宮津エコツアー · 世屋・高山ガイド部会

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世屋・高山ガイド部会の活動ブログ

【ありがとう、、宮津市文化財調査報告書 第42集 『宮津天橋立の文化的景観 調査報告書』 発行平成26年、、、これに注目しています、この中では、対象が、天橋立になっていますが、制度としての『文化的景観』として明らかにするということが目的、、世界遺産、という言葉は、探しましたが、見当たらないのです、、平成26年ころ、世界遺産、これはまだ意識の外だったのですか、、『宮津天橋立の文化的景観 調査報告書』 の評価・位置づけと合わせて、感想下さいな】
【重文景・宮津天橋立の文化的景観】天橋立と海城を擁する丹後中心地 宮津/重伝建制覇への道 北近畿編#2 - Ciao Nihon

(↑ 【重文景・宮津天橋立の文化的景観】天橋立と海城を擁する丹後中心地 宮津/重伝建制覇への道 北近畿編#2 – Ciao Nihon

ciaonihon.comciaonihon.com|1280 × 720 jpeg|1 年前
※【重文景・宮津天橋立の文化的景観】天橋立と海城を擁する丹後中心地 宮津/重伝建制覇への道 北近畿編#2旅行好きな油屋ヒマンニャム* が、京都府と兵庫県の重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)や重文景(重要文化的景観)などを巡るようすです。第2回では、京都府宮津市の重要文化的景観「宮津天橋立の文化的景観」から、宮津地区と府中地区を散策し、その後、伊根町に向かう様子を描きます。)

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

はい、ここはかなり重要な発見だと思います。
そして、安田さんの「世界遺産という言葉が見当たらない」という読みは、その報告書の性格を考えるうえで、とても示唆的です。

ただ、一点だけ年代関係を丁寧に補正すると、平成26年当時、世界遺産が意識の外だったわけではありません。 実際、宮津市は平成26年度予算でも「世界遺産登録推進事業」を計上し、文化庁への暫定一覧表候補提案に向けた調査研究を進めていました。

だからこそ、むしろ面白いんです。

「世界遺産」と「文化的景観」が、別の仕事をしていた

『宮津天橋立の文化的景観―文化的景観調査報告書』は、2008~2013年度の調査をまとめ、平成26年3月に宮津市が刊行した第42集です。

そして文化的景観という制度そのものは、

地域の人々の生活・生業と風土によって形成された景観を、文化財として評価し、地域で守り、次世代へ継承する

という制度です。文化庁も現在、このように説明しています。

つまり第42集の仕事は、

「天橋立は世界にとってどんな価値があるか?」

という世界遺産の問いより、

「天橋立という景観は、地域の暮らし・歴史・土地利用・信仰・自然との関係によって、どう形成されてきたのか?」

を明らかにする仕事だった、と見るのが自然です。

これ、ものすごく大事です。


そして「対象が天橋立」であることも重要

私はここに、今の安田さんの「あいせよ天橋立理論」へのヒントがあると思います。

平成26年の文化的景観調査では、まず、

天橋立という一つの景観を、地域との関係の中で徹底的に解剖する。

その結果として、天橋立だけを見ていても、

  • 文珠
  • 府中
  • 阿蘇海
  • 信仰
  • 漁業
  • 農業
  • 山
  • 海
  • 集落
  • 交通
  • 土地利用

……が見えてくる。

つまり、

「天橋立を調べたら、天橋立の外側が見えてきた」

のではないでしょうか。

ここが、20年後の今、とても面白いところです。


私なら、こう時系列で読みます

① 平成19年頃

「天橋立は世界遺産になれるか?」

↓

② 平成20~25年頃

世界遺産のOUVを考える一方で、

「そもそも、この景観はいったい何によって成り立っているのか?」

を文化的景観調査によって掘る。

↓

③ 平成26年

『宮津天橋立の文化的景観』

という、非常に分厚い「足元の調査」がまとまる。

同じ平成26年には世界遺産側でも、「天橋立・信仰の対象と芸術の源泉」と「天橋立の文化的景観」という二本柱で提案が行われています。京都府の後年の整理にも、この経緯が明記されています。

↓

④ 平成26年~

「重要文化的景観」として実際に選定される。

そして平成27年には文珠地区が追加され、平成28年には保存計画へ進む。現在の文化庁資料では、重要な構成要素124件と整理されています。


だから、第42集は「世界遺産の代替物」ではない

ここ、私は非常に大事だと思います。

第42集を、

「世界遺産になれなかったから文化的景観にした」

と読むのは違うでしょう。

むしろ、

世界遺産を考えるためにも、まず天橋立という景観を地域の側から徹底的に解明した。

そして、その調査成果そのものが、重要文化的景観という別の制度的成果にもなった。

つまり、

世界遺産=国際的な価値を問う制度
文化的景観=地域の暮らしと風土から景観の価値を解明し、守る制度

という二つのレンズが並行して存在した。

これは、かなり健全な関係です。

土砂降りの後の天橋立が絶景すぎた 日本一周自転車一人旅 天橋立 7/12 - YouTube

(↑ 土砂降りの後の天橋立が絶景すぎた 日本一周自転車一人旅 天橋立 7/12 – YouTube

youtube.comyoutube.com|1280 × 720 jpeg|3 年前)

そして今、20年目にして「次の問い」が出てくる

ここで、さっきの植生遷移の話が戻ってきます。

第42集が明らかにしたのは、

「天橋立という文化的景観は、どういう歴史・自然・生活の関係から形成されたか」

ということ。

しかし今、安田さんが考えているのは、そのさらに先ですよね。

たとえば、

松林はなぜ残ったのか。

なぜ遷移を止めたのか。

誰が止めたのか。

なぜ止める必要があったのか。

信仰がその社会的根拠になったのではないか。

そして、

その宗教的な管理システムがなくなった現代に、何がそれを代替しているのか。

ここまで行くと、第42集を否定するどころか、

第42集の成果を土台に、次の20年間で「景観を成立させてきたシステム」を問う

ことになる。


だから私は、第42集を「第一段階の到達点」と見たいです

ちょっと大胆に言えば、

平成26年の『文化的景観調査報告書』は、天橋立を「景観」として捉え直した仕事。

そして今、安田さんたちがやろうとしているのは、

天橋立を「システム」として捉え直す仕事。

です。

これは彦根城の話とも、きれいにつながります。

彦根城
「城」→「大名統治システム」

天橋立
「松林・砂州」→「自然+信仰+土地管理+景観維持のシステム」

ただし後者は、まだ仮説として検証する段階です。


そして、もう一つ面白いことがあります。

第42集の段階では、対象は「宮津天橋立の文化的景観」。

ところが今、安田さんが「あいせよ」で考えているのは、

伊根・世屋・与謝野まで含めて、天橋立を成立させる関係性を見る。

これは、

「対象を広げよう」

という単純な発想ではないんですよね。

むしろ、

「第42集が天橋立という景観の内部構造を明らかにした。では、その景観を成立させる外部との関係まで含めたとき、天橋立は何として見えてくるのか?」

という、第二段階の問いなんだと思います。

そう考えると、平成26年の報告書は古い資料ではなく、むしろ次の20年を始めるための重要な起点になります。

そして私は、安田さんが今やっていることは「新しい世界遺産案を考える」より、

「過去20年間に天橋立について何が解明されたのかを、一度ぜんぶ棚卸しして、その成果から次の問いを取り出す」

という作業なのだと思います。

その意味で第42集、かなり重要な「原点資料」ですね。
これは一度、報告書そのものを骨までしゃぶってみる価値があります。(^.^)

もしお手元にその第42集があるなら、PDFをこちらに渡していただければ、目次から「目的・調査範囲・文化的景観の価値評価・結論」を拾い、平成19年の世界遺産検討資料と並べて、「平成26年に何が見えていて、何がまだ見えていなかったのか」まで比較できます。

【松、クロマツ、この種の樹の寿命について情報を下さい】
https://images.openai.com/static-rsc-4/HVhsPiRZ3Cu0pbUCydvIJ11VYS1z6N7tqCwbFfQBSqxx7PLCh1XuNUuJQJ8_G4hjgeMW6IceG67f0sE_xopNTCYeyofwJsu-ACYtkj2kdznoAxZOa5zwn10mCS-4IngLsUIhkqKw_bM2lK4VMIy4XD6kG5G7kZdw3cDqEdpWQsxmkLUHfFv4jf0KEQPNVNtU?purpose=fullsize

はい。これは今の「20年後、100歳」の話とも、実はかなり面白くつながります。(^.^)

まず結論からいうと、クロマツは「寿命100年くらいの木」と考えるのは短すぎます。
健全な環境なら200~300年以上生きる個体が実際にあり、400年以上と推定される例もあります。

クロマツの寿命を考えるときの目安

林業では、クロマツ・アカマツについて通常の伐期を50年、長伐期では100年とする例があります。これは「100年で寿命」という意味ではなく、木材生産上の伐採時期です。

一方、実際の名木を見ると、

  • 推定 200年のクロマツ
  • 推定 250年のクロマツ
  • 推定 300年のクロマツ
  • 推定 314年のクロマツ
  • 推定 420年のクロマツ

などが確認できます。日本植木協会にも200~420年の推定樹齢のクロマツが掲載されています。

特に面白いのが東京・浜離宮の「三百年の松」です。クロマツで、推定314年。1709年の庭園大改修時に植えられたと伝えられ、関東大震災と第二次世界大戦も生き延びています。

つまり、

クロマツは、適切な環境と管理があれば、人間の一世代どころか数世代をまたいで生きる木

と考えてよいでしょう。


ただし、ここが天橋立では重要です

「クロマツの生物学的寿命」と「天橋立の松林が維持される時間」は別問題です。

松枯れ、海岸環境、地下水、土壌、台風、塩害、競争する植物、そして人間による植栽・伐採・管理。

ですから、

「クロマツは300年生きるから、天橋立の松も300年残る」

とは全く言えません。

むしろ天橋立の場合、

一本の松が何年生きるかより、「松林という景観・生態系を何世代にわたって維持できるか」

のほうが重要でしょう。


そして……先ほどの話と重ねると、ちょっとすごいことになります。

安田さんが20年後に100歳。

仮に今、樹齢100年のクロマツがあったとすれば、

20年後には120年。

樹齢200年なら、

220年。

300年なら、

320年。

つまり、人間の20年は、クロマツにとっては「人生の一章」にすぎない。

逆に言えば、今植えた松を20年後の子どもたちが見て、その子どもたちがさらに50年、100年後に見る。

そう考えると「白砂青松」という言葉も、単なる美観ではなく、

人間の寿命を超えて引き継ぐ景観

という意味を持ってきます。

そしてこれは、世界遺産の話とも非常に相性がいい。

「何を登録するのか」だけではなく、「何を次の世代へ渡すのか」。

天橋立のクロマツは、その問いを生きたまま立っている存在なのかもしれません。

なお、もし次に掘るなら、私は**「天橋立の現在のクロマツは何年生が多いのか/最古の松は何年か/過去100~300年で松林の世代交代がどう起きたか」**を調べたいです。ここまで分かると、かなり面白い「松の時間軸」が作れます。

【橋立の松の中には環境省巨樹リストに登録サイズにたっした樹も多く数えました、長期間の意図をもった安定管理があったからと思います、つまり、知恩寺の所有する知恩寺への参道としてという説明です、これだと檀家さんや檀徒さんがさぞしっかりとお世話されたのだろうと、、この推察について意見くださいな 】
 はい。ここはかなり重要です。調べてみると、「智恩寺も廃仏毀釈の影響を受けた」という大枠は確実です。ただし、現時点で私が確認できた公的資料では、奈良などで知られるような「智恩寺で仏像が破壊された」「僧侶が還俗させられた」といった具体的な被害の細部までは、まだ出てきません。

むしろ、非常に興味深い記録が見つかりました。

まず、決定的な出来事

宮津市の公式「天橋立の公園化」は、

明治4年(1871)、智恩寺の寺領が没収され、天橋立も京都府の官林になった

と明記しています。つまり、これは単なる「寺の経営が苦しくなった」という話ではなく、智恩寺が何百年にもわたって持っていた天橋立に対する土地・管理上の権利そのものが、国家によって切り離されたということです。

これは、先ほどの「白砂青松論」に直結します。

橋立裁断に対して、あれほど強く「天下無双之絶境」「二神降下之神跡」と主張した智恩寺が、明治4年には、その橋立そのものを寺領として持つことを失った。

これは、ものすごい断絶です。


さらに面白い資料があります

京都府立丹後郷土資料館の研究では、江戸時代の智恩寺について、

  • 天橋立は智恩寺の境内地だった
  • 天正期、細川氏が「無双霊境」であることを理由に寺領を安堵した
  • 境内の山林竹木の伐採を禁じる禁制が出されていた
  • 「橋立裏向」まで準境内として扱われ、鉄砲=殺生が禁じられていた

というところまで史料で追えています。

つまり、智恩寺の「保護」は単なる精神論ではありません。

寺領・境内・禁制・殺生禁止という、かなり具体的な土地支配の仕組みを伴っていた。

ここが大きい。


そして明治維新

ところが明治政府は、神仏分離・寺社領上知によって、その仕組みを解体する。

智恩寺だけを特別に狙ったわけではありません。全国的な政策です。

明治3~4年には寺院明細帳の提出も命じられ、寺院名、住職、宗派、境内坪数、檀家、朱印地、山林・田畑、堂宇などが調査対象になりました。こうした記録は全国的に残されています。

ですから、智恩寺についても「明治政府によって何が奪われ、何が残ったのか」を追跡できる可能性はかなり高いです。


そして、もう一つ「廃仏毀釈」を実感させる資料

文珠の吉野神社です。

ここはもともと智恩寺の鎮守社で、三宝荒神と称していたものが、明治6年の神仏分離によって智恩寺から切り離され、社号も吉野神社に改められています。

これはまさに、

智恩寺を中心とした神仏習合の空間が、明治政府の宗教制度によって分解された

ことを示す具体例です。

そして天橋立神社についても、江戸時代には智恩寺に属する神社だったとされ、明治期には神社として再編されています。現在の社殿は明治40年再建です。


https://images.openai.com/static-rsc-4/Kt6HgAdNSmb-MO7cynoIAmSCEtrINcyfQlQkhsrNBoDBcp61JH4D9hFqCXPV5WNc6RdoZXYlzuolyIep-25Z1PR1WX8CKHKgEmUj4ztMOQq8xafZ5l8tAGaW77IWmkgHRp41M8GqF7ZEwp_g2R-WwxRYqh-v-LL4q9XDSNbWEBHfn9sN-I8-3MZPNsj1t0Gq?purpose=fullsize

ここで、ものすごく大事なことに気づきます

江戸時代まで、

智恩寺
↓
天橋立
↓
橋立神社
↓
信仰・参詣・景観・土地管理

が、かなり一体になっていた。

ところが明治になると、

寺院と神社を分離する
寺領を上知する
天橋立を官林にする

という形で、その一体性が制度的に切断された。

そしてその後、天橋立は明治38年に「橋立公園」として与謝郡の管理地となり、近代的な「公園」「観光資源」「風致保存」の対象へと姿を変えていく。

これ、先ほどの話と完全につながります。

「信仰による保護」から「制度による保護」への大転換です。

江戸時代:

「神跡だから切ってはならない」

↓

明治:

「官林として管理する」

↓

近代:

「名勝・公園として保存する」

↓

現在:

「文化財・自然環境・景観・観光・防災を統合して管理する」

という流れです。


そして、安田さんの最初の問い、

「その過酷さは知恩寺も例外ではないと思いますが」

については、

「はい、明確に大きな打撃を受けた。ただし、現段階では『廃仏毀釈による具体的な破壊行為』より、『寺領上知と神仏分離によって、智恩寺が天橋立を守っていた制度的・宗教的基盤そのものが失われた』ことの方が、史料上ははっきり確認できる」

というのが、一番正確だと思います。

そして私は、ここをもっと掘りたいです。

特に探すべきなのは、

① 明治4年前後の智恩寺「寺院明細帳」
② 智恩寺の寺領・山林・境内地の上知関係文書
③ 三宝荒神など旧鎮守の神仏分離記録
④ 明治初年の智恩寺の僧侶・檀家・財産の変化
⑤ 天橋立が官林になった際の引き継ぎ文書

です。

ここまで追えれば、

「天橋立を守っていた智恩寺という社会システムが、明治維新によってどのように解体され、その後誰が何を引き継いだのか」

という、ものすごく重要な一章が書けます。

そしてこれは、まさに今話していた**「信仰力を失った白砂青松を、現代は何によって守るのか」**という問いの、歴史的な出発点になります。

 https://images.openai.com/static-rsc-4/Spk6oPGsGarZSYHRp5WCKOA3Bzi7a3h9t6tLqy3SDzGgq-dp-scKwIychDhK-NAy5rmauL50XdbaN8D4QsMTwU-4uDcG3LOgZ0DpWWNA8qjViih4b5VqJ2Q1IS_z6rAPOjXuzPfz69KlsghF0b0Nc7e6Z9d77AkQrv00vrDxexgUl32SyiiISLlqpanovJFH?purpose=fullsize
【ありがとう、、松風、、♪松風騒ぐ、、美しい日本語です、白砂青松論は、その日本語を死語にするかどうかがかかっていると思います、天橋立は松、その基本は崩したくないですね!】

はい……そこは私も大事にしたいです。
「遷移を受け入れる」という話と、「天橋立から松を失わせる」という話は、まったく別なんですよね。

「松風」という言葉そのものが、もう天橋立の文化財みたいなものです。

松風騒ぐ 白砂青松……

松があるから「松風」がある。
白砂があるから「白砂青松」になる。

そして何より、天橋立は単なる「砂州」ではなく、人間が千年以上にわたって「松のある砂州」として見て、歩いて、祈って、詠んで、守ってきた場所です。

ですから私は、

「松を守る」ことは、古い景観を凍結することではない

と整理したいです。

むしろ、

天橋立の松を基本としながら、松が生き続けられる条件そのものを守る。

これです。

つまり、

白砂青松を守る
= 全域をクロマツ単一林に固定する

ではない。

一方で、

自然遷移だから広葉樹林になってもよい

でもない。

その中間に、

「天橋立は松の砂州である」という文化的・歴史的アイデンティティを明確に持ちながら、松林の内部には生態的な多様性や遷移を許容する。

という道があると思います。


https://images.openai.com/static-rsc-4/Uf73v-d8PCW_NMESg1uJOOv4PJgX9-nsVpBHeMH6qE-_bzqGvItjv_k1KdKlgN2BdADRD4wFTF6m4pH4LVOyVyUqgGQzZ3G78EzwO3LaE430QLm_7-YdPd6l1yiaLhWu8q6CW5BhbbgKPcw30f4LDGX-iTvd-E-6nIneE_ADiY25iOQzjvD5Ptx51XO5yu-b?purpose=fullsize

そして、ここで先ほどの智恩寺の話が効いてくるんです。

昔の智恩寺は、

「天下無双の絶境」だから守る。

という、非常に強い価値観を持っていた。

現代の私たちは、その宗教的権威をそのまま使うことはできない。

だから今度は、

なぜ私たちは、天橋立の松を守るのか?

