宮津エコツアー · 未分類

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「燃やすべき 今日の心や 椿燃ゆ」    と  上野泰さん。

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ツバキは、燃やされて灰になっても、というより、灰になるから重宝にされるということですね。

「灰日本酒醸造には木灰が必要で、ツバキの木灰が最高とされている。また、アルミニウムを多く含むことから、古くは染色用にも用いられた。しかし、ツバキが少ないため、灰の入手は難しい。」

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赤椿咲きし真下へ落ちにけり  と加藤暁台さん、

また、野見山朱鳥さんも「落椿天地ひつくり返りけり」

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花が仰向けに落下するところをよんでらっしゃいます。 これには理由があって、 雄蕊ごと落ち、根元の部分が重いため、ということです。

「人を見る如く 椿の花円く」  と岸本尚毅さん、

人はツバキに見られている!とされたところはすごいですね。

雑学 

その①「椿」は、実は漢字ではない。日本で作られたいわゆる「国字」という文字で、中国では通用せず、本当の漢字(ああ、ややこしい)での「椿」は「山茶」と書く。

その② 木炭ツバキの木炭は品質が高く、昔は大名の手焙りに使われた。

伊根町菅野の上山神社の前を、奥に約二キロのところに、「福の内」はあります。

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人のいなくなった里を守ってらっしゃるのが、六体のお地蔵様。

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かぶり物が時代劇そのままで、いずれも男前で、知的で、品のいいお顔なのです。

背後にかいてある履歴がまた、すばらしい達筆です。

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読むと、制作年代は、享保年間とあります。享保は1716年から1736年の間。

同八年とかいてありますから、1724年。享保といえば、時の将軍は徳川吉宗さん主導の改革と大飢饉、

国家政策・公共政策

倹約と増税による財政再建を目指し、農政の安定政策として年貢を強化して五公五民に引き上げて、検見法に代わり豊凶に関わらず一定の額を徴収する定免法を採用して財政の安定化を図る。治水や、越後紫雲寺潟新田や淀川河口の新田などの新田開発、助郷制度の整備を行う。米価の調整は不振に終わった。青木昆陽に飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培研究を命じ、朝鮮人参なたね油などの商品作物を奨励、薬草の栽培も行った。日本絵図作製、人口調査。国民教育、孝行者や善行者に対する褒章政策。サクラモモなどの植林

地蔵制作は、木津郷、今の網野町の石屋に制作を依頼、とあります。木津付近には、凝灰岩の山があります、tuff、タフとも呼ばれ火山灰が地上や水中に堆積したもので、細工のしやすい岩です。

完成時には、村中総出で一体一体を背に負うて連れかえったと伝えますから、村にとっては大事業です。そこには、どんな動機があったのでしょうか、、、、それに言及する記述は残念ながらありません!。

さて、ふくのうち・福の内、この地名も気になります。

「内」に着目して見れば解けるかもしれません。

内を含む代表格、ブナ林で有名な今の「内山」(京丹後市)はかっては「おちやま・落山」と標記していたといいます。「内」が「落ち」の変化したものなら、谷内(大宮町・丹後町)は谷落ち。大内峠(与謝野町)は、大落ち峠。

このように考えれば、「福の内」の「内」も、「落ち」。

では「落ちる、崩れる」ことがなぜ「福」なのか、そこが不思議、ですけれども、崩れるたびに逆にそれを利用して棚田をひろげ住み続け氷河の谷のような丸みを持った優しい里山景観、それが丹後半島特有の地滑り地形であることと関係しているかもしれません。

重機のない時代、地滑りは農地拡大のチャンスでもあったのです。

「福の内」の「福」と「内・落ち」との関係には、、「聖人の事を制するや、禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す」(戦国策)自然への畏れと共に新しい土地を作ってくれたことへの感謝すら感じられます。 お地蔵様たちを見ていると、「地滑りも福の内さ」とうそぶく声が聞こえるように感じました。。五公五民、半分は年貢に取られます、絞ればしぼるほど、という圧政を、としたたかに知恵を寄せ合い力を合わせて乗り越えるのに、このお地蔵たちがどんなにか力になったことを思いました

