しかしかしかしか
しかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしか
「ほんまに多いいですでぇ!」
多鹿にそうです、
巨樹の調査で訪れる神社でも、巨樹はあっても、幼樹がありません。
社叢林の健康、老木、古木が倒れてギャップが出来、新しい後継樹が伸びていく、というシステムがあるのが健康な森とすれば、更新のシステムそれが壊れている、そこが問題なんだ、そこで困っているんだと訪れる先々の神様の悩みがきこえるようです。
なので、「鹿を食べよう!」さらに、「鹿で食べよう」となっても当然のことです。ところが、それはあかん、あかんですよ、というかたがいらっしゃったことが丹後には伝わっています。
それを寺院の縁起として伝えているのが、伊根・朝妻の里の日蓮宗のお寺妙国寺です。
この生き物愛、恐るべし!このとき、鹿に情けをかけ狩りを中止することがなかったら、今の鹿問題は起こっていなかったかも知れません。というのは、置いておいて、、、、!単なる生き物愛、なら、和泉式部さん、いらんこというっちゃあ!と批判されますよ。
かのたわらのとうたこと藤原保昌と和泉式部と、当時のスターが登場させ、600人、 丹後の国司です、丹後の国中から僧を集めて法要の目的はなんだったのでしょうか。なぜ、鹿でなければならないのか、聖獣なので鹿が用いられたので、別に鹿でなくても、イノシシでもスズメでもいい、カラスでもキジでもよかったのかもしれません。そう考えると、キーワードは、「山川草木悉皆成仏」 という仏語にあるのかもしれません。
「山川草木悉皆成仏」の思想を説き広めること、それが目的、意図だった、、、
検索してみると、
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『涅槃経』で説かれる言葉。草木や国土のような非情なものも,仏性を具有して成仏するという意。この思想はインドにはなく,6世紀頃,中国仏教のなかに見出されるが,特に日本で流行した。日本では空海が最初といわれ,次いで天台宗の円珍や安然らによっていわれた。それが鎌倉時代になって,親鸞,道元,日蓮らによって主張され,やがて謡曲にこの言葉は多く出てくるようになった。
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時は乱世戦国に移ります、よりたかい次元での新しい人間愛が求められる時代の出来事だったのではないかな、とおもいながら、このエピソードを読んだことです。
それにしても、しかしかしかしかしかしかしかしかし、
このままだと、生えているのはアセビばかりという「奈良公園」化する可能性すら否定できないのが、丹後の実情。
和泉式部さん、ええ知恵ありませんか、悩ましいところです。
それはそうとしておいてついでに、おまけ
その①
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第26話 山川草木悉皆成仏
ある修行僧が草も木も成仏するという話を聞いて、どうしても理解できず、尊敬する学僧に、自分で考えたり修行したりすることのない草や木がどうして成仏するのでしょうかと尋ねた。
そのとき、学僧は、あなたは草木成仏のことを尋ねられたが、それではあなた自身の成仏のことはもうおわかりかな、と逆に質問してきた。
修行僧は、はっと気づくところあって、「恐れ入りました。よくわかりました」と御礼を述べて引きさがったという。
学僧の言ったことが、どうして草木成仏の答えになっているかというと、何も草や木が功徳を積んで仏になるのではなく、草や木を見る人間が仏になるとき、草や木もいっしょに仏になるのであると教えたわけである。
わたしどもは自身が仏になったとき、天地も山も川も、草木もすべてがまた仏になると知るべきである。
維摩経いうお経に「心浄ケレバ土モ亦浄シ」とある。
そこに住む人達の心が美しいと、自然にその国土もきよらかになってゆく。
自分が仏になることと、妻を仏にすることとは別々ではない。
妻を仏にする道が自分が仏になる道であり、自分が仏になる道が、やがて妻を仏にする道なのである。
これを自他一如、内外一如という。
おまけ ② 柳田国男 子ども風土記