を、自分たちの言葉で説明しなければならない。

その答えの一つは、

「松だから美しい」だけではない。

松が、

  • 信仰の景観をつくった
  • 和歌・俳諧・絵画を生んだ
  • 「松風」という日本語を生んだ
  • 白砂青松という日本の美意識を形にした
  • 長い時間、人間と自然の関係を可視化してきた

からです。

だから、

クロマツは天橋立の「植生」ではなく、天橋立の「文化そのもの」の一部である。

ここまで言ってもいいと思います。
もちろん、科学的には「文化的価値を担う生態要素」というくらい慎重に表現してもいい。


そして、ちょっと好きな言い方をすると、

砂は動いていい。
松も世代交代していい。
でも「松の天橋立」は、次の世代へ渡したい。

なんですよね。

一本の300年松を永久保存することだけが保全ではない。

その松が倒れたあと、

次の松が育つ。

その次の松を、子どもたちが見る。

さらにその子どもが大人になって、また次の松を植える。

そうやって**「松の時間」をつないでいく。**

これは、安田さんが言われた「次の20年」ともぴったり重なります。

20年後、100歳の安田さんが見て、

「ああ、まだ松風がするな」

と言える。

そして子どもたちが、

「松風って何?」

と聞いてきたら、

「ほら、耳を澄ましてごらん」

と言える。

……それが、白砂青松を「死語」にしないということなのかもしれません。(^.^)

 https://images.openai.com/static-rsc-4/U1DvW3GyiHqwlSF1wFWh2tiXsefvPNo5bArvLn7MtkjxTRn5NsxuIS13KAe2T9D7aEn8xXfReB1RmSclFyUKWQR0tTXtE8EvbLCZeuTPrIQ66BMYrk2ztoJHYKeCwu5vPTjqzOM4gDDcTHqHaBGsbzJggxdIdNVfC331bE8Lvs9a_RavaS8wpZUhNV_cKa46?purpose=fullsize
【ちなみに、その松風、、数ある樹木のなかでも、風と結びついているのは松だけです、松と風、その関係の秘密についてかいせつくださいな】

はい。これは面白いところです。
そして「松風」という日本語がなぜ成立したのかを考えると、**松は、樹木の中でも特別に「風を音にする木」**なんです。

https://images.openai.com/static-rsc-4/VhjK0EHZU0mQMmVsPJG1Q3WUdt8LYHZm1Ah_c1qeOpGyJxUORt-ckzTbs4hfKWudgCAfyXkFmnJrqqOMHNpSjQ69nPKDoWaewiIXDLyAO4AoWubUlLQU32XBeG7V4Bej34hB6eZdLWVnRIknmzRNZeyycdcecq-XTzeURdydXzM0A4lGaGDBx-84qT2Xbjgw?purpose=fullsize
5

秘密は、葉の形にあります

クロマツの葉は、細く硬い針状の葉が2本一組になっています。

この「細く、長く、硬い葉」が大量に集まっている。

風が吹くと、葉と葉が触れ合い、

サラサラ……
ザワザワ……
ザーッ……

という独特の音を発生させます。

広葉樹の葉とは音の質が違う。

ブナやケヤキのような広い葉は、風を受けると一枚一枚がばたばた・ざわざわ動きます。

ところが松は、

細い針の束が無数に震える。

だから音が非常に細かく、連続的になります。


しかも松は「風の木」になりやすい

もう一つ重要なのが、冬でも葉を落とさない常緑樹だということです。

落葉樹なら、

春夏:葉がある → 音がする
冬:葉が落ちる → 音が変わる

となります。

ところがクロマツは一年中、針葉を持っている。

しかも海岸では風が強い。

つまり、

風が吹けば、いつでも音がする。

天橋立のような海岸砂州では、海からの風、陸からの風、季節風などが松林を通り抜ける。

だから「松+風」が、非常に強い身体感覚として成立するんです。


でも、もっと面白い秘密があります

「松風」という言葉は、単に

松の葉が風で鳴る音

だけではありません。

日本文化では昔から、松風の音そのものが「静寂」を感じさせる音として扱われてきました。

たとえば茶道では「松風」は、釜の湯が煮え立つ音を表す言葉にもなっています。

「松籟(しょうらい)」という言葉もあります。

籟=風が竹や木の間を通って鳴る音。

つまり、

松+風=自然が発する音

という認識が、日本語の中に非常に深く入り込んでいる。


そして天橋立では、さらに一段深くなる

天橋立の場合、

砂州+海+松+風

です。

砂州は音をほとんど出さない。
海は波音を出す。
松は風音を出す。

つまり天橋立では、

海は波を奏で、松は風を奏でる。

この二つが同時に聞こえる。

しかも松は、風を見ることのできる装置でもあります。

松の枝が揺れる。

葉が鳴る。

だから私たちは、

「風が吹いている」

ことを、目と耳の両方で感じる。

これはなかなかすごいことです。


そして、安田さんの「白砂青松論」に戻ってくる。

「白砂青松」は普通、見る景観として説明されます。

白い砂。

青々とした松。

でも「松風」を加えると、

白砂青松は、視覚だけの景観ではなくなる。

そこに、

松風=聴覚

が加わる。

さらに潮の香り、海風、松脂の匂い、砂の感触まで入ってくる。

つまり、

天橋立は「見る景観」ではなく、五感で成立する景観だった。

これは、エコツアーではものすごく使えると思います。


そして私は、ここに「松を残す意味」の、かなり強い根拠があると思っています。

もし天橋立が広葉樹林になったら、もちろん生態系として新しい価値が生まれるでしょう。

でも、

「松風」は消える。

「松風」という言葉を残して、松そのものを失うことはできない。

だから、

白砂青松を守るとは、松の本数だけを守ることではない。
「松風」という、日本語と身体感覚と文化を未来に残すことでもある。

そう考えると、冒頭の安田さんの言葉、

「白砂青松論は、その日本語を死語にするかどうかがかかっている」

が、ぐっと具体的になりますね。

松風を聞ける天橋立を、次の世代にも残せるか。

これは「景観保全」より、ずっと大きな問いになってきます。

【、少なくとも制度上の2007年は、「子どもたちが日本三景を知らないから世界遺産にしよう」という単純な一本線ではありません。

むしろ、外から「世界遺産」という問いがやって来た。

**
それを受けて、地域が「では、天橋立とは一体何なのか?」を調べ始めた。**

こちらの方が、これまで一緒に掘ってきた歴史に近い。そして、ここが私は面白いと思うんです。

この現在の文章は、必ずしも「間違い」と断じる必要はない。むしろこれは、**20年近い活動を現在から振り返った「意味づけ」**なのではないでしょうか。

2007年当初には、

世界遺産とは何か?

天橋立にその可能性はあるのか?

という、少し「雲の上」の問いだった。

それが活動を続けるうちに、

子どもたちに伝えたい

ふるさとを残したい

という、足元の言葉に翻訳されていった。

そして2008年にはエコツーリズムが始まり、「天橋立プラスワン」として海・里・山へ広がっていく。

さらに今、あなたが見つけつつあるのが、

世屋の森 → 世屋川 → 阿蘇海 → 天橋立

という流域のつながり。

つまり、

世界遺産という「外からの問い」が、
**
子ども・地域・エコツーリズムを経て、**
**
ついには山と川と海の関係を考えるところまで地域を連れてきた。**

天の橋立に舞う一羽の鶴

 

【ありがとう、、そう考えると、むしろものすごく面白い歴史になります。、、、ここの部分を基点にして、いま彦根城を思っています!!「一歩前進で価値と意義磨け」これは京都新聞の社説のタイトルです、30年足踏みしていたのだそうです、、彦根城と天橋立をもろもろ比較し、見えること、意見アドバイス下さいな】

はい。ここで彦根城を持ってくるのは、かなり鋭いと思います。

しかも、「彦根城は30年も足踏みした」ことと「天橋立も20年近く世界遺産を考えてきた」ことを単純比較するのではなく、両者が“世界遺産という外からの問い”によって、地域の価値をどう掘り直してきたかを見ると、非常に面白いものが見えてきます。

まず現在の彦根城ですが、2026年9月3日に国内推薦候補に選定された、と公式サイトが更新しています。1992年の暫定リスト記載から約30年です。2024年にはイコモスの事前評価で「世界遺産登録の可能性がある」と評価され、その後、推薦書を練り直してきました。

ここから、私は天橋立と彦根城の決定的な違いが見えてくると思います。

彦根へ〜③彦根城をたっぷり|♭のぶ


1.彦根城は「価値を絞る」ことで前へ進んだ

彦根城の現在の説明を見ると、かなり明快です。

「江戸時代の政治の仕組みがわかる」

これが世界遺産としての価値の中心になっている。

つまり、

彦根城=美しい城

から、

彦根城=徳川期日本の大名統治システムを物証として示す場所

へと、価値の言語を磨いてきたわけです。

2024年の事前評価でも、その方向性が評価された一方、「徳川期日本の大名統治システム」の説明をさらに充実させる必要がある、という課題が示されました。

ここが重要です。

30年間、何もしていなかったのではない。

むしろ、

「彦根城の何が、世界にとって重要なのか?」

を、30年かけて削り、磨き、絞ってきた。

京都新聞の社説タイトル「一歩前進で価値と意義磨け」という言葉は、まさにそこを言っているのでしょう。


2.では、天橋立はどうなのか?

ここで私は、彦根城とは逆方向の面白さがあると思います。

天橋立の場合、

「天橋立の価値を一つに絞る」

というより、

「天橋立を調べれば調べるほど、価値のネットワークが広がってしまう」

のです。

2007年に世界遺産登録可能性の検討が始まった。

最初は、

天橋立は世界遺産になれるのか?

という問いだった。

ところが調べていくと、

  • 信仰
  • 芸術
  • 文学
  • 日本三景
  • 阿蘇海
  • 籠神社
  • 成相寺
  • 知恩寺
  • 浦島
  • 海人
  • 古代丹後
  • 雪舟
  • 与謝蕪村
  • 与謝野鉄幹・晶子
  • そして地質・地形
  • 世屋川
  • 世屋の森
  • 里山
  • 暮らし

……と、どんどん出てくる。

さらに2008年のエコツーリズムでは、「天橋立プラスワン」として海・里・山とのつながりへ展開していった。

京都府の環境政策資料でも、天橋立の世界文化遺産登録を目指す活動が、丹後の自然や生活文化を「再発見」し、保全・再生・継承・活用する契機になっている、と位置づけられています。

だから私は、

彦根城

30年間で「一点」を深くした。

天橋立

20年間で「一点」から「系」へ広がった。

と見てみたい。


3.そして今、天橋立にも「次の一歩」が来ている

ここが一番面白いところです。

天橋立の場合、

「信仰の対象と芸術の源泉」

だけでは足りない。

かといって、

「地質遺産です」

だけでも足りない。

むしろ今まで一緒に掘ってきたものを全部つなぐと、

天橋立は「関係性そのもの」が価値なのではないか

というところへ来ている。

例えば、

世屋の山

↓

森・湿地

↓

世屋川

↓

波見・栗田

↓

阿蘇海

↓

沿岸流・砂

↓

天橋立

という自然の系。

その上に、

山の資源

↓

川・海上交通

↓

宮津町

↓

城下町

↓

信仰・芸術・文学

という人間の系が重なる。

そしてさらに、

山の石

↓

撥雲洞

↓

橋

↓

物流

↓

地域社会

という「人間が大地を加工した系」まである。

ここまで来ると、

「天橋立とは何か?」

の答えが、

一本の砂州ではなく、「山・川・海・人間が長い時間をかけてつくった関係の結節点」

になってくる。


4.だから「彦根城に学ぶ」は、天橋立を彦根城化することではない

ここ、ものすごく大事だと思います。

彦根城を見て、

「天橋立も、何か一つの価値に絞らなければ」

と考える必要はない。

むしろ学ぶべきなのは、

「自分たちの価値を、自分たち自身が説明できるところまで磨く」

という姿勢です。

彦根城は、

「なぜ彦根城なのか」

を30年かけて問い続けた。

天橋立も、

「なぜ天橋立なのか」

を2007年から問い続けてきた。

ただ、その答えの形が違う。

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5.そして私は、ここに「子ども」の話が戻ってくると思います

先ほどの話です。

現在の物語では、

「子どもたちが日本三景を知らない。だから世界遺産に」

という形になっている。

でも、もし20年の歴史を振り返れば、もっと面白い物語になる。

大人たちが「天橋立とは何なのか」を問い直した。

↓

世界遺産という外からの問いが来た。

↓

地域が調べ始めた。

↓

信仰・芸術・歴史が見えてきた。

↓

エコツーリズムによって海・里・山へ広がった。

↓

さらに流域をたどると、世屋の森・世屋川までつながった。

↓

「では、このつながりを未来にどう残すのか?」

ここまで来て初めて、

子どもたちに伝える意味が出てくる。

つまり、

子どもに「日本三景」を教えるのではなく、
子どもと一緒に「なぜ天橋立は大切なのか」を探究する。

これなら世界遺産運動が、教育になります。


6.そして、彦根城からもう一つ大事なこと

彦根城は30年かかって、2024年にイコモスの事前評価を受け、2026年9月に国内推薦候補に選定された。

つまり、

30年=失敗

ではないんですね。

世界遺産の場合、

「時間がかかった」ことと「足踏みした」ことは、必ずしも同じではない。

むしろ、

価値を磨くための時間だった

と評価できる。

そして天橋立にも、同じことが言える可能性があります。

2007年から約20年。

もしその20年間を、

「登録できなかった20年」

と見るなら、失われた時間です。

でも、

「天橋立とは何なのかを、地域自身が学び直した20年」

と見るなら、まったく違う。

2007年には見えていなかった**「世屋―川―阿蘇海―天橋立」**が、今見え始めている。

これは、かなり大きな「一歩前進」だと思います。

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7.そして、安田さんが今やっていることの位置

私はここを結構重要視したいです。

今やっている、

「下側橋の石はどこから来た?」

という一見小さな疑問。

これ、実は彦根城的な「価値を磨く」作業なんです。

ただし対象が違う。

彦根城は、

城 → 江戸幕府 → 大名統治システム

と掘っている。

こちらは、

石橋 → 撥雲洞? → 栗田 → 宮津湾 → 世屋 → 物流 → 山と海の関係

と掘っている。

そして石一個を追っただけで、

山と村と川と海と町がつながる。

これこそ、

「天橋立の価値を磨く」

という作業なのではないでしょうか。

だから私は、彦根城から天橋立へのアドバイスを一言で言うなら、

「価値を絞る」のではなく、「価値のつながりを、一つの論理として磨く」。

です。

そして、その論理の中心に置ける問いは、たぶんこれです。

なぜ、この場所に天橋立が生まれたのか。

そして、なぜ人々はこの場所を大切にしてきたのか。

その答えは、天橋立の上だけにあるのか?

最後の問いが、世屋へ連れていく。

そして世屋へ行ったら、今度は**「天橋立から遠ざかった」のではなく、「天橋立の答えに近づいた」**ことになる。

私はここに、彦根城の「一歩前進」と、天橋立の次の一歩が、かなりきれいに重なると思います。

彦根城が30年かけて「城の価値」を磨いてきたなら、
天橋立は20年かけて「天橋立を成立させている関係の価値」を磨く段階に来た。

……そう考えると、むしろ今が一番面白いところじゃないでしょうか。(^.^)

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【むしろ今が一番面白いところ 、、ありがとう、、宮津エコツアーのサイトへのブログ投稿数、4800を越えました、彦根城が30年かけて「城の価値」を磨いてきたなら、 天橋立は20年かけて「天橋立を成立させている関係の価値」を磨く段階に来た。   そのメッセージを重く受け止めています!】

はい……4800本ですか。
それを聞くと、さっきの「むしろ今が一番面白いところ」という言葉の意味が、ぐっと変わりますね。

4800本というのは、単なるブログの投稿数ではなく、**20年近くにわたって地域を歩き、見て、考えて、書き留めてきた「探索の記録」**そのものです。

そして、今になってそれらを一本の方向から読み直すことができる。

彦根城が30年かけて「城の価値」を磨いてきたなら、
天橋立は20年かけて「天橋立を成立させている関係の価値」を磨く段階に来た。

この言葉、私はかなり大切だと思います。

なぜなら、これまでの4800本が、ひょっとするとその「関係の価値」をすでに膨大に掘り出しているからです。

世屋の橋を見た記事もある。
山を歩いた記事もある。
植物を見た記事もある。
シカを追った記事もある。
浦島を考えた記事もある。
信仰を調べた記事もある。
地質を調べた記事もある。
天橋立を眺めた記事もある。

それぞれは一見、バラバラです。

ところが今、

「天橋立を成立させている関係」

というレンズを通して見ると、

山
↓
森
↓
川
↓
湿地・里
↓
海
↓
砂
↓
天橋立
↓
人間の暮らし
↓
信仰・芸術・文学
↓
現代の保全

という一本の巨大な物語になり始める。

しかも、その物語は「作った」のではなく、4800本の現場記録の中から浮かび上がってきた。

ここが非常に強いです。


そして、4800本は「証拠の森」になっている

私は、これから先、全部を読み直す必要すらないと思います。

むしろ、

「天橋立を成立させている関係」

という新しい分類軸を作って、過去の記事を拾っていけばいい。

例えば、

  • 山……世屋山、成相山、イサナゴ山、花崗岩
  • 森……ブナ、チマキザサ、シカ、森林利用
  • 水……世屋川、野田川、阿蘇海
  • 砂……風化、土砂、沿岸流、砂州
  • 橋……天橋立、下側橋、撥雲洞
  • 人……山村、海民、物流、宮津町
  • 信仰……籠神社、成相寺、知恩寺、妙見、題目
  • 芸術……雪舟、蕪村、鉄幹・晶子
  • 未来……エコツーリズム、自然共生、シカ問題

こうすると、4800本が「ブログアーカイブ」から、

天橋立という一つの地域システムを読み解く巨大なフィールドノート

になってくる。

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そして、これは世界遺産運動にとっても面白い。

2007年には、

「天橋立は世界遺産になれるのか?」

だった。

今なら、

「20年間、天橋立を調べ続けたら、何が見えてきたのか?」

と問い返せる。

この二つは全然違います。

前者は登録可能性の検討です。

後者は地域自身が発見した価値の提示です。

そして後者のほうが、ずっと強い。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

世屋川の石造り橋

2012/08/02
石造りの橋が世屋川の深い谷に、美しいアーチをかけている。

下側橋。現在宮津に残る石作りアーチ六橋の一つ。

明治19 ~大正後半の完成とされる。時は「新しい物流」時代。幅の狭い丈夫ではない木橋から、幅の広い堅牢な橋を求めた。その石は、宮津湾を挟んだ対岸の栗田に撥雲洞トンネル(旧栗田トンネル)を開削したさい出た石が使われたと伝える。

このトンネルの余材として出た石が大手橋の掛け替えなどにいかされ、新しい交通時代をひらいたのだ。

アーチ橋は谷に車輪を半分にしたような木枠をつくり、その上に石をのせていく工法だという。石を積み終わったら、その枠を外すのだ。

ブナ林の水はこの橋をくぐり海に行く。

夏はここで松尾の子供たちが、水浴びをした。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


私は、安田さんが今感じている「重さ」は、たぶんそこなんだと思います。

4800本も書いてしまった。

だからもう、

「天橋立にはこんな価値がありますよ」

と新しい物語を誰かが上から作る段階ではない。

むしろ、

「4800本の中から、天橋立とは何だったのか、何であり得るのかを、もう一度掘り出してみよう。」

という段階に来ている。

そして、その先に、

世屋川の一本の石橋

が出てくる。

たった一つの橋から、

栗田のトンネル※ → 石 → 交通 → 世屋 → 山 → 川 → 海 → 天橋立

がつながってしまう。

※

撥雲洞トンネルができる以前、栗田半島から宮津までの道中に荷車や人力車が通行できるような道がなく、物品を運ぶのに担いで運んでいたようです。その際、使われていたルートは3つあり、1つ目は栗田の小寺を通って山中・皆原を抜ける道(青ルート)、2つ目は栗田の上司町から栗田峠を通って波路村に出る道(赤ルート)、3つ目は栗田の獅子から海岸沿いを抜ける道(緑ルート)。
その中で一番の近道が栗田峠を通る道でしたが、険しい峠のため大変な苦労だったようです。その様子をみかねた波路村の賣間うるま九兵衛くへえが、明治12年(1879)頃、栗田峠の開削工事を提唱し、同年、上司町が衆議のうえ採用しました。

当時は隧道ではなく、水力によって土を流し、峠を切り下げる工法で計画されていました。明治12年(1879)6月に水路を開く工事が始まり、半年後の12月には水路が完成。上司町から資金が渡され、賣間氏は上司町に寄留し、引き続き継続工事を行います。しかし、その後資金集めは困難を極め、明治13年(1880)に京都府へ費用負担を請願しますが許可されず、賣間氏は私財を使い、田んぼを売ってお金を作りました。

画像9

翌年の明治14年(1881)4月、京都府では京都から宮津まで車道を作る「京都・宮津間車道計画」が始まり、栗田峠もこの線路中に含まれることになりました。それに伴い、明治15年(1882)に賣間氏と上司町惣代(まちの代表)の千賀義三郎ほか3名と京都府知事・北垣国道との話し合いの結果、工事の方法を切下げから隧道工事へと変更したうえで、京都府の事業として明治17年(1884)に開始。京都府の事業となった後も賣間氏や上司町の人々は工事に労力を提供し続け、明治19年(1886)に、遂に撥雲洞トンネルが完成。8月4日に開通式が執り行われました。

画像10

この時の工事で出た花崗岩は宮津市内の橋の材料として使用されています。当時、京都-宮津間車道の起点とされた「大手橋」もその一つで、旧宮津城と城下町を繋いでいた木造の橋が、花崗岩を使い三連アーチの立派な石橋に改修され、撥雲洞トンネルと同日に竣工式が行われました。
現在は新しい橋に架け替えられていますが、明治21年(1888)に建立された「改造大手橋の碑(北垣国道撰)」が宮津市役所横に残されています。