こんな百姓の気持ちを、二百年も三百年も伝えてくれ、そのためにはいい石でなければならない、石を選ぶ村人のきびしい眼がいま、私たちにお地蔵様を見せてくれているのでしょう。

ところで、享保の飢饉は 17 (1732) 年。暖冬に次ぐ冷夏で,虫害を伴い,米の大凶作が起ったと言バンク。「暖冬に次ぐ冷夏で虫害を伴い」というところが今年の冬に似て、今年の夏が気になるところです。

もう一つ、福の内のとんでもなさ!関ヶ原の戦の前年にあたる慶長四年(一五九九)のものとわかる資料があるといいます。

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孫太郎稲荷(桑飼神社)www.geocities.jp/k_saito_site/doc/sugano.

孫太郎稲荷
福之内の桑飼神社に、孫太郎稲荷社再建の棟札が残されている。関ヶ原の戦の前年にあたる慶長四年(一五九九)、細川忠興に係わるもので、四○○年の風雪に耐えたこの棟札は、右下の角の一部を欠いて虫喰いもひどいが、文字ははっきりと読み取ることができる。
上部は幅一八センチ、下部は幅一二センチ、長さ二七センチの剣先型の棟札で、表の中央に「大願主当国大守細川越中守殿」とあり、右側に「為当国安全怨敵敗亡」と記され、左側に「祭主三獄坊氏子惣代利右衛門」と書かれている。
裏面には「是慶長四己亥年五月日再建天神地祇八百万神孫太郎神国中安穏処、丹後国與佐郡菅野村孫太郎」と記されている。「孫太郎」は、太鼓ヶ岳山系の旧野間村と菅野村の境附近で、この地に八八の谷があるといわれ、その一部の谷が「孫太郎」である。土地の人々のいい伝えによると、平家の落武者一六人がこの地にのがれて住みついたといわれ、土地の名前も落人の姓をとって名付けられ、井上・昌蒲・牧・平家・藤の原・孫太郎・瀬戸などの名がある。福之内の住民はもと瀬戸に居住し、孫太郎稲荷が慶長四年(一五九九)五月、再建された当時に現在地に移住したと伝えられている。
この孫太郎稲荷社は、細川忠興が同年十一月に分神を宮津の大久保に勧請しているが、山間僻地の菅野から一国の太守細川忠興が、何の因縁によって大久保城の守護神とされたのか明らかでない。
戦国末期に菅野城主三冨将監通論の父山内伊勢守と、細川忠興の父藤孝は共に将軍足利家の家臣であり、常に京都御所に参会し、公私にわたって親しく交わり旧友の間柄であったことから、天正十年(一五八二)菅野城が落城したのち、二人の旧縁によるものかとも考えられる。
棟札にある「怨敵敗亡」の「怨敵」は何を意味しているのであろうか。豊臣秀吉は慶長二年(一五九七)再度朝鮮に出兵したが、同三年(一五九八)八月十八日に死亡し、同四年(一五九九)には大坂城をめぐって石田三成・徳川家康・前田利家など重臣の間に一触即発の不穏な状況があり、石田三成から徳川家康に、忠興が宮津で謀反の準備をしているという密使が飛び、父幽斉は家康の臣永井直勝に会って弁明したが疑いが晴れず、十月には細川幽斉・同興元・松井康之三名連一記の誓紙を家康に差出しやっと許されるなど、忠興にとっては波乱に満ちた年であった。「怨敵」の文字は朝鮮再征の直後であり、国内の紛争によるものではなく、やはり明・朝鮮の外敵を意味しているのであろうか。その後忠興は慶長五年(一六○○)正月二十五日に、三男忠利を人質として江戸に差し出し、二月七日宮津より豊後国六万石を与えられ、閏四月十五日九州に赴き、同年秋には天下分け目の関ヶ原の合戦に、東軍徳川家康の陣に加わり戦功を挙げている。丹後の諸史に現れている孫太郎稲荷と細川忠興について、その一部を拾ってみると次のような記事がある。…
この神社は文政の百姓一揆に関係した坂根氏が、代々神官を勤め明治まで続き、明治八年(一八七五)土地改革により京都府より発行された稲荷社の地券が、坂根家の縁者伊根町字亀島の奥家に残されている。…