一昨年の九月、米国ミズリー大学のブリウスタアという未知の人から面白い手紙の問合せを受けた。もしか日本にはこういう子供の遊戯はありませんかという尋ねである。一人の子が目隠しをして立っていると、その後にいる別の子が、ある簡単な文句で拍子をとって背なかを叩きその手で何本かの指を出して、その数を目隠しの子に当てさせる。英語では問いの文句が、
ドイツのも全くこれと同じだが、国語のちがいで一言葉少なく、イタリアでは四言葉、スウェーデンやトルコなどは二言葉で、やはり意味は鹿の角の数を訊くことになっている。目隠しをする代りに壁にもたれ、また四つん這いになって、その背に跨って、指を立てて問う例もある。もう長いあいだかかって調べていると見えて、これ以外にスコットランド、アイルランド、米合衆国、フランス、ベルギー、オランダ、ギリシア、セルビア、ヘルツェゴビナ、エストニア、スペイン、ポルトガルにも同じ遊びのあることを確かめたといっている。日本にももしかそれがあったら、面白いと思うがどうかという質問である。
古い文献では、ペトロニュウスの諷刺詩の一つにも出ているという話である。あったらなるほど面白いが、どうもまだ聞いたことがないようだ、と皆がいうので、一応そういう返事をして置いて、なお念のため『民間伝承』の会報にこの手紙を訳して載せておくと、ほどなく二ヵ所から、あるという報知がやって来た。ありませんなどという答えはめったにできるものでないということを、しみじみと我々は経験したのである。
滋賀県の今津近くの村では、少なくとも二十年ほど前まで、この遊びをしたということを、長浜女学校の三田村君がまず知らせてくれた。じゃんけんに負けた一人の子は、窓のへりなどにつかまって身を曲げていると、勝った方の子がそれに馬乗りになって、指を出して、その数を下の子にいい当てさせ、それが当るまではこの問答をくりかえし、あたれば今度は上の子が答える番にまわるのだそうである。馬乗りになるだけで、もう背なかは打たなかったらしいが、やはりその文句は、
と、くぎって唱えていたという。
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鹿の角なら二本にきまっているようなものだが、これは角の叉がいくつに岐れているかということらしい。御存じの通り牡鹿の角は、成長するにつれて枝の数が多くなり、五本ぐらいがまず大鹿である。単に子どもの指の遊びに似つかわしかったというだけでなく、山の猟師にとっても重大な問題で、毎度おそらくは声を立てずに、こうして指を出して相手に知らせ、または噂をしていたことがあったろうかと思う。それを子どもが遠い遠い昔に学んで忘れずに持ち伝えていたものらしい。今日の語でいうと、この遊戯は生活に即している。
これがもし琵琶湖岸の片隅に、たった一ヵ所しかない例だったら、或いは近年米国の宣教師が来て、教えて行ったろうなどと、ありもせぬことを想像してすます人が多かったろうが、幸いなことには九州に一つ、飛び離れて同じ「鹿なんぼ」の遊びがあった。久留米中学校の峰元君は、近ごろ市中でこの遊戯を子どもがしているのを見かけたと報ぜられた。それから附近の村里を問合せてみたが、三井郡にはたしかにあって、他の郡にはまだあるという人を知らぬという。私も強い断定は差控えるが、これは近江から、または近江へ、ちかごろ輸入したものでないということはまあ言えそうである。
ただし詳しい方式はもう一度見なおす必要がある。熱心なブリウスタア氏に知らせてやりたいのは、久留米の方でも背なかを叩かないかどうか。「鹿なんぼ」という文句があまり簡単だから、あるいはこれも馬乗りの方かも知れぬが、文句が残っている以上は元は拍子をとって、叩いていたのではないかと思う。
これによって、ふと心づくことは、今でも東京の小学校の子どもが、別れるときなどにちょいと立ちもどって、
という類の、どうしても意味のとれない文句を唱えて、友だちの背なかを打つことである。流行といってしまえばそれでも説明はつくが、あまりにも無意味だから何か別の形があり、それが鹿・鹿・角・何本でないまでも、少しはこれに近いような「あてもの遊び」が、行なわれていた名残りではないかと考えている。人の背なかを打つということは、そう軽々しい戯れではない。それでも喧嘩にはならぬだけの約束が、かつてはこれを許していたもの、といっても理由が一つあるのである。