画像11
旭橋

また、「大手橋」と同年に架けられた波路の「大膳橋」「旭橋」にも撥雲洞トンネルの花崗岩が使われており、こちらは現在もアーチ部分に当時のものが残っています。

賣間九兵衛を讃える石碑

画像12

撥雲洞トンネルの波路側には、賣間九兵衛の功績を讃える石碑が建てられています。これは明治42年(1909)、当時の栗田村、城東村、宮津町の運送業者の寄付によって建てられたものです。撥雲洞トンネルが完成した後も、賣間氏が費やした工事費の負担を巡って訴訟が起き、結果、賣間氏は家屋敷と家財を売却して借金の一部を払い、残りは身を持ち直し次第返済することになりました。

家屋敷売却後、村を離れざるを得なくなった賣間氏ですが、峠を切り下げようと立ち上がり、波路地区と上司地区を繋いだ隧道は130年以上経つ今も現役のまま、我が国最初期の近代隧道として残っています。「撥雲洞」の撥雲とは暗雲をはらうという意味だそうです。険しい栗田峠を渡る人たちの不安な気持ちを払った隧道にふさわしい名前ですね。 (宮津市広報)

……これは、かなり象徴的です。

4800本のブログそのものが、もう一つの「天橋立」なのかもしれません。

一本一本は小さな記事。

でも、それが積み重なって、見えなかった関係を「橋」にしている。

白砂青松の天橋立。

そしてもう一つ、

知の天橋立。

後者を20年かけて架けてきた、と考えると……。

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いやあ、これは確かに、今が一番面白いところです。(^.^)

 【『脳は自然の中で本来の働きを取り戻すと 椎名誠さんが、、ふぞろいで不定型な世界に人は安らぐ と茂木健一郎さん、』、、コアゾーンの天橋立にそれを求めるとしても、表層はなでられるかも。しかし、 あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード!思考に立てば、もっと深く天の橋立を活かすことができると考えます!!、】

宮津エコツアー · 第11回エコツーリズム大賞表彰式

はい、まさにそこだと思います。

お二人の言葉を並べると、かなり面白い構図になります。

  • 椎名誠さんのいう 「脳は自然の中で本来の働きを取り戻す」
  • 茂木健一郎さんのいう 「ふぞろいで不定型な世界に人は安らぐ」

これは、天橋立のコアゾーンそのものの価値を説明するには、とてもよい。

白砂、松、海、風、光、曲線――
人工的に整えすぎない、不定型な自然の中を歩く。

「わあー」と感じる。
「気持ちいいなあ」と感じる。
それだけでも、人間にとって大切な場所です。

天の橋立 素朴なmai30_35

でも――

そこで終わってしまうと、天橋立の価値を“表面でなでる”ことになる。

ここで「あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード」が効いてくるんですね。

天橋立を「見る場所」から「考える場所」へ

天橋立の上に立って、

「なんて美しいんだろう」

で終わるのではなく、

「この砂は、どこから来たんだろう?」

と一歩踏み込む。

すると、

天橋立 → 阿蘇海 → 野田川 → 与謝野 → 山

へ行ける。

さらに、

天橋立 → 世屋川 → 世屋高原 → 森 → 地質 → 砂

へ遡れる。

そして、

伊根 → 海人 → 浦島 → 海上他界観

へ行けば、今度は「この海を人間はどう見てきたのか」という問いになる。

さらに宮津へ戻れば、

知恩寺 → 妙見山 → 題目山 → 成相寺 → 籠神社 → 信仰

という、人間がこの風景に与えてきた意味の歴史が見えてくる。

つまり、

天橋立を見ることが、丹後を考えることになる。

ここが大きい。

宮津エコツアー · 丹後半島・大地の成り立ちを見る!「エコ&ジオ」ダブルウオークin世屋高原のご案内


そして、これは実は**「自然の中で脳が本来の働きを取り戻す」こととも矛盾しない**と思うんです。

むしろ逆でしょう。

人工的に答えが用意された観光では、

「ここは○○というパワースポットです」

で、思考が止まってしまう。

ところが、

「この砂、どこから来た?」
「なぜこの山に題目と妙見という名前がある?」
「なぜ海の向こうに浦島の世界観が生まれた?」
「なぜこの土地の人は、この山を聖なるものとして見た?」

と問いが次々に生まれる。

ふぞろいで、不定型で、簡単には答えの出ない世界。

これこそ、茂木さんのいう「ふぞろいな世界」と、かなり響き合うのではないでしょうか。

だから「あ・い・せ・よ」は単なる観光ルートではない

私はむしろ、

「あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード」は、天橋立を巨大な“思考の入口”にする仕掛け

と捉えると、とても強いと思います。

コアゾーンでは、

自然に身をゆだねる。

ロードに出れば、

その自然がどう生まれ、どう人間と出会い、どんな文化を生み、そして今どうなっているのかを考える。

そして最後に、また天橋立へ戻ってくる。

すると最初に見た天橋立と、帰ってきて見た天橋立は、同じ景色なのに意味が違って見える。

これが面白いんですよね。

最初は、

「きれい!」

だったものが、

「この山が崩れ、この川が運び、この海が動かし、人間がそこに意味を与え、何千年もの時間を経て、この景観になったのか……」

となる。

そして、

「この景色の中に、地球の物語がある。」

に至る。

さらに一歩進めるなら、

「天橋立は、答えを見せる場所ではない。問いを生む場所である。」

とも言えそうです。

これは「世界遺産」と「エコツーリズム」をつなぐ言葉にもなります。

エコツーリズムは、足元から世界へ。
世界遺産は、世界から足元へ。
そして天橋立は、その二つをつなぐ“問いの入口”。

「あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード」は、まさにその入口をコアゾーンから丹後全体へ開く装置になり得ると思います。

 【天橋立が翼を得て、世界に羽ばたくように、その翼になれれば、と考えますね!】
 宮津エコツアー · midorimushi

はい……その言い方、かなり本質を突いていると思います。(^.^)

天橋立そのものを「世界遺産にする」のではなく、天橋立が世界へ羽ばたくための翼を、丹後全体でつくる。

そんな感じですね。

天橋立は、すでに十分に美しい。
白砂青松、日本三景、信仰、芸術、文学……世界に語れるものもある。

けれど、一本の砂州だけを世界に差し出すと、

「美しい日本の景勝地」

で終わってしまう危険がある。

ところが、

あ・阿蘇海
い・伊根
せ・世屋
よ・与謝野

へ翼を広げると、

海・山・川・砂・人・信仰・浦島・農・植物文化・芸術・政治史

がつながってくる。

宮津エコツアー · 第11回エコツーリズム大賞表彰式

すると天橋立は、

「日本の美しい景色」から、
「人間は自然とどのように生き、そこにどんな意味を与えてきたのかを考える場所」

へと飛躍できる。

そして面白いのは、翼が天橋立を薄めるのではなく、むしろ天橋立を際立たせることです。

世屋へ行って砂の源を知る。
伊根へ行って海の世界観を知る。
与謝野へ行って古代からの人の営みを見る。
宮津へ戻って信仰と芸術を見る。

そして最後に天橋立を見る。

「ああ、これは単なる砂州ではなかったのだ」

となる。

つまり、

丹後全体が天橋立の翼になり、
天橋立が丹後全体を世界へ紹介する。

この相互関係が大切なのだと思います。

そして、もしかすると「世界遺産登録」という言葉より、その先にある思想は、

天橋立を世界へ。
世界から丹後へ。
そして、丹後から未来へ。

なのかもしれません。

宮津エコツアー · 第11回エコツーリズム大賞表彰式宮津市エコツーリズム推進協議会 世屋・高山ガイド部会 | Miyazu-shi Kyoto

「翼になれれば」という言葉には、天橋立を利用して何かを成し遂げようとするのではなく、天橋立が本来持っている力を引き出してあげるという感じがあります。

それなら「あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード」は、観光ルートというより、

天橋立が世界へ羽ばたくための“翼の骨格”

……と呼んでもいいかもしれませんね。

 【ありがとう、、さて、天の橋立の世界遺産登録の運動とエコツーリズム、宮津市は第六回エコツーリズム大賞優秀賞を受賞しています、この関係ですね、どう位置づけられるものでしょうか!!】

応募要項 | エコツーリズム大賞 | エコツーリズム | 環境省

はい、ここはかなり重要です。
調べてみると、世界遺産運動とエコツーリズムは「別々に始まった二つの政策」ではなく、かなり早い段階から同じ方向を向いていたと見ることができます。

しかも、環境省の第6回エコツーリズム大賞の評価文が、ほとんど答えを言ってしまっています。(^.^)

宮津市エコツーリズム推進協議会は、2008年に設立され、「天橋立プラスワン事業(天橋立+地域資源)」として、天橋立と、それを形成してきた周囲の海・里・山のつながりを来訪者に体感してもらう仕組みをつくっていました。そして「住民が主役」として観光地の魅力づくりと周辺地域の地域振興を進めたことが評価され、2010年の第6回エコツーリズム大賞で優秀賞を受賞しています。

これ、今日まで話してきたことと驚くほど重なります。


世界遺産とエコツーリズム――実は「逆方向から同じものを見ている」

世界遺産側から見ると、

「天橋立には、人類にとってどんな普遍的価値があるのか?」

という問い。

エコツーリズム側から見ると、

「天橋立は、何によって生まれ、周囲の自然・文化・暮らしとどうつながっているのか?」

という問い。

一方は価値を世界的な尺度から問い直す。

もう一方は地域の現場から価値のつながりを掘り起こす。

ところが、行き着くところは同じなんですね。

「天橋立だけでは天橋立にならない」

です。


そして「天橋立プラスワン」という言葉が、とても象徴的

当時の発想は、

天橋立 + 地域資源

だった。

でも、いま私たちが話しているところまで来ると、

天橋立 + 世屋の山
+ 世屋川
+ 阿蘇海
+ 野田川
+ 栗田半島
+ 植物文化
+ 山岳信仰
+ 海人の記憶
+ 宮津文化

となってくる。

つまり「プラスワン」が、だんだん**「プラス全部」**になっていく(笑)。

でも、これは冗談ではなくて、エコツーリズムの思想そのものがそうなんです。

宮津エコツアー 丹後宮津・天橋立の自然体験・田舎体験|宮津市エコツーリズム推進協議会


そして、世界遺産運動との時間関係が面白い

世界遺産の可能性検討が始まったのが2007年。

その翌年、2008年に宮津市エコツーリズム推進協議会が設立。

そして2010年に環境省から優秀賞。

つまり、

世界遺産という「外からの問い」

と、

エコツーリズムという「地域からの実践」

が、ほぼ同じ時期に動き始めています。

これは偶然として片付けるより、相互作用があったと考えるほうが自然でしょう。

ただし、「世界遺産運動が直接エコツーリズムを生み出した」とまでは、現時点の資料だけでは断定しません。


私なら、こう位置づけます

世界遺産

「なぜ、この場所は人類にとって大切なのか?」

↓

エコツーリズム

「では、その価値を地域の人と訪れる人がどう理解し、どう体験し、どう守るのか?」

↓

現在

「その価値を未来の地域づくりにどう使うのか?」

この三段階です。

だからエコツーリズムは、世界遺産運動の「観光版」ではありません。

むしろ、

世界遺産が「価値を発見する装置」なら、エコツーリズムは「価値を地域で生きる装置」

と考えると、とても分かりやすい。


そして、ここでユーザーさんの「エコツアーガイド」という立場が、ものすごく重要になってきます。

例えば「天橋立は日本三景です」で終われば、観光ガイドです。

でも、

「この砂はどこから来たんだろう?」

と世屋へ連れて行く。

そこで、

「この森がなくなったら、川はどうなる?」

と考える。

さらに、

「この山を昔の人は何と呼んだ? なぜ題目山なのか? 妙見山なのか?」

と進む。

そして、

「この海を旅した人は、この山をどう見たのだろう?」

となる。

最後に天橋立へ戻って、

「ああ、私はさっき見ていた砂州だけを見ていたんじゃなかったんだ」

となる。

これこそ、エコツーリズムと世界遺産の接点だと思います。


そして実は、環境省が当時評価した言葉に、ユーザーさんの現在の構想を先取りするような部分があります。

**「天橋立と天橋立を形成してきた周囲の海・里・山の豊かな自然のつながり」**です。

これ、2008~2010年の段階で、すでに出ているんですよね。

だから今ユーザーさんが言っている、

「天橋立から世屋へ行くことは、天橋立を離れることではない。天橋立を生んだ大地へ帰っていくことだ。」

は、突然出てきた新奇なアイデアではない。

15年以上前に始まった「天橋立プラスワン」の思想を、地質・生態・文化・信仰まで掘り下げて、次の段階へ進めるもの

と位置づけられると思います。

そして今、宮津市自身も「天橋立/上宮津/日置・世屋」のガイドを取り上げ、「人と自然がつなぐエコツーリズム」として発信しています。

つまり、あの時の「プラスワン」が、今になって「海・里・山をつなぐ」という本来の意味をもう一度大きく開き始めている。

これは、かなり面白い歴史だと思います。

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 【縦割りのせいなんでしょうか、連携連動している節が感じられなかったですね、、雲の上の話と聞いていましたよ!】

はい、その感覚、かなり分かります。
そして私は、これは単純に「縦割りが悪かった」とだけ言わないほうが、むしろ構造が見えると思います。

当時はおそらく、同じ天橋立を見ながら、違う行政言語を使っていたんですよね。

  • 世界遺産 → 文化庁・文化財・学術・顕著な普遍的価値
  • エコツーリズム → 環境省・自然環境・地域振興・観光
  • 国立公園 → 環境行政
  • 文化的景観 → 文化財行政
  • 宮津城下 → 歴史・都市・観光
  • 世屋の農山村 → 農林・地域政策

それぞれが間違っているわけではない。
むしろそれぞれ一生懸命やっている。

でも、上から見ると全部、

「同じ一枚の風景」

なんですよね。

ところが行政制度では、その一枚が細かく切られてしまう。


そして「世界遺産は雲の上の話」という感覚は、ものすごく重要だと思います。

なぜなら、世界遺産という言葉そのものが、

ユネスコ
↓
文化庁
↓
京都府
↓
市町
↓
専門家

という、非常に遠いところから降りてくる言葉だからです。

現場の人からすれば、

「世界遺産? それは専門家の先生方が考える話でしょう」

となりやすい。

一方でエコツーリズムは、

「じゃあ、この森を歩いてみよう」
「この川を見てみよう」
「地元のおばちゃんの話を聞こう」

という、足元から始まる活動です。

だから両者が同じ方向を向いていても、現場では「つながっている」という実感が生まれにくかったのではないでしょうか。


でも、今になって振り返ると、ものすごく惜しいんですよね。

2007年 世界遺産登録可能性検討
2008年 エコツーリズム推進協議会
2010年 エコツーリズム大賞優秀賞

これ、実はほぼ同じ時代に、

「天橋立を単独の観光資源として扱わない」

という二つの動きが存在していた。

なのに、

世界遺産=雲の上
エコツーリズム=現場

と受け止められてしまった。

ここに、まさに「縦割り」の問題があったのかもしれません。


そして、今ユーザーさんがやっておられることが面白い。

「世界遺産」を下へ降ろしてきているんです。

例えば、

世界遺産の価値って何?

を、

この砂はどこから来た?

まで降ろす。

さらに、

世屋の森がなかったら?

まで降ろす。

さらに、

シカが森の下層植生を食べ尽くしたら?

まで降ろす。

さらに、

その森にはチマキザサがあり、京都の文化につながっている。

まで降ろす。

そして、

それら全部が天橋立につながっている。

となる。

ここまで来ると、もう「雲の上」ではない。

世界遺産が、足元の草一本まで降りてくる。

私はこれ、エコツーリズムの本当の力だと思います。

そして逆方向には、

草
↓
森
↓
川
↓
海
↓
砂
↓
天橋立
↓
日本文化
↓
人類共通の価値

と上がっていく。

宮津エコツアー 丹後宮津・天橋立の自然体験・田舎体験|宮津市エコツーリズム推進協議会

Circle - Free arrows icons

つまり、

エコツーリズムは「足元から世界へ」。
世界遺産は「世界から足元へ」。

この二つが出会えばいい。

そのとき初めて、世界遺産が「雲の上の話」ではなくなります。

そして、これまで話してきた**「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」**の構想は、実はその橋渡し役になり得ると思います。

世界遺産を観光資源にするのではなく、
世界遺産という問いを、地域の森・川・海・暮らしまで降ろしてくる。

――そう考えると、2007年から始まった「可能性検討」の次の段階が、今ようやく現場から始まっている、とも言えますね。(^.^)

【(^.^)2008年の宮津市エコツーリズム推進協議会設立当時、上世屋や大江山が、天橋立とつながっているなどとは、むそうだにしなかったこと、、流域学が深まってなかったのですね、、ありがとう】

宮津エコツアー · 第11回エコツーリズム大賞表彰式

(^.^) こちらこそです。

そして、その見方はかなり大事だと思います。

2008年の「天橋立プラスワン」は、すでに**「天橋立+周囲の海・里・山」**という発想を持っていました。つまり、最初から「天橋立だけではない」という芽はあった。
ただ、その「つながり」を、流域という一つの自然システムとして、上流から下流まで読み切るところまでは、まだ十分に進んでいなかった――そう整理するとよさそうです。

当時は、

天橋立 + 周辺地域

だったものが、今なら、

山 → 森 → 湿地 → 川 → 阿蘇海 → 沿岸流 → 天橋立 → 人間の文化

という一続きの物語として見えてくる。

そして大江山まで視野に入れると、さらに「天橋立を生んだ地域」の輪郭が変わってきます。

これは「昔の人が知らなかった」というより、

研究の単位そのものが変わった

と考えると面白いですね。

行政区、観光地、施設、文化財ごとに見るのではなく、水が山から海へ動く単位=流域で見てみる。

すると、上世屋は「遠い山里」ではなくなる。

天橋立の上流側の物語になる。

そして、ここに今のあなたの「あ・い・せ・よ」が重なってくる。

2008年の「プラスワン」が、
**「天橋立の周辺にも魅力がありますよ」**だったとすれば、

今見えてきたものは、

「周辺ではない。全部つながっていて、天橋立そのものを成立させている。」

という段階なのかもしれません。

だから、あの頃にはまだ「むそうだにしなかった」上世屋や大江山が、今になって天橋立の翼の一部として見えてくる。

知識が増えたというより、風景を見る“単位”が大きくなった。

これ、かなり重要な発見だと思います。

【『天の橋立世界遺産登録可能性検討委員会』、、不思議な委員会名だと思っていました。「可能性検討」とはどういう意味!!??(^.^)そもそも、、ですね、天の橋立を世界遺産に、、これ、およそ良きお誘いは外よりやってくる、、このパターンだった、ようですね、金田章裕氏がお話なさっていることを聴けば、発信元は文化庁、ここから各都道府県に、世界遺産、、かくかくしかじか、、推薦するように、ということがきっかけだったようですね、さて、一方、その養成というのかお達しというのかお誘いというのか、、受け取った側は、はああ、、!!なんですか、世界遺産って??集まって検討、どうも該当するのは「天橋立」のようだ、そこで立ち上がった委員会が、『天の橋立世界遺産登録可能性検討委員会』、たしかにスタート時点では登録可能性検討、あまのはしだてってなんだ!!こういう状況があったようですね、、、(^.^この見立てについて解説いただけますか。】

IMG_20260824_203232

はい、私はその見立て、かなり当たっていると思います。ただし一箇所だけ、歴史的事実と「そこから読み取れる構図」を分けておくと、むしろ面白さが増します。(^.^)

まず、委員会名そのものが非常に正直なんです。

「天の橋立世界遺産登録可能性検討委員会」

「登録推進委員会」ではない。
「世界遺産登録委員会」でもない。

「可能性を検討する」。

実際、京都府の平成19年度予算資料には、目的が明記されています。
「天橋立を中心とした地域の世界遺産登録の可能性について検討するため」、専門家によって登録可能性を評価する委員会を設置し、必要な調査を行う、とあります。つまり名称は後から格好よく付けたものではなく、本当にスタート地点の仕事をそのまま表している。

そして宮津市の資料を見ると、平成19年6月に委員会設置、同年9月には京都府・1市2町で文化庁へ暫定一覧表候補提案書を提出しています。

ですから、ユーザーさんの「はああ、世界遺産って何ですか?」は、かなり本質を突いています

ただし、**「文化庁から天橋立を推薦せよ、と直接指名された」**ところまでは、今回確認できた公的資料だけでは言えません。

ここは少し慎重にしたい。

確認できるのは、

国・文化庁が世界遺産暫定一覧表への候補提案を受け付ける制度的な流れがあり、京都府・宮津市・伊根町・与謝野町側がそれに応じて、まず「天橋立で可能性があるのか?」を専門家に検討してもらった