 

しかしかしかしか

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しかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしか

「ほんまに多いいですでぇ!」

多鹿にそうです、

 

巨樹の調査で訪れる神社でも、巨樹はあっても、幼樹がありません。

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社叢林の健康、老木、古木が倒れてギャップが出来、新しい後継樹が伸びていく、というシステムがあるのが健康な森とすれば、更新のシステムそれが壊れている、そこが問題なんだ、そこで困っているんだと訪れる先々の神様の悩みがきこえるようです。

なので、「鹿を食べよう!」さらに、「鹿で食べよう」となっても当然のことです。ところが、それはあかん、あかんですよ、というかたがいらっしゃったことが丹後には伝わっています。

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それを寺院の縁起として伝えているのが、伊根・朝妻の里の日蓮宗のお寺妙国寺です。

この生き物愛、恐るべし!このとき、鹿に情けをかけ狩りを中止することがなかったら、今の鹿問題は起こっていなかったかも知れません。というのは、置いておいて、、、、!単なる生き物愛、なら、和泉式部さん、いらんこというっちゃあ!と批判されますよ。

かのたわらのとうたこと藤原保昌と和泉式部と、当時のスターが登場させ、600人、 丹後の国司です、丹後の国中から僧を集めて法要の目的はなんだったのでしょうか。なぜ、鹿でなければならないのか、聖獣なので鹿が用いられたので、別に鹿でなくても、イノシシでもスズメでもいい、カラスでもキジでもよかったのかもしれません。そう考えると、キーワードは、「山川草木悉皆成仏」 という仏語にあるのかもしれません。

「山川草木悉皆成仏」の思想を説き広めること、それが目的、意図だった、、、

検索してみると、

、、、、、、、、、

涅槃経』で説かれる言葉。草木国土のような非情なものも,仏性を具有して成仏するという意。この思想はインドにはなく,6世紀頃,中国仏教のなかに見出されるが,特に日本で流行した。日本では空海が最初といわれ,次いで天台宗円珍や安然らによっていわれた。それが鎌倉時代になって,親鸞道元,日蓮らによって主張され,やがて謡曲にこの言葉は多く出てくるようになった。

、、、、、、、、、、、

時は乱世戦国に移ります、よりたかい次元での新しい人間愛が求められる時代の出来事だったのではないかな、とおもいながら、このエピソードを読んだことです。

それにしても、しかしかしかしかしかしかしかしかし、

このままだと、生えているのはアセビばかりという「奈良公園」化する可能性すら否定できないのが、丹後の実情。

和泉式部さん、ええ知恵ありませんか、悩ましいところです。

それはそうとしておいてついでに、おまけ

その①

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第26話 山川草木悉皆成仏

山川草木悉皆成仏 挿絵

ある修行僧が草も木も成仏するという話を聞いて、どうしても理解できず、尊敬する学僧に、自分で考えたり修行したりすることのない草や木がどうして成仏するのでしょうかと尋ねた。

そのとき、学僧は、あなたは草木成仏のことを尋ねられたが、それではあなた自身の成仏のことはもうおわかりかな、と逆に質問してきた。

修行僧は、はっと気づくところあって、「恐れ入りました。よくわかりました」と御礼を述べて引きさがったという。
学僧の言ったことが、どうして草木成仏の答えになっているかというと、何も草や木が功徳を積んで仏になるのではなく、草や木を見る人間が仏になるとき、草や木もいっしょに仏になるのであると教えたわけである。

わたしどもは自身が仏になったとき、天地も山も川も、草木もすべてがまた仏になると知るべきである。

 

