたのが天の橋立の案内記『己巳きし紀行』1689年。「府中から成相寺へ登ることになり、その坂の途中で、此坂中より天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宜也」と納得されたのです。

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さらに、丹後国天橋立之図も 享保11年(1726)に「扶桑名勝図」として出版。

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(↑ 国立公文書館 デジタルアーカイブ)

天の橋立が世に広まったのは,貝原先生のこうした広報マンとしての働きがあってのことなのです。
さて、ここで問題、この貝原先生が天橋立を取材された際に、①世屋の里に来られた!②まさかこんな山奥の片田舎の村に見える訳がない!

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さて、どちらか?
答えは「ある」という可能性は否定できない!

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根拠は丹後国天橋立之図に書かれた「銚子の滝」その書き方の詳細で念入りであること。紹介文も「幽谷岑寂として塵外の◆境なり」と。

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塵外→「俗世間のわずらわしさを離れた所」。
岑寂→  静まり返り,少しの音もしないさま
◆境→ ◆がわかりません!教えてください。塵外魔境という熟語はあるようですが、。

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濃い意味の言葉を使って形容されている、、、こんな気を入れた書き方は体感無くしてはでてこないはず。

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また、世屋観音堂を「成相奥院」と。これは成相本寺とセットという意味。篭神社と真名井神社の関係のようなもの。成相本寺を見て「成相奥院」を見ないというのは、篭神社を見て真名井神社は見ないのといっしょ。貝原さんほどの目利きの方なら必ず両方を見られるはず。

銚子の滝新緑の頃

村では、遠来の賓客をさぞ歓待されたのだろうとおもいますよ。どぶさもだし、山の珍味を盛りあつめて、、。そして、記録も残されて言い継ぎ語り継がれたはず。しかし、残念なことに昭和19年に世屋は大火災。寺も含めて全焼。貝原先生がいらしたとしても、多くの記録が焼失してしまっているのです。ですから、あくまでも推測、しかし、否定は出来ません。

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銚子の滝に案内したときには、「貝原益軒先生が、この岩に座ってスケッチされたんですよ」とお話しするつもりです(^.^)

長寿健康な時代でありながらストレス管理社会でもある今日、この方はきわめて今日的ですよ。
人柄も、益軒というペンネームの前は「損軒」だったとか、ユーモア抜群。細川ガラシャさん誘致もラインではありますが、益軒さんと天橋立をもっと取り上げてもいいのではないですか。

 

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