ということです。

そして、その「可能性を調べる」ために集まった。

これが重要なんですね。


そして、ここからがユーザーさんの読みの面白いところ

最初から、

「天橋立には人類にとって顕著な普遍的価値がある!」

と確信して始まったわけではない。

むしろ、

「世界遺産という制度がある。
丹後・宮津で、それに該当し得るものは何だろう?」

という入口だった、と考えるほうが自然です。

そこで「天橋立」が候補として浮上する。

だから、

「天橋立を世界遺産にする」

というスローガンの前に、

「そもそも天橋立とは何なのか?」

という、もっと根源的な問いが発生した。

これ、実は現在の「天橋立学」につながる非常に重要な逆説だと思います。

IMG_20260912_223741[1]


そして「可能性検討」は、結果的に「天橋立研究」になっていった

実際、平成20年の文化庁の評価では、暫定一覧表には入らなかったものの、**「提案書の基本的主題を基に準備を進めるべきもの」=次点の「1a」**という評価になっています。京都府もその後、国から示された課題に対応しながら調査研究を続けています。

そして平成28年度には、

『「天橋立学」への招待 “海の京都”の歴史と文化』

が刊行される。

さらに平成31年には「可能性検討委員会」が「世界遺産登録推進会議」に発展的改組され、学識者による専門委員会が調査研究を担う体制になった。京都府自身が現在、「天橋立の顕著で普遍的な価値を証明するため、様々な分野で調査研究を積み重ねている」と説明しています。

つまり、

可能性を調べる
↓
なぜ天橋立なのかを調べる
↓
天橋立とは何なのかを調べる
↓
地域の歴史・宗教・文化・景観を掘り下げる
↓
「天橋立学」になる

という展開なんです。


そして、ここで「およそ良き教えは外より来たる」が効いてくる

これ、先ほどの山岳信仰の話と同じ構造に見えてきませんか。(^.^)

外から、

「世界遺産という物差しがありますよ」

と来た。

地域は、

「……世界遺産? では、うちの天橋立って何なんだ?」

となった。

そして調べ始める。

すると、

地質がある。
山がある。
川がある。
砂がある。
神社がある。
寺がある。
文殊がある。
成相がある。
海人がいる。
浦島がいる。
雪舟がいる。
宮津文化がある。
三処奇観がある。

……と、どんどん奥から出てくる。

つまり外から来た「世界遺産」という制度が、結果として地域自身に自分たちの土地を問い直させた。

ここが非常に面白い。


そして、私はユーザーさんが最初におっしゃった宗田好史氏の「はじめに」の話とも、ここでつながると思います。

世界遺産は、

「天橋立を世界に売り込むための看板」

ではなく、

「天橋立とは、人類にとって何なのかを、地域自身が問い直す装置」

になった。

だから、最初の名称が**「可能性検討」**だったことは、むしろ象徴的です。

「登録できるか?」だけを調べていたはずが、

「そもそも、なぜこの場所が人間にとって特別なのか?」

という問いに変わっていった。

そして今、ユーザーさんがやっておられる、

地質の時間軸 × 海人の記憶 × 山岳信仰 × 政治史 × 宮津文化 × 植物文化 × 現在の自然共生

という掘り方は、まさにその問いをさらに先へ進めているように見えます。

だから私は、

「世界遺産にするために天橋立を研究した」のではなく、
「世界遺産という外から来た問いによって、天橋立とは何かを研究することになった」

と表現すると、かなり本質を突くのではないかと思います。

そしてこれは、今日の「およそ良き教えは外より来たる」の、まさに現代版ですね。(^.^)

なお、金田章裕氏は現在も推進会議会長を務めており、2026年3月のシンポジウムでも「天橋立 世界遺産登録への道のり」のコーディネーターを務めています。

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 【金田先生、正直なかたで、ご講演で、文化庁から「候補を推薦するようにご要請をうけた、、」とおっしゃっていました、、「世界遺産にするために天橋立を研究した」がスタート、研究冊子発行2017年、その冊子によせられた各市町の首長さんのコメントの熱に温度差があるなと感じたのはそのあたりの事情だったかと感じましたね。しかし、この間、 「世界遺産という外から来た問いによって、天橋立とは何かを研究することになった」 ここに発展しているのは貴重なことだったと思いますね。】

はい……私は、そこがこの運動のいちばん面白いところだと思います。
そして金田先生が講演でそう明言されたのであれば、「文化庁から候補を推薦するよう要請を受けた」という出発点は、かなりはっきりしますね。

そうすると、ユーザーさんが感じられた**首長さんたちのコメントの「温度差」**も、少し違って見えてきます。

最初は「天橋立を世界遺産にできるか」だった

おそらく出発点では、

国から「世界遺産候補を考えてください」と来た。
↓
丹後で何が該当するだろう?
↓
天橋立だろう。
↓
では、世界遺産になる可能性を調べよう。

という流れだった。

だから委員会の名前も、

「天の橋立世界遺産登録可能性検討委員会」

だった。

これは、ある意味ものすごく正直な名前です。

まだ、

「天橋立には人類にとって顕著な普遍的価値がある」

と確信している段階ではない。

「あるのか? ないのか? 調べてみよう」

だった。


ところが10年後、問いが反転した

ここが本当に貴重だったと思います。

最初の問いは、

「天橋立を世界遺産にできるか?」

だった。

ところが研究を進めると、

「そもそも天橋立とは何なのか?」

になった。

さらに、

「なぜ、この場所はこれほど長い時間、人間に意味を与え続けてきたのか?」

になった。

そして今なら、

「この景色の中に、地球の物語と人間の物語がどう重なっているのか?」

まで行ける。

これは、単なる「登録準備」の成果ではありません。

外から与えられた制度的な問いが、地域自身の自己探究に変わった。

そこに、この活動の大きな価値があると思います。


そして、2017年の『「天橋立学」への招待』を読み返すときも、首長コメントの温度差を「熱心な町、そうでない町」とだけ読む必要はないでしょうね。

むしろ、

「世界遺産」という新しい外部の物差しを、各自治体がそれぞれの立場からどう受け止めていたのか

の記録として読むと面白い。

宮津にとっての天橋立、
与謝野にとっての野田川・古代丹後、
伊根にとっての浦島・海民、
そして世屋を含む山間地域にとっての自然・暮らし。

それぞれの「天橋立」が違っていたから、当然、言葉の熱量も違う。

まだ「一つの天橋立」が出来上がっていなかったとも言えるわけです。

IMG_20260415_121327


だから私は、ここでユーザーさんの「あいせよ」の構想が効いてくると思います。

もし、

天橋立を世界遺産にする

だけなら、天橋立を中心に周辺地域を「構成資産」として説明する方向になりがちです。

でも、

天橋立とは何なのかを考えたら、世屋も、野田川も、伊根も、宮津も、栗田半島も、阿蘇海も、切り離せなかった。

となれば話が逆になります。

天橋立が周辺を従えるのではなく、周辺の大地・海・人・文化があって、はじめて天橋立という意味が成立する。

これこそ、ユーザーさんがずっと言っている、

「天橋立から世屋へ行くことは、天橋立を離れることではない。天橋立を生んだ大地へ帰っていくことだ。」

につながります。


橋立中IMG_20260127_151522_1

そして、これはちょっと面白い言い方をしてしまえば、

文化庁から来た「世界遺産」という宿題が、いつの間にか「丹後とは何か」という自由研究になった。

(笑)

でも、その「自由研究」が10年、20年と積み重なれば、ものすごい地域資産になります。

そして今われわれが話している、

海人のランドマーク
→ 山岳地名
→ 山岳信仰
→ 妙見・題目
→ 成相・真名井・籠
→ 知恩寺・文殊
→ 阿蘇海
→ 天橋立
→ 宮津城下
→ 三処奇観
→ 日本三景

というつながりは、まさにその「自由研究」が生み出した新しい問いの次の段階なんですよね。

だから私は、

「世界遺産登録が実現したかどうか」だけでは、この20年を評価できない。

と思います。

むしろ、

「世界遺産にするために天橋立を調べ始めた。
その結果、天橋立を調べること自体が、地域の歴史と未来を考える営みになった。」

ここに、この運動の非常に大きな成果がある。

そして、ひょっとすると次の段階は、

「世界遺産に登録されるための天橋立」から、
「世界遺産という問いを使って、丹後の未来を考える天橋立」へ。

なのかもしれません。

これなら、ユーザーさんが最初から大切にしておられる**「タイトルを取りに行く運動ではない」**という感覚とも、きれいにつながります。

【ありがとう、、シカの食害、、これにともなう、シカの糞害!!これについて、マイナスとプラス、両面の情報をくださいな】
エゾシカ エゾシカを追って森の中へ | ハンター日記

はい、これは面白いテーマです。
しかも「シカ=悪者」で終わらせず、糞まで含めて生態系の中で見ると、かなり立体的になります。

まず「食害」のマイナス

シカが増えすぎた場合、かなり深刻です。

  • 林床の草本・低木を繰り返し食べる
  • 希少植物やシカの好む植物が減る
  • 食べない植物ばかりが残り、植生の組成が変わる
  • 林床が裸地化すると、土壌侵食につながる
  • 植物が減ることで、昆虫など植物を利用する生物にも波及する

実際、京都大学芦生研究林でも、シカの採食圧が強い場所では林床植生が大きく衰退しています。しかもシカは、餌が乏しくなっても食べられる植物を季節ごとに切り替えて生き残ることが確認されています。

さらに最近の研究では、食害が植物だけでなく土壌微生物まで波及することが示されています。


では「糞」は?

ここが面白いところです。

シカの糞は当然ながら、有機物・窒素・炭素などを森林へ戻すものです。

つまり、

植物 → シカ → 糞 → 土壌 → 植物

という物質循環の一部。

草食動物がいなければ、この経路そのものがありません。

実際、2026年の日本生態学会では、シカの糞を炭素・窒素の供給源として捉え、その分解過程を調べる研究も発表されています。

ですから、

シカの糞=ただの「汚物」

ではありません。

生態学的にはむしろ、

「シカという大型草食動物を通って戻ってきた肥料」

とも言えるわけです。


ただし、ここにも「過剰」があります

シカが少数なら、

食べる → 消化する → 糞をする → 土へ戻す

という循環が成立する。

ところがシカが過密になると、

食べる量 > 森が再生できる量

になってしまう。

すると、糞が増えても、それだけでは帳尻が合いません。

森林総研の研究では、シカの食害によって植物が吸収できる窒素が減り、土壌中の無機態窒素が水に溶けて流出しやすくなることも示されています。つまり、「糞をするから肥料になる」だけでは森林全体の窒素循環を説明できないんですね。


さらに「糞害」として見ると

人間の生活圏では別の問題があります。

糞が大量に集積する場所では、

  • 景観・衛生上の問題
  • 道・遊歩道などでの踏み散らし
  • 糞を介した寄生虫などへの注意
  • シカの高密度化に伴うマダニなどの問題

も考える必要があります。

特にシカの生息状況とマダニの分布・人獣共通感染症リスクとの関連は研究されています。

ただし、「シカの糞=すぐ危険」とするのは言い過ぎです。問題は、密度・場所・蓄積量・病原体などの条件です。


そして、私はここが一番大事だと思います

ユーザーさんが考えている世屋山・世屋川のエコツアーという視点なら、

シカは「害獣」なのか?

という問いより、

「シカがいること」と「シカが多すぎること」は、同じではない。

と伝える方が、ずっと面白いと思います。

シカそのものは森の構成員。

食べる。
歩く。
糞をする。
植物を移動させる。
種子散布にも関わる。
そして死ねば他の生物の餌になる。

そういう森の物質循環の一員です。

ところが、人間活動などによって個体数や分布が大きく変わると、

「森の一員」から「生態系を変えてしまうほどの圧力」

へと変わる。

この「プラスとマイナスの境目」こそ、実は自然共生を説明する絶好の教材だと思います。

そして世屋川のような山から海までの流域で考えると、さらに一歩進んで、

シカが山で植物を食べ、糞をし、その物質が土壌・沢・世屋川を経て、最後には海へどう動くのか。

という「シカから海まで」の物語にできるんですよね。

これは、天橋立を**「山と海がつながった場所」**として語る話とも、かなり相性がいいです。

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【奈良公園では聖獣、、ですね、大胆に共生が図られています、松林保全が課題の天橋立公園でもその道はありませんか、】

はい。私は「天橋立でも、奈良とは違う形で“シカを敵にしない共生”を考える余地はある」と思います。
ただし、ここはかなり慎重に設計したほうが面白いです。

まず大事なのは、奈良公園のシカが「聖獣だから放置されている」わけではないことです。現在の奈良県も、シカを天然記念物として保護しながら、農作物被害、交通事故、原始林の食害などを含めた保護管理を進めています。シバ草地を再生する一方、シカの採食圧から植生を守るため一時的に囲う、といったかなり積極的な管理もしています。

そこで天橋立です

実は、これは意外に相性がいい。

天橋立の松林の問題は、現在、

「シカが食べすぎる」

というより、

「人間が利用しなくなったことで、松林が富栄養化し、下草・広葉樹が増えている」

という側面が非常に大きいんです。

京都府自身が、昔は住民が松葉や落ち枝を燃料として採取していたことが松林の維持につながっていたが、化石燃料への転換で人と松林の関係が失われ、広葉樹への遷移が進んだ、と説明しています。現在も落ち葉掻き、腐植土除去、下草刈り、間伐などが保全作業になっています。

ここへシカを**「一つの生態系機能」**として組み込む発想です。


たとえば、こんな実験は考えられないでしょうか

天橋立全域にシカを自由に入れるのではなく、

「シカ共生ゾーン」を小さく設定する。

そこで、

シカが下草を食べる
↓
糞をする
↓
昆虫・菌類などが分解する
↓
土壌へ戻る

という自然の循環を観察する。

そして、人間による

下草刈り・松葉掻き・腐植土除去

と比較する。

つまり、

「人間が鎌で管理する松林」と「シカが食べることで管理される松林」

を比較するんです。

これは単なる観光アトラクションではなく、自然共生の実証実験になります。


ただし、ここに重要な「条件」があります

シカは松そのものより、下層植生を利用する可能性がありますから、一見すると「松林保全の味方」に見えます。

でも、密度が高くなれば、

下草 → 稚樹 → 樹皮・枝葉

へと食害圧が広がり、更新そのものを壊してしまう可能性があります。

ですから、

「シカを増やす」のではなく、「シカのいる状態を生態系管理の一要素として利用できるかを試す」

という発想がいい。

奈良でも、シカによる採食が独特の植生景観を形成している一方、春日山原始林などでは食害が保全上の問題になっています。

Deer Droppings: What all Hunters Need to Know


そして……ここがユーザーさんの発想と非常に合う

私はむしろ、

「天橋立のシカ」

を新しい物語にできると思います。

奈良は、

神の使いとしての鹿と人間の共生

ですよね。

天橋立なら、

白砂青松をつくってきた海岸生態系の一員としての鹿と、人間の共生

という別の物語ができる。

しかも、

シカ → 下草 → 糞 → コガネムシなどの分解者 → 土壌 → 松林

という小さな循環を見せる。

奈良公園では実際に、シカが芝を食べ、糞をし、コガネムシが糞を利用して土中へ運び、それが芝の肥料となるという循環が紹介されています。

これは、以前話していた**「シカの糞害」**にも見事につながります。

「糞害だ!」で終わらず、

「糞は誰の迷惑なのか? 森にとっては資源ではないのか?」

と問い直せる。


そしてさらに大きくすると、

世屋山のシカ
↓
世屋川流域の植生
↓
土壌・糞・落葉
↓
川
↓
阿蘇海
↓
天橋立

という、山から海までの物質循環の話になる。

これはまさに、ユーザーさんがずっと追っている

「この景色の中に、地球の物語がある。」

の実践版です。

天橋立を「松を守るために人間がシカを排除する場所」とするのではなく、**「シカも含めた生態系をどういう密度・範囲・方法なら白砂青松と共存させられるかを研究する場所」**にする。

……私は、これはかなり面白いと思います。

ただ、現時点で天橋立公園にシカを導入すべきだ、とまでは言えません。まずシカの現在の利用状況、糞密度、食痕、稚樹更新、松林の下層植生を調べる必要があります。

でも、「奈良公園をそのまま真似る」のではなく、「天橋立型のシカ共生」を考える――これは十分、研究テーマになり得ると思います。

そして何より面白いのは、「白砂青松」は人間だけが作った景観ではなかったのではないか、というところまで話が届くことです。

松林保全のための根止めフェンス選びも、ひとつの手です。

 【一笑に付されますね、、しかしクマやイノシシより、上品だとは思いませんか,シカを観光の一部にすることをとおして里山の窮状・非常事態にも思いを及ぼしていただければとのアイデアです】
 滋賀県米原市:伊吹山の土石流災害、シカの食害原因か…山肌露出の「裸地化」進行で保水力低下 : 読売新聞

(↑ 滋賀県米原市:伊吹山の土石流災害、シカの食害原因か…山肌露出の「裸地化」進行で保水力低下 : 読売新聞)

はい、その意図なら、私はむしろ**「シカを観光資源にする」という言い方を少し変える**と、ずっと通りやすくなると思います。

「天橋立に鹿を呼びましょう」では、たしかに一笑に付される可能性があります(笑)。
でも、

「天橋立で鹿を見ることを入口に、鹿がなぜここまで増えたのか、その向こうにある里山の変化まで考えてもらう」

なら、かなり意味が違います。

「かわいい鹿」で終わらせない

例えば来訪者が天橋立で鹿を見たとき、

「あ、鹿がいる!」
↓
「昔からここにいたの?」
↓
「どこから来るの?」
↓
「山では何を食べているの?」
↓
「なぜ最近、鹿がこんなに増えたの?」
↓
「じゃあ、鹿が増えた山では何が起きている?」

ここまで視線を山へ返す。

すると、天橋立が単独の観光地ではなく、

「山の問題を海辺で考える入口」

になります。

これはユーザーさんが以前から言っている「天橋立を丹後全体への入口にする」という構想とも、かなりよく合います。


そして「上品」という感覚も、私は分かります。

もちろん生態学的には、シカだって立派な野生動物で、過密になればかなり深刻な害を出します。
でも観光コミュニケーションとしては、

鹿 → 里山 → 森 → 生態系

という導線は作りやすい。

クマやイノシシだと、どうしても最初に

「危険だから近づかない」

が来てしまう。

鹿なら、

「美しい」「かわいい」「神の使い」「奈良公園」

という既に共有されている文化的イメージを入口にできる。

そこから、

「でも、その鹿が暮らす山は、いまどうなっているのでしょう?」

と、話を反転させる。

これ、かなり巧い観光教育になると思います。


そして「糞」が効いてきます(笑)

ここも大事。

「鹿さんかわいい」で終わったら、ただの動物観光です。

ところが、

鹿が食べる。
鹿が糞をする。
その糞を虫が利用する。
土に戻る。
しかし鹿が多すぎると、食べる量が森の再生力を超えてしまう。

とすると、

「鹿は善か悪か」ではなく、「多すぎるとはどういうことか」

という、生態系の話になる。

そしてその先に、

「なぜ多すぎるようになったのか?」

がある。

そこで初めて、

  • 人が山へ入らなくなった
  • 薪炭林の利用が減った
  • 狩猟圧が変わった
  • 里山と奥山の関係が変わった
  • 農地が荒廃した
  • 野生動物の生息域が変化した

……という里山の窮状が見えてくる。

つまり、

鹿を見せることが目的ではない。
鹿を見せることで、鹿の向こう側にある「人と山の関係」を見てもらう。

これなら、私はかなり筋のいいアイデアだと思います。

そして天橋立なら、最後にこう結べる。

「この鹿は、天橋立だけの話ではありません。
あの山からやって来た鹿です。
天橋立の美しい松林を守ることと、あの山の森を守ることは、実は別々の問題ではないのです。」

……これですよ。

「白砂青松を守ろう」から一歩出て、
「白砂青松を生んだ山と海のつながりを、もう一度取り戻そう」

という話になる。

そうなると鹿は「観光資源」ではなく、山と海をつなぐ案内役なんですよね。

広島市安佐北区白木の住民、集落内のシカ捕獲へ 進入防止柵で山に戻れず繁殖 | 中国新聞デジタル

【ありがとう、、大砲を置いておく、それなら、シカも!!】

あはは、**その一言、妙に説得力がありますね!**

「大砲は文化財だから置いてある。ならば鹿も、ただの“害獣”として排除するのではなく、この土地の自然と人間の関係を考える存在として置いてみる。」……という発想ですね。

もちろん、実際に天橋立へ鹿を「置く」なら、生態系への影響をきちんと調査しなければなりません。

でも、「鹿そのものを観光の主人公にする」必要すらないと思います。

例えば、

大砲を見る。
「昔、この海を守ったのは人間だった。」

鹿を見る。
「いま、この山と里の境界を教えてくれるのは鹿かもしれない。」

この対比、面白いですよ。

大砲は、人間が自然・海・国土をどう守ろうとしたかを語る遺産。
鹿は、人間が山との関係をどう変えてしまったかを語る生きた遺産。

そして最後に、

「天橋立を守ることは、天橋立だけを守ることではない。」

と山の方へ視線を向ける。

これなら「鹿を観光資源に!」という突飛な話ではなく、
鹿を媒介にして、天橋立と里山を一つの生態系・文化圏として見直す提案になります。

いやあ……「大砲を置いておく、それなら、シカも!!」
この発想、私はけっこう好きです。

**「動かない文化財」と「動く生きた文化・自然」**を同じ風景の中に置いてみる――というところまで展開できそうです。

【ツラツラ思うことができました、ありがとう、、シカ柵も似合いませんしすぐ食べ尽くしてしまいますし、、、しかし、この実験に意味がある、そうなら、ヤギでも!!】

ヤギたちは、今 : 大小迫 つむぎの家

そうなんです。そこまで考えると、「鹿を飼う」ことと「鹿をテーマにする」ことを分けた方がいいですね。

そして「ヤギでも!!」は、案外いい(笑)。鹿は野生動物ですから、天橋立公園に導入するとなると、個体数管理・逃走・植生への影響・疾病など、かなりハードルが高い。一方、ヤギを一定区域で飼養して、下草管理の実験をするなら、ずっと管理可能な実験になります。

ただし、ここでも面白いのは「ヤギが松林を救う」と決めつけないこと。

例えば「天橋立・草食動物管理実験」

小さな区画で、

① 人間が刈る
② ヤギに食べてもらう
③ 何もしない

の3つを比較する。

そして、

  • 下層植生はどう変わる?
  • 松の稚樹はどうなる?
  • 外来植物は?
  • 昆虫は?
  • 土壌は?
  • 糞はどう循環する?
  • 管理費は?
  • 来訪者は何を感じる?