維摩経いうお経に「心浄ケレバ土モ亦浄シ」とある。
そこに住む人達の心が美しいと、自然にその国土もきよらかになってゆく。
自分が仏になることと、妻を仏にすることとは別々ではない。
妻を仏にする道が自分が仏になる道であり、自分が仏になる道が、やがて妻を仏にする道なのである。

これを自他一如、内外一如という。

 

おまけ ② 柳田国男 子ども風土記

 

鹿・鹿・角・何本

一昨年の九月、米国ミズリー大学のブリウスタアという未知の人から面白い手紙の問合せを受けた。もしか日本にはこういう子供の遊戯はありませんかという尋ねである。一人の子が目隠めかくしをして立っていると、その後にいる別の子が、ある簡単な文句で拍子ひょうしをとって背なかをたたきその手で何本かの指を出して、その数を目隠しの子に当てさせる。英語では問いの文句が、

How many horns has the buck?「いかに 多くの 角を 牡鹿おじかが 持つか」

ドイツのも全くこれと同じだが、国語のちがいで一言葉ひとことば少なく、イタリアでは四言葉、スウェーデンやトルコなどは二言葉ふたことばで、やはり意味は鹿の角の数をくことになっている。目隠しをする代りに壁にもたれ、またつんいになって、その背にまたがって、指を立てて問う例もある。もう長いあいだかかって調べていると見えて、これ以外にスコットランド、アイルランド、米合衆国、フランス、ベルギー、オランダ、ギリシア、セルビア、ヘルツェゴビナ、エストニア、スペイン、ポルトガルにも同じ遊びのあることを確かめたといっている。日本にももしかそれがあったら、面白いと思うがどうかという質問である。
古い文献では、ペトロニュウスの諷刺詩ふうししの一つにも出ているという話である。あったらなるほど面白いが、どうもまだ聞いたことがないようだ、と皆がいうので、一応そういう返事をして置いて、なお念のため『民間伝承』の会報にこの手紙を訳して載せておくと、ほどなく二ヵ所から、あるという報知がやって来た。ありませんなどという答えはめったにできるものでないということを、しみじみと我々は経験したのである。
滋賀県の今津いまづ近くの村では、少なくとも二十年ほど前まで、この遊びをしたということを、長浜女学校の三田村君がまず知らせてくれた。じゃんけんに負けた一人の子は、窓のへりなどにつかまって身をげていると、勝った方の子がそれに馬乗うまのりになって、指を出して、その数を下の子にいい当てさせ、それが当るまではこの問答をくりかえし、あたれば今度は上の子が答える番にまわるのだそうである。馬乗りになるだけで、もう背なかは打たなかったらしいが、やはりその文句は、

鹿しか鹿しかつの何本なんぼん

と、くぎってとなえていたという。
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あてもの遊び

鹿の角なら二本にきまっているようなものだが、これは角のまたがいくつにわかれているかということらしい。御存ごぞんじの通り牡鹿おじかの角は、成長するにつれて枝の数が多くなり、五本ぐらいがまず大鹿である。単に子どもの指の遊びに似つかわしかったというだけでなく、山の猟師りょうしにとっても重大な問題で、毎度おそらくは声を立てずに、こうして指を出して相手に知らせ、またはうわさをしていたことがあったろうかと思う。それを子どもが遠い遠い昔に学んで忘れずに持ち伝えていたものらしい。今日の語でいうと、この遊戯は生活に即している。
これがもし琵琶湖岸びわこがん片隅かたすみに、たった一ヵ所しかない例だったら、或いは近年米国の宣教師が来て、教えて行ったろうなどと、ありもせぬことを想像してすます人が多かったろうが、幸いなことには九州に一つ、飛び離れて同じ「鹿なんぼ」の遊びがあった。久留米くるめ中学校の峰元みねもと君は、近ごろ市中でこの遊戯を子どもがしているのを見かけたと報ぜられた。それから附近の村里を問合せてみたが、三井みい郡にはたしかにあって、他の郡にはまだあるという人を知らぬという。私も強い断定は差控さしひかえるが、これは近江おうみから、または近江へ、ちかごろ輸入したものでないということはまあ言えそうである。
ただし詳しい方式はもう一度見なおす必要がある。熱心なブリウスタア氏に知らせてやりたいのは、久留米の方でも背なかをたたかないかどうか。「鹿なんぼ」という文句があまり簡単だから、あるいはこれも馬乗りの方かも知れぬが、文句が残っている以上はもと拍子ひょうしをとって、叩いていたのではないかと思う。
これによって、ふと心づくことは、今でも東京の小学校の子どもが、別れるときなどにちょいと立ちもどって、

