この地図、丹後五郡絵地図。
細川さんのあと、丹後の知行者となった京極さんの時代のもので、地名と道路とが政治軍事経済の中心地宮津城を起点にその間の距離を示す一里塚のようなマークも付けられ、水系や谷筋も正確に描かれていて実用的な物になっています。
制作時期は寛永1638~正保1644年ころ。徳川幕府により年貢徴収、あるいは軍事的な目的をもって作られた官撰国絵図正保国絵図を基にしているということです。
さて、宮津城から丹後内陸部に入るルートは赤線で示されています。
①号線 宮津 須津 弓の木 大内峠 三重 口大野 峰山
②号線 宮津 須津 岩滝 男山 山伏峠 五十河 東楽寺
③号線 宮津 天橋立 日置 世屋谷 野間谷 宇川
④号線 宮津 天橋立 日置 波見 岩ヶ鼻 →伊根
→筒川
これらが、「丹後国主要国道」であったと考えていいのでしょう。
この地図の制作は、細川さんが熊本へ転出したあと丹後の知行主になった京極さんということ。年貢や塩、燃料、兵隊などの動く道、コースは、細川時代のものを踏襲していることでしょう。
本能寺の変が1582年。地図の製作は1644年。ということはその五十年前、玉さんは丹後国国道三号線を通ったんだろう、そんなことを思いながら、「細川玉運命の地・味土野」を探しましたら、幹線道路をはずれているじゃないですか。日置からの内陸コースは、下世屋→松尾→東野→小杉→出合→野中と読みとれます。
宮津城から味土野までの経路について、、『京丹後市の伝承・方言』でも、「宮津→(船)日置→せや谷→駒倉峠→味土野」と「いわれている」とされていますが、怪しくなりましたね、「せや谷→駒倉峠→味土野」のコース説は!どうあれ、細川家の「正室」様なら、幹線を通られるはずとおもいませんか!
「味土野山 けふ見る君は 夢ならで 手あたたかき もみじ葉の映え」、玉さん、復縁を認められた喜びの歌とされます。
また、この地図には、水戸谷峠、平治峠、入道峠、高尾峠の道はありません、その後の開設なのだとわかります。
今昔の比較をしながら古地図を見るのは、楽しいものです。