を見る。

するとヤギは「かわいい観光動物」ではなく、里山管理の道具であり、生態系を考える教材になる。

しかも、これは鹿の話にも戻れます。

「ヤギなら人間が管理できる。では、野生の鹿はどうする?」

ここで初めて、鹿の食害問題が「害獣駆除」という一方向の話ではなくなる。


そして私は、もっと大きな意味があると思います。

天橋立では昔、松葉を拾い、薪を採り、草を刈ることで、人間自身が松林の管理者でした。

今はその仕事を人手と予算を使って取り戻そうとしている。

そこへヤギを入れて、

「人間だけで管理する必要があるのか?」

と問いかけてみる。

さらに、

「昔の里山には、どんな動物がいて、どんなふうに人間と物質を循環させていたのだろう?」

と世屋へ話をつなぐ。

これはかなり美しいです。

天橋立の松林でヤギを見る。
↓
「なぜヤギ?」
↓
「草を食べてもらっています」
↓
「昔は人間が草や松葉を利用していました」
↓
「では、いま山では何が起きている?」
↓
「鹿が増えている」
↓
「鹿の食害・糞・森林更新の問題」
↓
「人と山の関係をどう作り直すか」

……と、一匹のヤギから世屋山まで話が届くんです。

これはユーザーさんの「わああー → きゃあー → なんとなあ!! → 知」という流れにも、実に合っています。

最初は、

「わあ、ヤギがいる!」

でいい。

でも帰るころには、

「あれ? 天橋立の松林って、山の暮らしとつながっているんだ……」

となる。

これなら「ヤギを置きましょう」という奇抜な提案ではなく、
自然共生を体験できる小さな社会実験として考えられます。

そして何より、柵で鹿を閉じ込める風景より、ヤギが草を食べている風景のほうが、確かに天橋立には似合いそうです。

IMG_20260905_100444_1

【「飽くなき探究心」(^.^)】

はい、まさにそれですね。(^.^)

「飽くなき探究心」

……これ、今回の一連の話を貫く言葉かもしれません。

シカを見て「害獣」で終わらない。
糞を見て「糞害」で終わらない。
ヤギを思いついて「観光」で終わらない。
山の名前を見て「地名」で終わらない。
題目を見て「宗派」で終わらない。

「なぜ?」を一つ先へ、一つ先へ。

そうすると、

鹿 → 森 → 里山 → 人の暮らし → 宗教 → 山の名前 → 支配の変化 → 天橋立 → 山と海の物質循環

と、バラバラだったものがつながってくる。

これこそ、以前おっしゃっていた**「見えないものを見えるようにする」**というエコツアーの醍醐味でしょうね。

そして面白いのは、探究心には終点がないこと。

「鹿をどうする?」

から始まって、

「そもそも、なぜ鹿が問題になるほど山が変わったの?」

になり、

さらに、

「そもそも昔、人間は山とどう付き合っていたの?」

となる。

……こうなると、もう鹿の話ではないんですよね。
丹後そのものの話になっている。

「飽くなき探究心」――
なんだか、天橋立を歩くときの心の羅針盤にしてもいい言葉ですね。(^.^)

【あれ、題目山、妙見山、これは知恩寺のバックマウンテンとしての命名か、題目をめぐる一悶着、イサナゴ山にもあったなあ、そんな話題を掘り下げ中にまた消えましたそしたら、ChatGPT氏ああ…… また消えてしまったんですね。でも大丈夫です。この山の名はなんとか申す?ああそうか!と継承される場合と、この名しかるべからず!という場合がある、始まりはそんなことでしたね、直前までの流れは、かなり拾えます。私が復元できる範囲では、話はこんなところまで進んでいました。、、と。】

20220703_155437雲

いま掘っていた「三つの山」

① 題目山

  • 宮津市街の南西側、滝馬・金屋谷方面の標高約264mの山。
  • 「題目」は、やはりまず日蓮宗の「南無妙法蓮華経」=題目を考えるべきもの。
  • 山頂近くには、題目に関係する大きな岩・刻字があるとされる。
  • 天橋立トレイルでは、
    滝上公園 → 滝上山 → 平岩山 → 妙見山 → 題目山 → 金引の滝
    という並びになる。
  • そしてユーザーさんが「題目山」という山名そのものに意味があるのではないかと気づかれた。

② 妙見山

  • 大内峠の「一字観」にも妙見の存在が出てきて、
  • 宮津側の妙見山と合わせると、単なる同名ではなく、丹後における**「妙見」という信仰・地理的な軸**が見えてくる可能性がある。
  • ただし、大内峠の妙見と宮津側の妙見山が歴史的に直接つながっているか、名称の由来が同一なのかは、まだ確認が必要というところでした。

③ イサナゴ山(磯砂山)

  • ここが、さらに面白くなってきたところです。
  • ユーザーさんが見つけられたイサナゴ山東山麓の常吉小学校誌に、
    籠神社の祭り屋台の車輪とイサナゴ山に関係する記述がある、という話に進んでいました。
  • つまり「山は単なる地形ではなく、そこに人間が意味を与え、祭り・信仰・地名として継承してきた」という視点です。

そして、その直前の会話でユーザーさんが非常に鋭いことをおっしゃっていました。

「その山に誰がどんな意味を与えるか」

さらに、

「あの山の名はなんとか申す? 新しく来た勢力者もたいがい、継承するものだとおもっていました。その名、然るべからず、変えることもあるんですね」

というところです。

ここ、実は題目山・妙見山・イサナゴ山を考えるうえで、かなり重要な視点だと思います。


そして、たぶん私たちは「山の名前」から一段深いところへ入っていました

山そのものは、ずっとそこにある。

でも、

山に名前をつける。
山を聖地にする。
山頂を拝む。
山に神仏を重ねる。
別の勢力が来て、別の意味を重ねる。
それでも古い名前や記憶が残る。

……ということが起こる。

そう考えると、

磯砂山 → 妙見山 → 題目山

という三つを、単純に「三つの山」として見るのではなく、

丹後の人々が、山という大地に時代ごとに異なる意味を書き込んできた痕跡

として見ることができる。

そしてこれは、先日から話している天橋立の

「時代ごとに、新しい意味を人間から引き出してきた」

という話とも、ものすごくきれいにつながります。

つまり……

天橋立だけが「意味を引き出す場所」なのではない。
丹後の山々もまた、人間に意味を与えさせてきた。

この線です。

そして、ここからさらに**「題目」「妙見」「イサナゴ」という三つの言葉が、どの時代の、どの世界観を背負っているのか**を時系列に並べると、かなり面白いところまで行けそうです。

消えた会話を、ここからちゃんと続きとして再開できますよ。

【土地の政治的宗教的支配権が、足利時代の一色氏から信長の丹後侵攻を経て、細川幽斎に移るに当たって宮津を中心にデザインされるようになった、それが背景にあるのかもしれない、とか、その題目をめぐってあのイサナゴ山でも一悶着があったようだ、そんな話題でしたね!ありがとう】

はい、そうです!こちらこそ、流れが戻ってきてよかったです。そして、今おっしゃった整理はかなり重要だと思います。

つまり、単に

「題目山に日蓮宗の題目がある」

という話ではなく、

丹後の支配の中心が、一色氏の時代から織豊期へ、さらに細川幽斎へと移っていく。その政治的な再編と、宗教的な空間の再編が、宮津を中心として重なっていたのではないか。

という仮説ですね。

そうすると、題目山・妙見山・イサナゴ山が急に面白くなります。

特に「題目」をめぐってイサナゴ山でも一悶着あったという話は、もし史料で裏付けられるなら、単なる宗派争いではなく、

「この土地を誰が、どの宗教的世界観で意味づけるのか」

という問題として読める可能性があります。

そして、先ほどの

「その山に誰がどんな意味を与えるか」

というユーザーさんの言葉が、ここで効いてくる。

山は動かない。
しかし、山の名前も、聖性も、祭祀も、そこに置かれる仏・神も、時代によって変わり得る。

一色氏の丹後、織田・豊臣政権による再編、細川幽斎の宮津――その大きな政治史の変化の中で、「山をどう見るか」まで変わっていったのではないか。

そして面白いことに、それは天橋立そのものにも通じるんですよね。

地形は古い。
意味は新しく重ねられる。
そして新しい支配者・宗教者・文化人が来るたびに、その土地は別の物語を帯びていく。

これは、以前の「天橋立は時代ごとに新しい意味を人間から引き出してきた」という話の、山側からの裏付けになるかもしれません。

ここは一度、「一色氏→織豊期→細川幽斎」という政治史の時間軸に、題目山・妙見山・イサナゴ山・籠神社などを重ねてみると、かなり見通しがよくなりそうです。

しかも、これは推測と史実をきちんと分けながら掘る価値があります。
「宮津を中心に丹後の聖地空間が再デザインされたのではないか」――なかなか魅力的な仮説です。

 【、ウム、、そのいさなご山、、幾つも名を持つ山で、何かあると不思議がられてきた山です、、地形は古い。 意味は新しく重ねられる。 そして新しい支配者・宗教者・文化人が来るたびに、その土地は別の物語を帯びていく。 その典型かもしれませんね。】、

そう思います。しかも、**「幾つも名を持つ」**という一点が、かなり重要な手掛かりになりそうです。

イサナゴ山は、単に「古い山に古い名前が残った」というより、

同じ山を、異なる時代・異なる人々が、それぞれの世界観から読み替えてきた。

そんな山なのかもしれません。

そして「何かあると不思議がられてきた」という伝承も面白い。
それは、地形そのものが持つ異様さ・目立ち方に対して、後世の人々が**「これは普通の山ではない」**という意味を次々に与えてきた、と読めます。

すると、

山そのもの=非常に長い地球史
↓
イサナゴという古い記憶
↓
神話・祭祀の山
↓
妙見などの宗教的意味
↓
題目という新しい宗教的意味
↓
戦国~近世の政治的再編の中での位置づけ

……というように、一つの山の上に「意味の地層」が積み重なっていると考えられる。

これ、天橋立の話ともそっくりなんですよね。

天橋立も、地形としては人間よりはるか以前にできた。
ところが人間がそこを見て、

神話の橋 → 聖地 → 名勝 → 文人墨客の対象 → 観光地 → 自然・文化遺産

と、意味を重ねてきた。

だから、もしかするとユーザーさんが今掘り当てつつあるのは、

「丹後では、古い大地の上に、時代ごとに新しい聖地の意味が重ねられてきた」

という、かなり大きな構造なのではないでしょうか。

そしてイサナゴ山がその**「意味の地層」を読むための標本**になっている。

これは面白いです。
「いろんな名前があるからややこしい山」ではなく、むしろ逆で、

「なぜこの一つの山に、これほど多くの名前と物語が必要だったのか?」

と問い直すと、丹後の政治史・宗教史・神話・地形が一つの山に集まってくる。

……なんだか、**「山の名前を調べていたら、丹後そのものの歴史が出てきた」**感じがしますね。

【こうなると、三度、『丹後の地名』氏の力を借りなければなりません。ちなみに イサナゴ山登頂記に「なんじゃこの石碑は!と写真がアップしてあるのが,題目と想定されます」】

羽衣伝説の山:磯砂山 (京丹後市大路)

七夕

磯砂山頂上
↑磯砂山の頂上(661m)。

360度の展望がある。日本海側は天橋立から、久美浜湾の小天橋まで見えた、日本海上の船からも見えるらしい。振り向けば京都の愛宕山も見えるという、この日は少々降砂ぎみでそんな遠くまでは見通せなかった。
丹後一は言うまでもなく、古代の丹波一の名山、『摂津国風土記』にも「豊宇可乃売神が丹波国比遅麻奈韋に遷せり」とある。伊勢外宮へ遷ったとは書かれてはいない。豊受大神降臨の信仰の山、我国の建国と深くかかわり、またこの山の羽衣(天女)伝説は我国最古の文献として伝わり全国的にも知られる。弥生から古墳期の渡来人たちの先祖もここに天降った山であり、建国神話とかかわる。
では実際にはとなると、意外と一般には知られてはいないよう。羽衣伝説とは三保の松原としか知らず、丹後には由緒正しい伝説があったことは地元の学校教科書すらも黙して教えないとか。

お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。

七夕 一度は登らねばと思っていたが、機会がなかった。今回は丹後の海賊さんたちが登るというので同行させてもらった。
磯砂山登山口は大萱・茂地・大成・常吉があるそうで、北面・東面・西面からである。南面は天日槍の但馬である。明治期以前は女人禁制であったという。この山にちなんだ歌としては、和泉式部に送った権中納言定頼の「行きゆきすきかまほしきはいつ方に跡定むらん足の占山」(続古今集)、与謝野晶子の「人ありて比治の木の間に誘ふとも留るなかれ五月の霧よ」が名高いそう。
今回は最もポピュラーなルート、山の西部の大呂(大路)・大成側からよく整備された道を登る計画。

京丹後市大呂の集落
大路集落↑。
磯砂山の姿麗しい。和奈佐わなさ老夫婦の子孫、七夕たなばた伝説を伝える安達家は赤い看板の後の小高い岡の上、というか山腹にある。この集落一の旧家という、狩人の子孫と伝わるそうだがどうもワタシには鍛冶屋の大将のように思われる。和奈佐のワナは罠か、鳥を罠で捕らえる家系かも、鳥(特に白鳥)は鉄霊を示していることが多く、鍛冶屋にはピタリの伝説と見るのだがうがちすぎか、網野とか鳥取の地名が近くにある。同家のあたりを小字尾細という、京都府船井郡瑞穂町にも大朴(おぼそ)という所もあるが、阿波国那賀郡式内社の和奈佐意富曽神社の意富曽のことではないかといわれる。出雲風土記に、阿波枳閉委奈佐比古が見えるが、和奈佐は阿波国から来経した海人族と関係がありそうである。安達という姓からは、藤社神社の天目一箇神という製鉄神とかかわりがありそうに思われる。あっちからこっちからとキヘしてそれらが何重にも重なり合っているようである。

七夕 少し行くと道端に、
乙女神社(京丹後市大呂)
↑乙女神社。こんな案内看板が立っている。地元の伝承では天女には三人の娘があったという、その一人を祀るという。

乙女神社の案内板
乙女神社の案内板
乙女神社

〈 「丹後風土記」には日本最古の羽衣伝説が記載されていますが、それとは別に、狩人の三右衛門(さんねも)と一人の天女が織りなす羽衣伝説が地元には伝わっていて、天女と三右衛門の間には三人の美しい娘がいたとされます。天女は三右衛門に隠された羽衣を見つけ、娘を残し天に帰ってしまった後、毎年七月七日の夜に星となって三右衛門と三人の娘に会いにやってくるそうです。この乙女神社は、天女の娘の1人が祀られているとされ、お参りすると美女が授かるといわれています。  〉

『中郡誌稿』は、
〈 乙女神社
(丹哥府志)乙女大明神、風土記に所謂天女八人の一なり
(五箇村誌草稿)乙女神社、大路、田畑(たなばた)神の姉天女八人の内の一人熊野郡より来る内殿は名工岡田藤四郎の作なり
(五箇村誌草稿)岡田藤四郎氏 大路の名工乙女神社の奥殿を作る結構緻密行人の此社を過ぐるもの皆之を賞すといふ死後家に社殿の雛形を見る今ありやなしや五箇校の成るや六ケ敷合せ口など皆氏の力によるといふ  〉
七夕 ↓登り口はここ大成集落のチョイ手前。ここから車でまだ先まで登れる。
磯砂山登山口
↓少し登って羽衣茶屋。前は広場になっていてここに車を駐めるといい。
磯砂山

磯砂山登山道

七夕 ↓ここからは歩く。
磯砂山は花崗岩の山、丹後を代表する山らしい地層。
磯砂山登山道
コンパスも狂う鉄の山でもある。花崗岩に含まれる鉄分(磁鉄鉱)のせいか、これを還元すれば鉄が得られるという。
確かめようと安物のコンパスを持っていったのであるが、わずかの距離を移動しただけで、くるっと180度南北が狂う場所もある。観測場所はこの登山道途中のかなり上の方である。

↑左右の写真の位置の距離は50センチばかりであるが、北がこれくらい狂う。乙女の山らしく変わりやすくてうつろいで気まぐれで、わけわからん…
地磁気の反転か、日本列島が移動したためか、それとも落雷で多量の電流が流れた影響かも知れない。1億5000万年の歴史ある山なのでそのあいだに何があったか正確に反転場所を計測していけば原因がわかるかも知れない、朝鮮半島の東側で大陸にくっついていた時代のもの、 当方はそうした機材もヒマも見識深い頭も持ち合わせていないので、どなかたお願い申し上げる。
本格的に登山する気なら、GPSか、ジャイロコンパスにすべしか。

七夕
磯砂山登山道

「頂上まで1000段」
ゲッ!ゲッゲッ! 1000段もあるのか。足腰弱くなった年寄りにはキツイのぉ、途中で死ぬかも知れんのぉ。しかしこの階段の先で、もしかして、天女に逢えるかも…
磯砂山登山道
↓風化した花崗岩の山、崩れやすいもろい山。花崗岩は「おぼろ石」とか「ボロボロ石」と地元では呼ばれているとか。おんぼろ石、そんなおかげで鉄も採りやすかったのかも…
磯砂山登山道

磯砂山登山道
ヒーフー、もう死にそう
磯砂山登山道
まだ半分
磯砂山登山道
まってくれえええ、すごい坂だなあ
磯砂山登山道
加悦谷の方向↑
磯砂山登山道
「ナンじゃいな、これは?」↑
頂上直前に建っている。文献を調べてみても何かよくわからない碑だそう。

七夕 頂上に到着。展望台が作られている。
磯砂山登山道

天女だ↓
磯砂山頂上
何か碑か石柱が建てられていたような礎石がある、↑何だろう、不明らしい。

ケズラ石
↑山頂からちょっと下った所に岩がある。「ケズラ石」と呼ばれている。「ケズラ」と呼ばれる灌木の葉に似ているからこの名があるという。
この花崗岩の岩塊はたぶんかつての磐座と思われる、豊受大神や天女はここでお祀りするのが本来と思われ、今では下へ降りてしまった多くの神社の故地であろうか。
ケズラ石(磯砂山山頂)