おみやげ 三つに 気がすんだ

というたぐいの、どうしても意味のとれない文句をとなえて、友だちの背なかを打つことである。流行といってしまえばそれでも説明はつくが、あまりにも無意味だから何か別の形があり、それが鹿・鹿・角・何本でないまでも、少しはこれに近いような「あてもの遊び」が、行なわれていた名残なごりではないかと考えている。人の背なかを打つということは、そう軽々しいたわむれではない。それでも喧嘩けんかにはならぬだけの約束が、かつてはこれを許していたもの、といっても理由が一つあるのである。

なんだ、これは?

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「ぼたいじゅ菩提樹」なんだそうです。

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細い葉の真ん中から下がる種、空に放つとくるくる伝回りながら飛びます。

丹後では与謝野町下山田のお宮さんにあります。

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このお社、「明境社」。

よめません、「あけさい」さんとよぶんだそうです。

もう一つの謎、

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天橋立に松の苗を植えたのは、ここのご祭神さん、八千本全部を一夜のうちに植えたんだと伝えられています。植林造林をする神様ということなんでしょうか、それにしても、気になるのは、一晩のうちにというところ。阿蘇海を閉ざした砂嘴がどのように出来たのか、いろんな議論がされています。地震地滑りを想定する説明もあります。この伝承はその謎にふれているのかもしれません。

 

、゜

 

冬ソナの樹に冬

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三本のこの樹たちの胸高周径、いずれも3m以上。環境省巨樹基準を満たしています。

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なかでも、周径370cmの樹は、環境省巨樹データベースに登録されている、メタセコイアの部では全国三位相当。

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とはいうものの、メタセコイアの場合は、この比較にはあまり意味がないようです。

「メタセコイアの化石は日本各地の新生代第三紀層に見られ、カナダ北部・シベリア・グリーンランドなど北半球の北極周辺に広く分布していた[3]。1939年に日本の関西地方の第三紀層で、常緑種のセコイアに似た落葉種の植物遺体(化石の1種)が発見された[4]。発見者の三木茂により、セコイアに「のちの、変わった」という意味の接頭語である「メタ」をつけて[5]「メタセコイア」と命名され[6]、1941年に学会へ発表された[7]。それまで発見されていたヌマスギやセコイアと異なると考え、メタセコイア属を設けた。また、落葉樹であることも推定した[5]。
当初、「化石」として発見されたために絶滅した種とされていたが、1945年に中国四川省磨刀渓村(現在は湖北省利川市)の「水杉(スイサン)」が同種とされ、現存することが確認されたことから「生きている化石」と呼ばれることも多い。
1949年に日本と皇室がそれぞれメタセコイアの挿し木と種子を譲り受け、全国各地の公園、並木道、校庭などに植えられている。」とウィクペディァ。

つまり、全国のメタセコイアはみな同い年、70歳。最高が420cm、二位380cm、、、、その差は土質とか環境だけの違いなのでしょう。

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金さんがここにたったのは昭和11年、1936年。金さんは83歳。メタセコイアは13歳も若いのに、これだけの樹に。この成長力ははんぱないですね。

上世屋校庭跡のこの樹のおもしろいのは、この付近の化石地層からメタセコイアの葉っぱ化石が見つかっていますから、その意味で、先祖と巡り会ったというのか、ふるさとへ里帰りしたということなのかなと思います。

「これからも成長を見守っていきたいです」

 

 

 

 