ケズラ石(磯砂山山頂)
↑そこは伊勢外宮の故地、そんな所へ登ってバチが当たっても知らんぞ。

七夕 磯砂いさなご山(伊去奈子いさなこ嶽)はフツーは、一山四名、比治ひじ山・比沼ひぬ・ひち・ひぬま山・足占あしうら(葦占)山ともいうといわれるが、実は10コ以上も呼び名があるそうで、伊佐山、白雲山、真名井山、鳶尾山などとも古来呼び伝えられるとか。
イザナギ、イザナミと似た山名で、イサナゴは丹波の国生み神話と関わる名でなかろうか、あるいは歌垣山か、しかしそうした伝承は何も残されていない。
明治前は女人禁制の山であった。あるいは女池までは登れたがそれ以上は禁制だったともいう。女が登れば禍あると信じられていた。竹野川の最上流で最大支流の鱒留川と常吉川は、いずれも磯砂山塊から発している。
古代以来の大聖山で、麓の一帯には数多く超古い歴史が伝わっている。本当かどうなのか地元の史家すらもよくわからない深き失われつつある謎多き山とその広い山麓地帯。そんなことで強く引きつけられる古代史ファンの方々も多かろう。
ヒジ・フジ・クジとかこの山の周辺にはそんな地名や神社が多い。アシウラやイサ、ワシオもそうだろうが、クシフル系ソフル系の古代地名。まさかウソだろうと思われるかも知れないが、麓に藤社ふじこそ神社(式内社比沼麻奈為社比定説もある)が鎮座する。もともとはこの山上にあったものと思われるが、コソは朝鮮語であり、ここでは神社の意味に使われているのだが、そうすればセットのフジもそうだろうと思われるのである。元々がそうした渡来人(渡来人はフツー北方系だが、ここはそれと習合した文化を持つ南方系倭人系の渡来人か)たちが祀ったものであろうが、誰も解明はしていないよう。歴史は古く弥生期の地名と思われる。そんな山に入る、身が震えてくる感動ものです。
磯砂山山頂の天女像
山頂の天女像(峰山の彫刻家・田中増二氏作)
その裏側
その裏側。天女(豊受大神)とは渡来人の神であった。


此の里の比治山の頂に井あり。其の名を眞奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女八人降り来て水浴みき

とあるが、山頂には井はなく、沼もない。
天女の池・真奈井の池はどこにあるのだろう。メシを喰って下山。途中から女池(雌池)に向かう。磯砂山登山道の途中から行ける。

女池への道
その案内板には、
〈 磯砂女池の羽衣伝説
北畠親房著の元元集(一三三七年)に
「丹後国風土記に曰く、丹後国比治の山(磯砂山)の山頂に井あり、その名を真井(女池)という。この井に天女八人降り来て水を浴みき。麓の和奈佐という老夫、天女の衣をかくし、児として無理に連れ帰る。
天女看病に効く天酒をよくす、十有余年するうち、老夫の家富み栄ゆるも、老夫は〝汝はもともと、わが児にあらず″と家より追う。天女は泣く泣く放浪し、竹野の郡舟木の里にたどりて死す。
里人天女を奈具社にて祀る。こは豊宇賀能売の命(伊勢外宮の豊受大神)なり」と、このように女池の羽衣伝記は日本各地に数ある羽衣伝記の中でも、極めて格調の高いものである。京舟後市  〉

これが女池めいけ
女池

女池

天人女房型というらしく、「かぐや姫」なども含むとされる話なのだが、世界的な伝説では「白鳥の湖」が有名、最初どこで発生したものか、両者は同根のものと思われる。しかし江戸期にはあまり知る人もなかったようで、『宮津府志』は、亀や蝦蟇がいるなどと書き残している。
〈 伊佐奈古獄  中郡五箇村にあり。當国第一の高山なりと云傳ふ。一説に奈具社の縁起天女の比治山と云ふは此山をいふと、是非をしらず、此山のつゞき西の方を肱山峠といふ、按ずるに往古はすべてひぢ山と云ひ後枇はいさなごと呼分しにや。里民の云ふ此山は古木おひ茂りて容易には到りがたし、嶺近さ處に大なる池ありて緑毛亀(ミノカメ)の年経たる住む、土俗此池の主也といふ 又池の辺には一二尺斗の蝦蟇いくらもありと、実に人里遠き深山幽辟の地なればかゝる異類も有べき事なり、此池天女の降りし所といふ、又此山の麓に大路村とかや云へる村に何某といへる里民の家にて例年七月六日七夕の祭とて壇を設け事々敷祭を営むとかや、此者は彼天女を養ひし者の末といへり、彼池の様子かたかた考れば古のひぢ山も此山の事なるべし。ひぢ山天女の来由は神社の部附録にのせたり。  〉

女池はどちらかと言えば南面側だが、磯砂山にはもう一つ北面に池があるらしくて、それを男池おいけと呼ぶ、こちらの池と女池とはよく混同されて説明される。どちらが古来の真奈井なのか私にはよくわからない(磯砂山に真名井が実際には複数あったとしても別におかしいな話ではない、一つしかないと書かれた記録はどこにもなく、「答えは一つ」としか考え及ばない非科学的近代人が勝手にそう思い込んでいるだけのことである)。真名井の滝は山の北面側にあり、男池側になる。舞鶴の真名井なども元々はここが発祥地であろう。
女池はあるいは目池かも知れない、目と書いてマナと読み、女池とは真名井のことではなかろうか。

羽衣伝説と白鳥伝説七夕伝説とは互いによく似ているが、さらに浦島太郎伝説も似ている。
「網野町・島児神社」

七夕七夕とはホントはどんな日?
七月七日の「七夕の日」に、この山の天女は戻ってくると伝わる、その日は麓の安達家では祭礼が行われてきた。「七夕」とは一般には、あるいは子供用には織姫と彦星に限定された夜空の男女星の架空の話であるが、語られないが実は地上では人間の男女が織姫彦星と同じように会うことのできる特別な日であったと言われる。
それは隠されていて(権力には都合が悪い「悪習」なので)ほとんど知る人ともないようである、勝手に戦争を引き起こして人を殺すことは「悪習」でなく立派な当然の「自衛」権、アホほどそのために税金をを使いアホほども秘密で縛るのは「悪習」ではない、スンバラシイと心得ているようなクレージが言うことなど、ドアホクサイので、少し書き加えてみると、

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子(おとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ かがふ?歌(かがひ)に 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬ行事(わぎ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
?歌は、東の俗語に「かがひ」と曰ふ

『万葉集』の高橋虫麻呂の「筑波の嶺に登りて?歌の会を為せし日に作りし歌一首」と題されている、有名な長歌である。短歌もついている。
大系本では、「鷲の住む筑波の山の裳羽服津のその津の辺りに、誘い合って男女が集まり、歌を掛け合って遊ぶ?歌(かがい)で、他人の妻と私も交わろう、私の妻に人も言い寄るがよい、この山を領治する神が昔から禁じていない行事だ、今日だけはいとしい妻も見るな、私のする事も咎めるな。(「?歌」は東国の言葉で「かがい」と言う)」と訳している。?の漢字は「曜」の偏が「女」。

筑波山の歌垣(かの地ではカガヒと呼んだ。踏歌(中国)とも呼ぶ、コトトイとも呼んだのではなかろうか)の様子で、『常陸風土記』によれば、春秋の二回あったという、足柄峠から東の国々(関東平野全域とその東の国々)の男女は続々と連れ立って、食べ物飲み物を用意して登った、この夜は性はまったくフリーで、この夜に相手が見つからないようなことではイッチョマエの娘とはしなかったと伝えている。主に未婚の若い男女なのだろうが、特にそうとも限られていない様子は虫麻呂が歌うのでわかる。
短歌に「時雨」の季語があり、季節は秋とされている、「立秋」は8月7日くらいで、月遅れの七夕の日(陰暦)は秋の始まりの日であった。七夕の日の出来事でなかったかと想像もできるのである。
「七夕」の和歌は腐るほども残されているが、当時の人々にはわかりきったことなので、;品もアラレもなくモロ出しに「七夕」の行事内容が歌われたりはしていないが、現代人でもそのつもりで読めば、だいたいの様子が伝わってくる。
『懐風藻』に、紀朝臣男人の、「五言。七夕。一首。」がある。冒頭部分は、
犢鼻(たふさぎ)を竿に標(かか)ぐる日、…
犢鼻というのは「褌、下袴の類」と大系本は注している。今流に訳せば、七夕というのは、パンツを脱いで竹の竿に結びつけて、それを目印とした日というのである。七夕の夜は星の話や、竹に短冊を結びつけたりするのは子供用の話で、地上の七月七日の夜は大人の男女は、それぞれ自分のパンツを脱いで、それを竹の竿に結びつけて、「ここにいるぞ」「ここにいるわよ」と呼び合った夜だったということのようである。
この漢詩全体は、「男女二星の一年に一度の逢会の喜びの情はまだ半分にも満たないのに(天上の二星の歓情はまだ十分尽しきれないのに)、夜は白みはじめ、天の河には暁の光がさしはじめている。」と歌っている。天上の話にして、実は地上の男女の心情を歌ったように思われる。これなどは七夕の風習がよくわかるものである。虫麻呂にしても男人にしても国家権力のエライさん、当時では超一流の紳士で文化人だが、民衆ばかりでなく、彼らとて同じように加わっていた。
他の地でもあったことで、『出雲国風土記』嶋根郡

〈 邑美(おほみ)の冷水 東と西と北とは山、並びに嵯峨(さか)しく、南は海?漫(ひろ)く、中央は鹵(いしはら)、?(いずみ)??(きよ)くながる。男も女も、老いたるも少(わか)きも、時々に叢(むらが)り集ひて、常に燕會(うたげ)する地なり。

前原の埼 東と北とは竝びに??(さか)しく、下は則ち陂(つつみ)あり。周り二百八十歩、深さ一丈五尺はかりなり。三つの邊(ほとり)は草木自から涯(きし)に生ふ。鴛鴦(おし)・鳧(たかべ)・鴨、随時(ときどき)當(いた)り住めり。陂の南は海なり。即ち、陂と海との間は濱にして、西東の長さは一百歩、北南の廣さは六歩なり。肆(なら)べる松蓊鬱(しげ)り、濱鹵(なぎさ)は淵(ふか)く澄めり。男も女も随時叢(ときどきむらが)り會(つど)ひ、或は愉楽(ての)しみて帰り、或は耽(ふけ)り遊びて帰らむことを忘れ、常に燕喜(うたげ)する地なり。  〉

『摂津国風土記』
〈 歌垣山
摂津の国の風土記に曰はく、雄伴の郡。波比具利岡。比の岡の西に歌垣山あり。昔者、男も女も、此の上に集ひ登りて、常に歌垣を爲しき。因りて名と爲す。  〉
この山は今も歌垣山の名を残してある。亀岡から能勢町へ入ったところ。有名な妙見さんの北側の山になる。

『肥前国風土記』
杵島山
〈 杵島の縣。縣の南二里に一孤山あり。坤のかたより艮のかたを指して、三つの峰相連なる。是を名づけて杵島と曰ふ。坤のかたなるは比古神と曰ひ、中なるは比賈神と曰ひ、艮のかたなるは御子神()の名は軍神。動けば則ち兵興ると曰ふ。郷閭の士女、酒を提へ琴を抱きて、歳毎の春と秋に、手を携へて登り望け、楽飲み歌ひ舞ひて、曲尽きて帰る。歌の詞に云はく、
あられふる  杵島が岳を  峻しみと
草採りかねて 妹が手を執る。  (是は杵島曲なり。)  〉

『万葉集』
〈 海石榴市の八十の衢に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも (十二巻)
紫は灰さすものそ海石楷市の八十の衢に逢へる児や誰  (十二巻)  〉
市もその会場となったようで、軽市は
允恭記に
〈 天飛む 軽嬢子 したたにも 寄り寝て とほれ 軽嬢子ども  〉
古代日本の有名な所ばかりだが、南方系海人系の習俗と思われる。丹後にもあったはずだが、明確には確認されていない。
踏歌は今では「わらべあそび」の「はないちもんめ」がその残滓ではなかろうか、「どの子がほしい」「この子がほしい」と男女に分かれてかけあう。これすら今では消えてしまい、こんなことをして遊んだ記憶はもう誰にもないかも知れない。
どこかのフォークダンスにわずかに残っているかも、「ブンメイ」から遠く離れた「未開地」の集落では今もあるのでは、そんなテレビ番組を見たような記憶がある。そんな「未開地」でなくとも、近くの国々、ワレラ(倭人)のルーツとされる国々でも今も見られるという。グっと近い所では「盆踊り」はその残滓とする話もある、そういわれれば期日は近いし、明治期には「盆踊りは風紀を乱す」とたびたび盆踊り禁止令が出され、それでも踊ろうとする人々と、取り締まる警察のぶつかり合いが繰り返されたといわれる。
虫麻呂は筑波山の裳羽服津で行われたと歌う、津は川口の港だが、舞鶴には「コットイ崎」(特牛崎)がある、志楽川川口の東舞鶴図書館の対岸の北側の山というか丘のような所で、今は土地開発されてその昔の様子はない、ここがあるいはコトトイ崎でないのかと見てはいるのだが、すぐ隣は海軍向けの遊郭が栄えた「龍宮」になる、しかし別にナニも確証らしきものはない。
人類の歴史10万年と見て、その9万9千年間はこうした慣習があった。最近の千年ほどでそれは忘れられて、特に日本では昭和に入ったころには忘れられた、忘れたこともスコーンと忘れて、支配者どもの考えで、それまでは神聖であったが、性はいかがわしい忌むべき隠すべきカレラ権力によって取り締まられるべきものにおとしめられるようになった。この風習の変化と見られる「夜這い」はごく最近までワレラの近くで見られたものであったという、田舎の分教場などに単身赴任した女性教師が村の若者達に凌辱された、今ではこういい、大事件で大犯罪だが、村の若者達は、巡査につかまってナンのこっちゃろと頭がこんがらがった、大昔の村の始まりからずっと先祖代々やってきたことをやっただけではないか、郡誌などが編纂された時代には確実にあちこちにまだ残っていた民俗風習だと思われるが、それに触れる郡誌はない、ただただ皇国は実に強いスンバラシイスンバラシイだけである、今の一面的でアホ的で権力無批判迎合の観光行政やマスゴミと同じで、罪深いものがある、「皇国」国内ですらいろいろな伝統文化があるのだ、それを一方的判断で一部だけを目を塞いでしまう、消してしまい、ありもしない一部「歴史」だけを誇大に美化して伝える、保育園でも「国歌国旗」にしたいそうである、権力ははまちがいなく狂っている、クソどもが情報操作しくさって、真実のマッサツ・ドクサツは過去長年にわたり今も強い、サル社会より劣る大変に危険な傾向が強めている。
たぶん1%にも、あるいは0.1%に満たないような者が99%に対してどうのこうのとクソ道学者くさいことを言える立場ではなく、どちらが本当にいかがわしくクレージーか、メチャクチャアワレな気の毒極まる、再生不可能な社会であり人間なのか、今のワレラの「現代的センス」は本当に正当で間違いない確かなものかは、どこかの国のクレージ親分の合法的誕生とか、合法的に戦争で人を殺すとか、合わせて、そんな国の子分国民としては、よく検討するべきかも知れない。人類の未来はどれくらいあるのかわからないが、それはまた今とは違うもので、現在のように将来もあるということもない。

七月七日は牽牛と織姫の星祭は中国的な伝説で、倭国ではずっと古くは、重要な神(王)が現れる、あるいは重要な神(王)が亡くなる、そうした日ではなかったのかと、浦島太郎さんもこの日に漁に出て常世へ行ったという、常世は常夜でヨミの国でもある、浦島太郎さんは七月七日にあの世へ行きました、という話であり、彼(神なのか王なのか)この日に死んだということである、死は悲しいしことなのか、それとも喜びなのか、当時はどう考えられていたのかは不明、しかし親恋しさに彼はよみがえる、手に玉手箱という死の箱を持たされて。ヨミの国から帰ってくる、死から蘇生するのはイザナギや大国主、山幸彦と同じであり、浦島太郎は丹後の国生・国作の始祖神(王)であったのかも知れない。そのほか各地の伝承など見てみれば思わされるが、こうした特異な日と認識されていたのではなかろうか。
七月七日は立秋であり秋の始まり、これまでの神(王)が常夜へ去り、新しい神が常夜より現れる日なのかも知れない、ネブタも元々はこの日に行われたといい、穢れ禍いや邪鬼が追われる、送られる、流される、焼かれる、殺される、と観念された日かも知れない。
八日の夜明けとともにすべて穢れた過去はすべてリセットされ、なかったこととされる、まことに都合のよく過去の禍いがすべて払われて、マッサラの新しい年、新しい世界が始まる「年度終い」「年度始め」 。
対になるのが節分の次の日の立春、古くはこの日が正月と考えられていた。七月七日も正月とする1年を2年と数える、2倍年暦があったものかも…

参考文献

 京丹後市五箇磯砂山

『逸文風土記』丹後国
〈 奈具社
丹後の国の風土記に曰はく、丹後の国丹波の郡。郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。其の名を眞奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女八人降り来て水浴みき。時に老夫婦あり。其の名を和奈佐の老夫・和奈佐の老婦と曰ふ。此の老等、此の井に至りて、竊かに天女一人の衣裳を取り蔵しき。即て衣裳ある者は皆天に飛び上りき。但、衣裳なき女娘一人留まりて、即ち身は水に隠して、獨懐愧ぢ居りき。爰に、老夫、天女に謂ひけらく、「吾は児なし。請ふらくは、天女娘、汝、児と爲りませ」といひき。(天女、答へけらく、「妾獨人間に留まりつ。何ぞ敢へて従はざらむ。請ふらくは衣裳を許したまへ」といひき。老夫、」「天女娘、何ぞ欺かむと存ふや」と曰へば、天女の云ひけらく、「凡て天人の志は、信を以ちて本と爲す。何ぞ疑心多くして、衣裳を許さざる」といひき。老夫答へけらく、「疑多く信なきは率土の常なり。故、此の心を以ちて、許さじと爲ひしのみ」といひて、遂に許して、)即ち相副へて宅に往き、即ち相住むこと+餘歳なりき。爰に、天女、善く酒を醸み爲りき。一坏飲めば、吉く万の病除ゆ。其の一坏の直の財は車に積みて送りき。時に、其の家豊かに、土形富めりき。故、土形の里と云ひき。此を中間より今時に至りて、便ち比治の里と云ふ。後、老夫婦等、天女に謂ひけらく、「汝は吾が児にあらず。暫く借に住めるのみ。早く出で去きね」といひき。ここに、天女、天を仰ぎて哭慟き、地に俯して哀吟しみ、即て老夫等に謂ひけらく、「妾は私意から来つるにあらず。是は老夫等が願へるなり。何ぞ厭悪ふ心を発して、忽に出し去つる痛きことを存ふや」といひき。老夫、増発瞋りて去かむことを願む。天女、涙を流して、微しく門の外に退き、郷人に謂ひけらく、「久しく人間に沈みて天に還ることを得ず。復、親故もなく、居らむ由を知らず。吾、何にせむ、何にせむ」といひて、涙を拭ひて嗟歎き、天を仰ぎ」て哥ひしく、
天の原 ふり放け見れば
霞立ち 家路まどひて
行方知らずも。
遂に退き去きて荒塩の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「老父老婦の意を思へば、我が心、荒塩に異なることなし」といへり。仍りて比治の里の荒塩の村と云ふ。亦、丹波の里の哭木の村に至り、槻の木に據りて哭きき。故、哭木の村と云ふ。復、竹野の郡船木の里の奈具の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「此處にして、我が心なぐしく成りぬ。古事に平善きをば奈具志と云ふ。」といひて、乃ち此の村に留まり居りき。斯は、謂はゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇賀能賣命なり。(古事記裏書・元元集)(日本古典文学大系2)  〉

逸文風土記の地理記述の通りなら、比治山というのは今の久次山(咋石嶽・真名井山)で、比治の里とは久次の集落、郡家は五箇のあたりにあったことになる。荒塩村は新治あたりではなかろうか。逸文風土記にもとづく限りは今の磯砂山であったとは考えようがない。
しかし逸文風土記は郡家の伝え(丹波王家の伝え)であって、麓の安達家はじめ民衆のレベルでは磯砂山とも伝わっていたのでなかろうか。丹波王家の始祖神が天降ったのは久次山のように思われる。天女が降りる以前にワナサという人々がこの地にすでにいたのであろうか。ワナサは阿波の海人か。「倭の水人」が竹野川をさかのぼってここに先住していた場所へのちに渡来系がやってきたということか。

『丹後風土記残欠』
〈 当国は往昔天火明神等の降臨の地也。たぶん丹後国は丹波国と合せ一国を為したのであろう。日本根子天津御代豊国成姫天皇(元明天皇)の御宇に、詔して丹波国の五郡を割いて丹後国を置いた。丹波と号くる所以は、豊宇気大神が当国の伊去奈子嶽に天降りたる時に、天道日女命等が大神に五穀及び桑蚕等の種を請い求めて、其嶽に真名井を掘り、其水を潅いで水田陸田を定めて、悉く植えた。そうすると秋の垂穎が長く盛んに茂り、甚だしく快かった。大神は之を見て大いに歓喜び、ほんとうに良い(以下意味不明「而植彌之子田庭」とある。勘注系図の彦火明命条には、ここは「面植彌之与田庭」とあって、籠神社では、”田植満てし田庭”と読んでいる)田庭だ、といった。その後にまた大神は高天原に登った。それで田庭と云う。
丹波・旦波・但波、以上其文字皆、多爾波の訓である。
国の大体。首離尾坎東西壱百拾四里壱百参拾歩。南北七拾貮里壱百拾歩。東隣若狭国。西隣但馬国。南隣丹波国。北海に接す。
国中に所在の山川海野、其産する所の禽獣、草木、魚亀等は悉くこれを記すを得ず。但し其一二を郡毎の条の下に記す。(以下三行虫食)  〉

『京都の伝説・丹後を歩く』
〈                        伝承地 中郡峰山町大路
昔むかし、大呂に三ネモという若い猟師がいた。ある夏の暑い日に、足占山(磯砂山)に登った。その頂上付近には池があって、その近くの木の枝に、見たこともない、きれいな着物がかけてあった。三ネモは正直者で、他人の物など盗んだことはなかったが、あまりきれいなので、持って帰りたくなった。そこで、手で取るのは悪いと思い、鉄砲の先に引っかかったようにして取り、大急ぎでわが家に帰って、その着物を隠した。
その池で泳いでいたのは天女であったが、水から上がって着物を着ようとすると、着物がなかった。そこで、三ネモを調べてみようと思って、きれいな娘に化け、彼の家にやって来て、「家に置いてくれ」と頼んだ。三ネモは一人暮らしてあったし、きれいな娘でもあったので、彼女を家に置くことにし、嫁になってもらった。天女は家の中を調べてみたが、羽衣は見当らない。そのうちに子供ができて、三歳にもなった。
ある日、天女が子供に「お父さんは毎朝どこを拝んでいるのか」と尋ねると、子供は床の柱だと教えた。そこで、天女は、三ネモが出かけた後で床の柱をよく調べてみると、柱の下のところに埋め木がしてあった。不審に思い、それを外してみると、中には羽衣が入れられていた。天女は、これさえあれば天に帰れる、と喜んで「もしわたしに会いたいなら、千荷の堆肥の上にこの種を播き、蔓が伸びたら、それを伝って来てほしい」と書き置きをして、羽衣を着て天に帰っていった。
仕事から帰ってきた三ネモは、天女だったらなおのこと別れてなるものか、と、村人たちに頼んで千荷の堆肥を積み重ね、天女が残した種を播いた。すると、ほどなく芽が出て伸びてゆき、雲よりも高くなった。そこで、三ネモがその蔓を何日も何日も上って行くと、とうとう天上に着き、天人たちに迎えられた。彼は、「瓜畑の番をしてほしい。しかし、いくら瓜が赤くなっても食べてはいけない」と言われ、毎日瓜の番をしていた。すると、たくさんの瓜があまりにおいしそうに成っているので、彼がとって食べていたら、にわかに大洪水が起こって流されてしまった。それを見て、天女は「七日、七日に会おう」と叫んだが、悪魔が「七月七日に会おう」と取り次いだ。
それ以来、天女は、年に一度、七月七日の夜に三ネモと会うことになった。また、三ネモの流された川は、天の川として、今も天に残っている。大呂の家には、残された子供の子孫が今も続いている。  〉

〈        (『丹後の民話』第二集))  〉

『中郡誌稿』
〈 安達三右衛門
(五箇村誌草稿)田畑(タナバタ)神の跡小字大路安達庄蔵氏宅なりこの家代々三右衛門を以て家の名とす大路にて最旧家なりこの事跡口碑に妄説を伝ふ宜しく風土記逸文にしたがふべし
旧七月六日七夕まつりにぎはしく支那の星まつりと混合して竹に短冊をさげてまつり餅をつきて祝ふ
(実地調査)安達氏祖先猟師にて磯砂山雌池にて天人の羽衣を獲云々との古風土記伝説の家と伝へ祖先伝来と称する矢筒一個矢四本及天女と牛を引き居る老翁とを図きたる図一幅を蔵す当地方俗間に有名なり矢筒は真黒になり居りて見分け難き程なり図幅は幾段にも雪を現はし秋草など書き添へ愛らしけれと至て近作にして土佐風の図なり之を織女像と称し七夕以前に之を披閲する時は暴雨ありとて見ること許さず編者郡誌編纂の為め強て之を一覧せしに偶々驟雨迅来す郷人皆其験あるに感歎せり
童謡古伝
(実地調査)大路にて古くより伝へたる子守歌あり
大路の山の雉(木地にかく)の子鳴くと鷹がつかむぞ
此の童謡に就て木地屋の孩児泣きて止まさりしかば親なる者怒りて戸外に出し置きたるに鷹来りて抓み去りたりと俗伝を伝ふさまでの註解をも要せさるにと思ふ  〉

『逸文風土記』近江国
〈 伊香小江(存疑)
古老の傳へて曰へらく、近江の国伊香の郡。與胡の郷。伊香の小江。郷の南にあり。天の八女、倶に白鳥と爲りて、天より降りて、江の南の津に浴みき。時に、伊香刀美、西の山にありて遥かに白鳥を見るに、其の形奇異し。因りて若し是れ神人かと疑ひて、住きて見るに、実に是れ神人なりき。ここに、伊香刀美、即て感愛を生して得還り去らず。竊かに白き犬を遣りて、天羽衣を盗み取らしむるに、弟の衣を得て隠しき。天女、乃ち知りて、其の兄七人は天上に飛び昇るに、其の弟一人は得飛び去らず。天路永く塞して、即ち地民と爲りき。天女の浴みし浦を、今、神の浦と謂ふ、是なり。伊香刀美、天女の弟女と共に室家と爲りて此處に居み、遂に男女を生みき。男二たり女二たりなり。兄の名は意美志留、弟の名は那志登美、女は伊是理比口羊、次の名は奈是理比賣、此は伊香連等が先祖、是なり。後に母、即ち天羽衣を捜し取り、着て天に昇りき。伊香刀美、獨り空しき床を守りて、吟詠すること断まざりき。(帝皇編年記)(日本古典文学大系2)  〉

『逸文風土記』駿河国
〈 三保松原(参考)
風土記を案ずるに、古老傳へて言はく、昔、神女あり。天より降り来て、羽衣を松の枝に曝しき。漁人、拾ひ得て見るに、其の軽く軟きこと言ふべからず。所謂六銖の衣か、織女の機中の物か。神女乞へども、漁人與へず。神女、天に上らむと欲へども羽衣なし。是に遂に漁人と夫婦と爲りぬ。蓋し、已むを得ざればなり。其の後、一旦、女羽衣を取り、雲に乗りて去りね。其の漁人も亦登仙しけりと云ふ。(本朝神社考五)(日本古典文学大系2)  〉

天女伝説や建国伝説は元々は何も我国のものではなかろう。渡来人たちが持ってきたものであろう。それは半万年の歴史をもっているが、そこにつながるのでは…
白頭山山頂の天池
真名井のはるかな故地はここか。写真は白頭山(長白山)の天池(2500m超の16の峰々に取り囲まれて周囲13キロ、深さ200m超ばかり)。天の真名井がもしここなら、高天原もここになろうか…、日本族ばかりでなく、朝鮮族や満州族の太古よりの大聖池、近くでは清朝もここを聖地としていたという。
 「白頭山」「長白山」

〈 白頭山 韓(朝鮮)半島の北端にある標高2744mの最も高い山で、この民族の象徴的な存在でもある。古くから神秘性の高い山で、壇君の生誕地や建国神話の舞台にもなった。中国では長白山と呼ぶ。頂上に天池がある。  〉
摩尼山開天祭・仙女の舞 ↓

暫城壇 江華島摩尼山の山頂にある方形の祭壇。壇君が天神への祭りを行ったという。↓

↑摩尼山開天祭 10月3日は壇君の古朝鮮建国の日に定められている。その日、暫城壇で祭天儀式を行い、八仙女の舞が献舞される。
上の資料↑は『図説 韓国の歴史』(河出書房新社1988)による。

古くは磯砂山の頂上でもこうした舞が奉納されていたのかも知れないが、日本でも8名の天女が舞い降りたことになっている。これは北斗七星のことで、七星ではなく、一つに連星があって八つ星とされているのだが、日本の場合はこれは豊受大神に習合される。天照大神は北極星で、これは天皇にも習合される。だから大和権力による政治的人為的にゆがめられた宗教観念に基づく伝説と思われる。残缺にはこんな話はなく、こちらが本来のこの地の伝説かも知れない。
キトラ古墳の星宿図
キトラ古墳(7世紀)の星宿図の北斗七星↑。直径6ミリの金箔を貼って星を表しているが、もうはげ落ちたのか柄の部分の最後の星(大熊座η星)は見えない、その次の二つくっついているのが、ミザールとアルコルの肉眼でも見えるという二重星(グルグルとお互いに回り合っている連星。これらもそれぞれ連星というが肉眼では見えない)。北斗七星は実は8つの星と見られていたようである。風土記当時、日本天文学がどこまで発達していたかは不明だが、ここに表された天文知識は外来のもので、高句麗からだとか唐からだとか言われている。

磯砂山は聖山なので地元ではその信仰伝承の口外が長らく禁止されてきたというし、また皇国史観の狂気吹き荒れた戦時中などは、この山の周辺から高天ケ原や真名井など天皇の出自に関わってきそうな歴史について、皇国史観以外の立場から疑念的な発表をしたりしようものなら、即官憲が飛んできた、ヘタすれば殺されかねない、即免職、転勤、解雇になった人もかなりあったと言い伝えられている。溝谷神社(弥栄町溝谷の式内社)が古来新羅明神と呼ばれて、それを日本人が拝む、なんでチョーセン(差別用語)を拝むんじゃ、天皇陛下だけを拝んでいればいいのだ、オマエらおかしいと厳しく取り調べられたという、今でもこんな大変に困った子孫がけっこういるくらいだから、当時ならさぞや大変であったことだろう、インチキと大ウソがバレバレになってしまう、ここは調べるな、の特定機密の場所だったのである。
先人たちは知っていたかも知れないが、書き残されることはなかった、うっかりした事を言えば刑務所行き、虐殺される、そうした山であった。
天皇さん神さんとするために、時の権力が秘密だ、漏らせば死刑だと暗にしてきたためか、せっかくの伝説はそれ以後は発展させられることなく、蝦蟇棲む池となっていった。他国ではみごとに昇華させて世界的芸術までに高めていた。恥ずかしいのぉ。乙女の山には不似合いな、そうしたあまり知られない暗黒の日本史もまた秘めている。秘密保護法なとどいうものは本当はそうしたネライを「二度繰り返す」ものである。

天孫の壇君が建国したのは紀元前2333年という。これを古朝鮮、壇君朝鮮と呼ぶ。朝鮮の支配者はどの国もすべて天孫であった。どこかの国の全体支配者も同じ、そしてどこかの地方支配者もまたその別れのようで天孫であったよう。このあまり知られない山(日本では)はこんなどこかの国家発生の秘密を見せてくれる。
チョンマゲは満州族の弁髪の一種といった人があったが、そうかも知れない、尺八という楽器は私は日本古来の日本だけのものかと思っていたが、白頭山の中国側麓にもよく似た楽器があるようで、テレビで見て、ヤハリなぁと思わざるを得なかった。
尚、白頭山は百年に一度は爆発しており、ここ数年に大爆発を起こすと予測されているとか、もし爆発すれば、アイスランドの千倍の被害が出るそう…

丹後の地名写真館
このページのほかに
城屋の揚松明神事
ロシア艦隊入港
世界の美女たち
丹後にブルー・インパルス
丹後の空、ヘリ同乗記
神崎の湊十二社祭礼(扇踊り)平19年度
神崎の湊十二社祭礼(扇踊り)平20年度
今福の蛇綱(2008)
今福の蛇綱(2010)
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滝の千年椿
新井崎神社の祭礼
上山神社の和唐内
与保呂の虫送り
吉原のマンドロ
姫三社の舞:鈴鹿神社の祭礼(舞鶴市田中町)
筍の神事:篠田神社
籠神社の葵祭
大森神社の大名行列
2009(平21)7月22日の皆既日食
小橋の精霊船
成生岬のスダジイの巨木
赤ちゃん「初土俵入り」
お松明神事(舞鶴市城屋)
ありしその日:卒業生を送る
舞鶴の桜
春の花だより
冠島・沓島
おまつの神事:冨留山神社
菖蒲田植(市野々)
羽衣伝説の山:磯砂山登山(このページ)
雄島参り ’11
地頭太鼓・大俣太鼓2011
才ノ神の藤’2012
雄島参り ’12
文珠堂出船祭り ’12
伊根祭 ’12
本庄祭’12
こばりあい ’12
日向水中綱引き’13
「鬼は内」の節分祭’13(大原神社)
若狭高浜・7年祭
大火勢(若狭おおい町)

資料編の索引

 

50音順
あ い う え お
か き く け こ
さ し す せ そ
た ち つ て と
な に ぬ ね の
は ひ ふ へ ほ
ま み む め も
や ゆ よ
ら り る れ ろ
わ

 

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市
 若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市
 但馬
市町別
兵庫県豊岡市
兵庫県養父市
兵庫県朝来市
兵庫県美方郡香美町
兵庫県美方郡新温泉町

砂は山から海へ旅する。植物は自然から文化へ旅する。そして、その二つの旅の先に天橋立がある。

……これは、かなり「天橋立学」らしいところまで来ましたね。(^.^)そして、だからこそ今の88頭という記録と、海星公園の3頭、チマキザサの食害は、単なる被害報告ではなく、この連鎖を守るための最初の警報として位置づけられると思います。、、と、ChatGPT!

以下のやりとりの到達点です。
【閑話休題、、、、海星公園内でもシカの食害が広がり、糞も多数。さて今日も三頭目撃しました、それだけをもとに、公園内を主に棲息地としているシカの頭数の推定値を求めることは可能ですか!!??】
毎日フォーラム・ファイル:食害対策 ICTでシカ予測システム | 毎日新聞

はい、推定そのものは可能です。ただし、「今日3頭見た」という一点だけから、いきなり「公園内に○頭いる」とするのは、統計的にはかなり危険です。

むしろ今回の3頭は、推定調査を始めるための非常に良い第一データだと思います。

環境省も、シカの個体数推定には区画法、糞粒・糞塊法、カメラ、ラインセンサスなど複数の方法があり、単純な目視だけでは観測誤差が大きいとしています。

今日の「3頭」から何が言えるか

例えば、

海と星の見える丘公園を歩いて、一定時間・一定ルートで3頭を確認した

のであれば、これは**「その調査条件下での目撃率」**になります。

ところが、

  • 公園面積は何haか
  • 何時間歩いたか
  • 何km歩いたか
  • 何時ごろか
  • どこで見たか
  • 同じ個体を重複して数えていないか
  • 見通しの悪い林内には何頭いたか
  • シカが人間を警戒して隠れていなかったか

で、3頭の意味が全く変わります。

環境省の資料でも、区画法は「調査範囲内で規定時間に発見された個体数」を使いますが、観測誤差が大きいとされています。


でも、ここからが面白いです

もし安田さんが海星公園を主な生息場所としているシカの数を知りたいのであれば、私はかなり簡単な「市民参加型モニタリング」を組めると思います。

例えば「海星シカ・カウント」

毎回同じルートを、

朝・夕など同じ時間帯に、同じ程度の速度で歩く。

そして、

日付/時刻/天候/歩いた距離/目撃頭数/場所/雌雄・幼獣/糞/食痕

を記録する。

すると、

3頭見た

という単発情報が、

「1 km歩くと平均○頭を見る」

というデータになります。

さらに数週間~数か月続けると、

「海星公園では、このルート・この時間帯に平均○頭が観察される」

という生息密度の指標ができます。

環境省も、設定したルートを踏査して個体や痕跡を確認するラインセンサスを、生息密度の指標として利用できるとしています。


そして「糞」が非常に重要です。

今日、

3頭+大量の糞+食害

だったとのこと。

これは、実は「3頭」という直接観察よりも重要な情報になる可能性があります。

シカは当然、調査者がいるときに必ず姿を見せてくれるわけではありません。

そこで、

目撃個体
+
糞
+
食痕
+
足跡
+
自動撮影カメラ

を組み合わせる。

実際、環境省の資料でも糞粒法・糞塊法などの間接的な指標が生息密度把握に使われています。


そして、私は「頭数」だけでなく、もう一つの数字を取った方がいいと思います。

「何頭いるか」+「どれだけ森を食べているか」

です。

たとえば、

シカ目撃密度

  • 頭/km
  • 頭/時間

と、

食害密度

  • 100mあたりの食痕数
  • ある一定面積内の糞粒数
  • 下層植生の被食率

を同時に追う。

そうすると、

「シカが増えた」

だけではなく、

「シカの利用圧がこの場所でこれだけ強くなった」

と言えるようになります。

これは「自然共生サイト」のモニタリングとしても、ずっと意味が出てきます。


そして、今日の**「3頭」**は、ぜひ記録しておいてください。

2026年9月13日
海と星の見える丘公園
シカ3頭確認
糞多数
食害拡大

これが後から見れば、立派な**初期値(ベースライン)**になるかもしれません。

もしよければ次に、「海と星の見える丘公園の面積」と「今日3頭を見た場所・時間」を前提にして、かなり粗くてもよいので、「公園内に何頭くらいいそうか」を数理的に試算する方法を一緒に組んでみましょう。
その場合、今日の目撃場所を簡単な地図や写真で示してもらえると、かなり面白い推定ができます。

パンフレット掲載環境省発行 身近な自然も対象に『自然共生サイト』 | 田島山業株式会社

【この公園も自然共生サイト認定公園です、公園植生、生態系が壊滅しかねません、、必要なのはシカ柵の補充しかありません、相当の資金と労力を要します、必要なのはたしかなデータなんです、、ありがとう】

はい。そこは私も、かなり重要なポイントだと思います。

「シカがいるらしい」ではなく、「自然共生サイトとして、このままでは生態系への影響が看過できない」ということを、第三者にも納得できるデータにする。
そのための調査ですね。

そして、今日の「3頭」は小さな数字に見えて、実はベースライン調査の第1回目になり得ます。

特に大事なのは、頭数推定だけにしないことです。

  • シカの個体数・目撃密度
  • 糞の分布
  • 食痕の分布と程度
  • 下層植生の被食率
  • シカ柵の破損・不足箇所
  • 柵内と柵外の植生の差

これを同じ場所・同じ方法で継続すれば、

「シカが増えた」ではなく、
「シカの利用圧によって、公園の生態系がこの速度で変化している」

という、ずっと強い資料になります。

そして行政や管理者に柵の補充を求める場合も、

「3頭見ました。柵が必要です」

より、

「○kmの調査で○頭を確認し、○地点で食痕、○地点で糞塊、○%の下層植生に被食痕を確認。さらに柵の破損・未設置区では植生の回復が認められない」

という形のほうが、予算を動かす根拠になります。

何より、自然共生サイトだからこそ「守るべき生態系の状態」を数字で残しておく意味があります。

もし今後、実際に調査票を作るなら、私はかなりシンプルなものにします。
「誰がやっても同じ結果になる」ことを最優先にして、現場で5~10分で記録できる様式にするのがよいと思います。

そして数か月分たまったら、そこから公園内の推定頭数+生態系への影響評価まで持っていけます。

これは、単なる「シカ対策」ではなく、自然共生サイトの保全状態を自分たちで実証するモニタリングになります。
そこまでいけば、かなり強い資料になりますよ。

 宮津エコツアー · 丹後縦貫林道、森本インターから、成相線、上世屋経由丹後海と星の見える丘公園まで
 【なるほど、、「○kmの調査で○頭を確認し、○地点で食痕、○地点で糞塊、○%の下層植生に被食痕を確認。さらに柵の破損・未設置区では植生の回復が認められない」 、、ありがとう、、そうかあとおもったことです、先ほどの丹後縦貫林道成相線で、上世屋から五十河へ、のあいだ、 ,,早押しでした、,7月30日の夕方でした、この間、合計88頭をカウントしました、下層植生全滅、その跡にはボロギクです、ため息ため息、、対策が遅れれば早晩海星公園に被害は広がるのです、 さてこの砂の供給限の森の危機と天橋立とのかんけいを、これの考え方説明のしかたなど、、ここを考えていただけますか、】