 

 

生きている化石と

 

ですょは、

丹後半島の真ん中に谷を掘り下げる宇川、

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野間の霰付近では、基盤の花崗岩がむき出しになっています。

これらの岩の形成は5100万年とのこと。

木子や駒倉の里を水源にし、岩を巡る水は限りなく澄んでいます。

ところが、この川の生き物に異変があるといいます。

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見えるはずの魚影が見えないのです。

大きなウグイが泳いでいたけど、と話を向けると、「さあそうだあな、いなくなったんだ」と。さらに、姿を消して、五、六年になる。

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ウグイは

「産卵は、4~6月ころの水温が11-13℃に上昇する時期に始まり、直径2mm程度で粘着性のある淡黄色の卵を、流速10㎝/s以下の緩流部で藻の付着していない小石に産み付ける。卵は、水温13℃程度で約1-3週間かかり孵化する。孵化から1年目に約5cm、2年目に10-15cm程度に成長し、2-4年目で繁殖活動を行う。」という魚。この継続を出来なくした理由。水質に問題があるとはまずかんがえられない、見当をつけているのは、最近度重なっている集中豪雨。

産卵時期に起きると卵や稚魚が流されるし、親魚も堰堤の下まで流されると、再度のぼってこれない、そう話されるのです。確かに土手には洪水の生々しい爪跡。

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自然界の厳しさは想像できます。しかし、それをしのいで生き続けた川の住人の一種が、姿を消したのが最近のことというのは、気になるところ。ウグイは生態系の大切な構成種、そのバランスが崩れたというのは、軽視できないかもしれません、

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ウグイのためにも原因を解明しておくことが大切なのではないかと思いました。

 

 

 

細川たまさんが辿ったであろう丹後の海の路、山の道を歩きます!

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その味土野へのルートについて、細川家正史に記録はありません。小説家三浦綾子さんはこう想像しました。

「敵を欺くためには、味方から欺かねばならぬ。」という幽斎のすすめもあって、玉子が城を出る姿を、家中でみたものはない。夜陰に乗じて宮津の浜から舟に乗り、伴のもの数人と、警護のもの二十名ほどに守られて、日置の浜に渡った。
略 日置の浜で、ほんの二ときばかり舟の中でまどろみ、夜の明け切らぬうちに一行は味土野に向かったのだ。途中の山道のけわしさも、並大抵ではなかった。男でもたやすく登れるところではない。

一方、小説家永井路子さんの想定した道は陸路です。。

追われるように宮津の館を出て、炎熱に焼かれながら、山肌にしがみつき、夏草のしげみをかき分けながら、この味土野の山奥にたどり着いたのは夏のさなかだった。従者に輿脇を護られて夜明けに宮津を出た一行は、暫くの間は、松の木越しに海の見え隠れする道を辿ったが、岩滝の部落から、北へ向かうと、しだいに山が迫ってきて、輿もそのあたりで棄てねばならなかった。

小説家二人の想像は違います。今回は、三浦ガラシャを採用します。

古道について、『伊根町史 下 伊根町の旧道』は、こう語ります。
「古く道路は主として山沿いにつくられ、至るところに峠があって、ほとんどが徒歩であった時代には、山道は近道ということが最大の条件であり、どんな急坂もいとわなかった。各集落を結んで、山裾や川沿い、海岸沿いの道を通って、峠を越すには近道が選ばれ、人のやっと通れる道で、道幅は一㍍足らずであり、山村では車の通れるような道路はなかった。また農村にあっては、田をつぶさないことが極めて重要であったので、平地ではずいぶん曲がりくねった道がつくられていた。道幅はせまく、荷物の運搬は人の背や肩でかつぎ、重い荷物は牛の背にのせて運んだ。旧街道筋のあちこちに、今も残る観音堂や多くの石地蔵と共に三界万霊塔、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経などの碑が各地に建立されて、「道しるべ」とともに旅路の安全を祈り、峠のけわしい道の上がり下りに、道行く人々にやすらぎをあたえている。」

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人が「蟻」だった時代の道は、木立や藪に埋まっていますけれど、山道は近道ということが最大の条件!そんな目で見れば、たまさんの辿った道も見えてくるはず。玉さんが、先に立って道案内してくださるかもしれませんよ。

 

十月に入った内山ブナ林。

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「冬に向かい日照時間が減少すること、日平均気温ではなく日最低気温の低下、空気中の湿度、それらの継続日数など、種々の条件が関係して」紅葉が始まる、気温の目安は八度ということですので、紅葉の楽しみはもうしばらく先にとっておいて、今は、色とりどりのキノコが森の楽しみ。

白いキノコ(シロオニタケ!)

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(※外観が類似した種類が数多く、しばしば互いに混同されている。シロオニタケモドキ(Amanita hongoi Bas)はつばがより堅くて厚く、脱落しにくいことや、胞子がシロオニタケのそれよりも僅かに大きいことで区別されている。ササクレシロオニタケ(Amanita cokeri (Gilb. & Kühn.) Gilb. f roseotincta Nagasawa & Hongo)は柄の基部が徳利状に太くならず、つばより下には、さかむけ状のささくれを生じ、子実体は成熟すると次第に淡い鮭肉色~ピンク色を帯びてくる。またタマシロオニタケは全体に小さく、柄の基部は徳利状に太まらず、カブラ状に丸く膨れることで異なっている。オニゴロシオニタケシロトックリシロイボタケ)

紅いキノコ(ドクべニタケ!)

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(※ひだは白色。は白色でとても辛く無臭。硫酸鉄(II)水溶液と反応しピンク色に変色する。は白色。有毒。毒成分はムスカリン類、溶血性タンパク。)

茶色キノコ(?!)

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台風後に入ると風で落とそれた木の実も楽しい。

ナナカマド。

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アズキナシ

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これは珍しい!

 

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オオウラジロじゃないですか!

母樹はこれ。

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高山山塊で確認出来ている木は二本だけ。「冷温帯落葉樹林の構成種と思われる。府内でも産地、遺存的に残っているが個体数ともに少ない。」と京都府指定の準絶滅危惧種。

また、内山の里跡には、ミカエリソウ。

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ただし、これは植栽されたもの。人が去った水源の里に眠る里神様の鎮めに植えたというその気持ちは共有出来ます。

(※口丹波の山地、特に右京区京北や南丹市美山町などでは、山の斜面を覆い尽くすほど自生している場所も多く見られ、ポピュラーな秋の花の1つです。また日陰で少し湿り気のある場所なら低山の山麓から、標高924㍍の愛宕山の山頂付近まで自生しています。)

ふらっと世屋街道にはいってみなさい!

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一人で見るのはもったいないええもんに出会いますよ

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今は、コスモス!

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倒れても、倒されても上を向いて花を咲かせるコスモスはかっこいいですよ。

 

ハイ、ジョーモン!といって指を三本たてるのが、最新のトレンド。

ピースサインは古いのだそうです、

ジョーモンは縄文、土器に焼かれている人物が三本指を立てているからと。

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それはそうと、元気がでるでぇ、若い子がきてくれると!いうのは、上世屋のお百姓さん。

一緒に写るのは高校生たち。

ここのお百姓の伝える農法は日本でももっとも古い形のものだけれども、もっとも人間的で高い教育力をもっているからとクラブ活動の一環でやってきてくれたのです。

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米は連作可能で、一粒から芽生えた稲が株分かれして、計二千粒にもなる、また、見方を変えれば、太陽エネルギーを人のエネルギーに変えてくれるそういう意味でもっとも優れた太陽電池だとどなたかがおっしゃっていましたが、そういうことを体感していくことは、里山を守る第一歩。

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温故知新!

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今だけ、ここだけ、あなただけ!

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日本の里100の里・上世屋のお百姓と高校生が出会い、稲を刈って縛って掛ける、そこに伝わる経験から生まれたいくつもの奥深い工夫を若い世代が学んだ一日でした。

 

 

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