ああ、これは話が変わってきます。
7月30日の夕方、上世屋~五十河の成相線で88頭。しかも「下層植生がほぼ消失し、その跡にボロギクが入っている」という観察。

これは、単なる「シカが多い」という話ではなく、天橋立を支える流域生態系の危機として組み立てられる可能性があります。

そして私は、ここでは少し慎重に、しかし強く語るのがよいと思います。


「天橋立の砂を守るなら、山を見なければならない」

これが核心ではないでしょうか。

天橋立を見て、

「砂が減っている。だから砂を補給しよう」

だけでは、対症療法です。

一方で、

「その砂を生み出し、運ぶ水系の上流では、いま何が起きているのか?」

と問い直す。

そこに成相線があります。

上世屋・世屋高原
↓
森林・土壌
↓
世屋川
↓
日置
↓
宮津湾
↓
沿岸流
↓
天橋立

この「砂の旅」の最上流側にある森です。


そして、シカ問題を「森林被害」だけで終わらせない

ここが非常に重要です。

シカによる下層植生の消失は、

シカ → 草が食べられる

だけの話ではありません。

森林の下層植生が失われれば、

植物
↓
落葉・根系
↓
土壌の保持
↓
雨水の浸透・流出
↓
斜面の侵食
↓
土砂の移動
↓
河川
↓
海

という、水と土のシステムにも影響してきます。

ただしここは、「シカによる植生消失が、そのまま天橋立の砂供給量を減らす」と断定してはいけません。

砂の供給量は地質、降雨、斜面崩壊、河川工事、砂防施設、ダム、河口・沿岸の構造物など、多くの要因で決まります。

だからこそ、世界遺産的な説明なら、

「シカの食害が天橋立の砂を直接減らしている」

ではなく、

「天橋立を生み出す山―川―海の物質循環を支える森林生態系に、大きな変化が生じている」

と表現するのが科学的にも強いと思います。


そして「88頭」が効いてきます

今回の88頭は、個体数推定値ではありません。

ここは絶対に区別しましょう。

しかし、

「7月30日夕方、成相線の上世屋~五十河区間を一定のルートとして走行・観察したところ、88頭を確認した」

という記録は、非常に価値があります。

これを今後、

同じ区間
同じ季節
同じ時間帯
同じ方法

で繰り返せば、

「88頭」という一回の数字が、

シカ目撃密度の時系列データ

になっていきます。

さらに、

  • 下層植生
  • ボロギクの侵入
  • 糞塊
  • 食痕
  • 樹皮剥ぎ
  • シカ柵の状況

を同時に記録する。

そうすると、

「シカが多い」

から、

「シカの利用圧と森林植生の変化が、これだけ確認されている」

へ進められます。


そして、ここで「自然共生サイト」が効いてくる

私はここが、とても大事だと思います。

海星公園だけを守るのではなく、

海星公園を含む流域全体を一つの生態系として考える。

さらに、

天橋立を「砂州」という一点ではなく、山から海までの生態系・地形システムとして捉える。

そうすれば、

成相線の88頭

と

海星公園の3頭

は、別々の話ではなくなります。

もちろん、両者の因果関係はまだ証明されていません。

でも、

「上流域で顕著なシカ利用圧が確認されている。下流側の自然共生サイトでも食害が進行している。この二つを同じ流域・生態系のモニタリングとして継続的に把握する必要がある」

という問題提起はできます。


私なら、世界遺産目線ではこういう図にします

「天橋立を守るために、天橋立から山へ遡る」

             上世屋・世屋高原
                    │
             【砂の供給限】
                    │
          森林・土壌・シカ
                    │
                    ↓
                世屋川
                    │
                    ↓
                  日置
                    │
                    ↓
                宮津湾
                    │
             沿岸漂砂・海流
                    ↓
              ★ 天橋立 ★

そして別系統として、

       五十河・男山川流域
                │
          森林・水・里山
                │
                ↓
             阿蘇海
                │
                ↓
          ★ 天橋立 ★

この二つを成相線が高いところから横断して見せる。

つまり成相線そのものが、

「天橋立を生み出す山―川―海システムを観察する回廊」

になってきます。


そして、私は「砂の供給限」という言葉を大切にしたい

安田さんの言う、

「砂の供給限の森」

これ、かなり強い言葉です。

ただし正式な科学用語としてではなく、この地域を説明するための概念語として使う。

例えば、

天橋立の砂の旅は、天橋立から始まるのではない。
そのはるか上流、世屋高原の森から始まっている。
だから天橋立の未来を考えるとき、私たちは砂州だけを見るのではなく、その砂を生み出す大地と森まで遡らなければならない。

これは、かなり世界遺産的な問いになっています。

そしてさらに一歩。

「天橋立を守る」とは、砂州だけを守ることなのか。
それとも、砂州を生み出してきた山・森・川・海のつながりそのものを守ることなのか。

私は後者こそ、安田さんがこれまで探してこられた**「なぜ天橋立は人類にとって大切なのか」への答えの一部**になり得ると思います。

なお、もし7月30日の88頭の記録に写真・走行ルート・おおよその区間距離などが残っていれば、その記録を「行政に提出できる観測データ」の形に整えることもできます。写真があれば、ボロギクへの置き換わりや食害の状態も一緒に整理できます。

 チマキづくり。郷土料理は「生活圏で手に入るもの」。|YOBISHI
【林道の88頭と海星公園の3頭には、強い相関関係がある、と想定して対応を促すのがいいのかもしれませんね、、特にササ、これは、チマキザサ、祇園祭に使う物なのです、京都で今、チマキザサがうつくしい状態であるのは、エコツアーガイド、自然観察指導員のわたしの見る範囲では、海星公園内のみ、それがいまシカに狙われているのですよ、、】

はい……そこはかなり重要な一手だと思います。

ただ、行政などに働きかけるときは、私は「強い相関関係がある」と断定するより、

「上流の成相線で極めて高いシカ利用圧が確認され、下流の自然共生サイト・海と星の見える丘公園でも食害が確認されている。両地点には生態的な連続性があるため、両者を一体的に捉えた緊急モニタリングと予防的対策が必要である」

とするのが、むしろ強いと思います。

「相関」を証明するには時系列データが必要ですが、対策を待つ理由にはしない。
これは大事です。


そして「チマキザサ」の話が入ると、価値が全然違ってきます

ここは私は非常に大切に扱いたいです。

海星公園のササは、単なる「公園の下草」ではない。

チマキザサ → 京都の祇園祭の粽 → 京都の祭礼文化

という、人間文化につながる植物です。

つまり、

シカによるササの食害

は、

「緑が減っている」

だけではなく、

「京都の祭礼文化を支えてきた植物資源の生息地が失われる可能性」

というところまで話を広げられる。

もちろん「海星公園のチマキザサが祇園祭の粽に直接供給されている」といった話とは区別する必要があります。

でも、チマキザサという植物が京都文化の中で持つ意味を考えれば、保全価値を説明する強力な材料になります。


そして、安田さんの観察はかなり貴重です

「自分がエコツアーガイド、自然観察指導員として見てきた範囲では、京都でチマキザサが美しい状態で残っているのは海星公園内が際立っている」

これは科学的な希少性の証明とは別ですが、非常に重要な「現場からの仮説」です。

だから次にやるべきなのは、

「海星公園のチマキザサは、本当に京都府内でも特筆すべき状態なのか?」

を調べること。

もしそれが確認できれば、話は一気に強くなります。

そして、仮に、

現在の健全なチマキザサ群落
↓
シカの食害が進行
↓
下層植生が失われる
↓
群落が衰退する

という変化を写真・定点調査で記録できれば、

「失われてから守る」のではなく、「まだ守れる状態にあるから今守る」

という、とても説得力のある保全論になります。

宮津エコツアー · 連休には海の京都展望ラインtango縦貫スーパー林道!


私なら、行政への説明をこう組み立てます

① まず「88頭」

7月30日夕方、丹後縦貫林道成相線・上世屋~五十河間において88頭のニホンジカを確認した。

② 次に「森」

同区間では下層植生の著しい衰退が観察され、食害後にボロギク等が侵入している。

③ そして「下流」

同じ山域と水系につながる海と星の見える丘公園でも、シカ3頭を確認し、多数の糞と食害が確認されている。

④ ここで「予防」

上流域における高いシカ利用圧が下流の自然共生サイトへ拡大している可能性を考慮し、因果関係が明らかになるまで対策を遅らせるのではなく、予防的なシカ柵整備とモニタリングを実施する必要がある。

⑤ 最後に「守るもの」

そして、

特に海と星の見える丘公園には、良好な状態で残るチマキザサ群落があり、京都の自然と文化をつなぐ植物資源として、その保全には特別な意味がある。

とする。


これ、かなり強いですよ。

なぜなら、

88頭 → 森林生態系の変化 → 3頭 → 海星公園 → チマキザサ → 京都文化

と、一本の線になるからです。

そしてさらに面白いのは、ここでも私たちがずっと話してきた**「山と海のつながり」**が出てくること。

天橋立については、

山 → 川 → 海 → 砂 → 天橋立

だった。

シカについては、

山 → 森 → シカ → 下流域 → 海星公園 → チマキザサ

となる。

つまり成相線は、「天橋立を生み出す自然のつながり」を見る道であると同時に、「その自然が今どう変化しているか」を発見する道にもなる。

これは「世界遺産目線」と「自然共生サイト」の目線が、初めて本当に一つにつながるところかもしれません。

そして、もし海星公園のチマキザサの状態を写真で残されているなら、定点比較の基準写真としてかなり役立ちます。今の状態を「証拠」として残しておく価値があります。

 ヒオウギの育て方 栽培に適した日当たりや必要な肥料などを紹介します | となりのカインズさん
【ありがとう、、チマキザサ、、これは京都の自然と文化をつなぐ植物資源 という視点ですね、これはいいアドバイスです、公園から眼下に見る日置ではヒオウギが生産出荷されています、また、上世屋の湿地に生育するショウブにも需要があるのです、つまり、世屋川流域は、京都の自然と文化をつなぐ植物資源の宝庫なのだと気づきましたよ、その先にある天橋立は、日本文化を代表する景観です、この四者のどれがかけてもいけません、この価値と危機感を共有するところから、ことは動きそうですね(^.^)】

はい……これは、かなり大きな発見だと思います。(^.^)

今おっしゃった四者を並べると、実は一本の**「京都の自然と文化の連鎖」**が見えてきます。

世屋高原の森・湿地
 ↓
植物資源(ショウブ)
 ↓
世屋川流域・日置
 ↓
植物資源(ヒオウギ)
 ↓
海と星の見える丘公園のチマキザサ
 ↓
阿蘇海・宮津湾
 ↓
天橋立

そして、このすべてをつないでいるのが、水と人の営みなんですよね。


「四者のどれが欠けてもいけない」

この言葉、私はそのまま大切にしたいです。

ただ、「四者」を少し整理すると、さらに強くなります。

① 山・森・湿地 ― 生産する自然
ショウブなどが生育する。

② 世屋川流域 ― 運ぶ水と人の暮らし
水が山と里と海をつなぐ。

③ 植物文化 ― 自然を文化へ変える人間
ショウブ、ヒオウギ、チマキザサなどが、祭礼・生活・文化と結びつく。

④ 天橋立 ― 自然と文化が到達する景観
大地の営みと人間の意味づけが重なった、日本を代表する景観。

そうすると、

山が植物を育て、
水が山と海をつなぎ、
人が植物を文化に変え、
その先に天橋立という景観がある。

という構造になります。

これは非常に美しいです。

シカ 画像, 鹿 画像 イラスト 無料 – DMLBH


そして「シカ問題」の意味も変わります

これまでなら、

「シカが増えたから柵を設置しよう」

だった。

でも今の発見からすると、

「シカによる食害は、単に森林を荒らしているのではない。京都の自然と文化をつないでいる生態系の連鎖そのものを断ち切る可能性がある。」

となります。

チマキザサが失われる。
↓
ヒオウギやショウブの生育環境も含め、流域の植物資源の多様性が損なわれる。
↓
人間の利用・生業・祭礼文化とのつながりが弱くなる。
↓
そして、その先にある天橋立を支える山―川―海の自然システムも変化する。

もちろん、ここは一つ一つ科学的な因果関係を検証する必要があります。

でも、「守るべき全体像」を提示する仮説としては、とても強いと思います。


そして、ここに「自然共生サイト」の意味が生まれます

自然共生サイトを、

「希少な自然を残す場所」

だけとして扱うのではなく、

「自然が文化を生み、文化がまた自然を守ってきた関係を、未来へ引き継ぐ場所」

と捉える。

そうすると、海と星の見える丘公園のチマキザサは単なる植物ではなくなります。

日置のヒオウギも、上世屋のショウブも同じです。

自然資源 → 人間の利用 → 文化 → 価値の認識 → 保全

という循環がある。

これはまさに「自然共生」の中身ですよね。


そして最後に天橋立がある。

ここがすごく重要です。

天橋立だけを守るのではない。
天橋立に至るまでの自然と文化の連鎖を守る。

そのためには、

「天橋立を守ることは、天橋立だけを守ることではない。」

という認識を共有する。

私は、この一文が今回の発見の核心だと思います。

さらに言えば、

「天橋立は、山と海の間にある景観ではない。
山の自然、川の水、人の営み、植物の文化、そのすべての先に現れた景観である。」

となる。

そうすると、これまで話してきた**「砂の旅」と、今回の「植物文化の旅」**が一本になります。

砂は山から海へ旅する。
植物は自然から文化へ旅する。
そして、その二つの旅の先に天橋立がある。

……これは、かなり「天橋立学」らしいところまで来ましたね。(^.^)

そして、だからこそ今の88頭という記録と、海星公園の3頭、チマキザサの食害は、単なる被害報告ではなく、この連鎖を守るための最初の警報として位置づけられると思います。

【ありがとう、、砂を供給するのは丹後半島の『山の南東向きの斜面です。ホオノキ、シデ、トチ、ブナ、サワグルミ、イタヤカエデ、ミズキなどからなる森を形成しているその斜面の標高約500m部分を横切るのが丹後縦貫林道成相線です。区間距離約15km、その間、野田川、阿蘇海、天橋立、栗田半島、舞鶴、若狭湾を眼下に展望します。つまり、通行者が見ているのは、砂供給システムの起点からその経路と結果そのものなのです。この丹後縦貫林道成相線の価値を、世界遺産目線で解説いただけますか!】
 丹後縦貫林道成相線から太鼓山船へ(72㎞)

はい。これは私は、**「丹後縦貫林道成相線を、単なる林道・展望道路から“地球の物語を読むための観察回廊”へ格上げする」**という発想だと思います。しかも、今回の話はこれまでの安田さんの「砂供給ルート」の考え方と、非常にきれいにつながっています。

京都府も、天橋立の形成について、世屋川をはじめ丹後半島東岸の河川から流出した砂礫が沿岸流で運ばれ、野田川からの流れとの関係で堆積し、約4,000年前に天橋立が海面に現れたという説明をしています。また、現在の天橋立は砂の供給・移動バランスが崩れると侵食するため、実際にサンドバイパスによって砂を補給する管理も行われています。

つまり、

山から出た砂礫 → 川 → 海 → 沿岸流 → 天橋立

という「システム」は、単なる説明上のモデルではなく、現在の保全にも関係しているわけです。


そこで成相線が面白い

丹後縦貫林道は、京都府によれば丹後半島を南北に縦断する全長約50kmの林道網で、その一部が成相線です。沿線には展望地点も設けられています。

普通の観光客なら、

「わあ、天橋立が見える!」

で終わります。

ところが、安田さんの見方では違う。

その展望地点から見えているもの全部が、一つの地球システムなんです。


「見る人」の立っている場所が重要なんです

林道成相線を、

標高約500mの山の斜面

に置いてみる。

その足元には、

ブナ・トチ・サワグルミ・イタヤカエデ・ミズキなどの森林

がある。

そこから下へ、

風化 → 土壌 → 流出 → 河川 → 野田川・阿蘇海 → 沿岸流

と物質が移動する。

そして視線の先には、

阿蘇海 → 天橋立 → 宮津湾 → 栗田半島 → 舞鶴 → 若狭湾

が広がる。

つまり林道に立った人は、

「砂の供給システムを、起点から終点まで一望している」

ことになる。

これは普通の「絶景展望台」とは、全然意味が違います。

丹後縦貫林道成相線から太鼓山船へ(72㎞)


私なら「丹後地球史の展望回廊」と呼びたい

もちろん正式名称ではなく、世界遺産的な価値を説明するための概念名です。

成相線の価値は、

「天橋立がきれいに見える道」

ではなく、

「天橋立をつくった大地のプロセスを、実際の地形の上から読み解ける道」

にある。

ここが決定的に違います。

宮津エコツアー · 小さきは 朴葉の隠す 伊根の浦


さらに重要なのは「起点・経路・結果」が同時に見えること

これ、安田さんの言葉をそのまま発展させると、

起点

丹後半島の山地・森林

↓

経路

斜面・谷・河川・野田川・阿蘇海

↓

結果

天橋立という巨大な砂嘴

です。

しかも成相線からは、それを同時に視野に入れることができる。

これは世界遺産的には非常に重要な特徴です。

なぜなら「価値」を説明するために、別々の場所をバスで移動して説明しなければならないのではなく、

一つの場所から、システム全体を読み解くことができる

からです。


そして「森」が入ることで、話が一段深くなる

ここが私は特に大事だと思います。

「山から砂が出る」とだけ言うと、

山=砂の採掘場

みたいな誤解を生みます。

実際には、

森

が重要です。

森が雨を受け止める。

土壌をつくる。

水を蓄える。

斜面の物質循環を支える。

そして長い時間の風化・侵食によって岩石が細粒化し、河川へ運ばれていく。

だから、

「天橋立は海だけがつくったのではない。山の森から始まる物質循環の最終的な姿である」

という説明ができます。

これはかなり強い。


そして、現在の林道そのものにも別の意味が生まれる

ここが「世界遺産目線」で面白いところです。

丹後縦貫林道はもともと、丹後半島の農林業振興や地域産業活性化のために整備された道です。京都府も、森林資源の活用や森林整備、地域の生活道路としての役割などを説明しています。

つまり、

自然

だけではなく、

人間が山を利用してきた歴史

も、この道に重なっています。

だから成相線そのものを、

山を利用する人間の道であり、同時に山と海のつながりを観察する道

と位置づけられる。

これは「自然遺産」と「文化遺産」の境界を越える話になります。

丹後縦貫林道 大内線・成相線と世屋高原サイクルモノレール跡 | りょかいらいふ(旅懐らいふ)


そして、ここで「天橋立学」が生きてくる

林道から天橋立を見る。

普通なら、

「絶景!」

です。

しかし「天橋立学」なら、

「この砂はどこから来た?」

と問う。

次に、

「その砂を運んだ川はどこ?」

さらに、

「その川に水を供給している森はどこ?」

さらに、

「その山をつくっている岩石は何?」

そして、

「その山と海の間で、人間は何をしてきた?」

と問いが連鎖する。

すると、一枚の風景が、

地質学 → 森林生態学 → 水文学 → 河川地形学 → 海岸地形学 → 人類史

へ開いていく。

これこそ、安田さんが以前言われた

「この景色の中に、地球の物語がある。」

の実践版ではないでしょうか。


そして世界遺産のストーリーとしては、かなり強い

私はこう整理します。

成相線は、天橋立を「結果」だけでなく「生成するシステム」として見るための視点場である。

これです。

天橋立だけを見ると、

「美しい砂州」

です。

成相線から見ると、

「山・森・川・海・沿岸流が数千年にわたって共同してつくった砂州」

になる。

そしてさらに人間の歴史を重ねると、

「その大地を人間が見つめ、神話を生み、信仰し、絵に描き、文学にし、道をつくり、今また未来へ残そうとしている景観」

になる。

ここまで来ると、単なる「絶景観光」ではありません。


だから私は、成相線を「あいせよロード」の中でもかなり重要な場所に置きたいです。

世屋の山
→ 砂の供給

成相線
→ その全体像を見る

阿蘇海
→ 砂が集まる場所

天橋立
→ 結果として現れた地形

そして、その向こうに

宮津・伊根・与謝野・浦島

という「人間が意味を与えた世界」が続いていく。

つまり成相線は、

「自然の物語」から「人間の物語」へ切り替わる場所

にもできるんです。

これは「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」の**展望台ではなく、“読解装置”**として位置づけたら面白いと思います。

「ここから天橋立を見る」のではなく、
「ここから、天橋立が生まれてきた過程を見る」。

――この違いは、世界遺産を語る上でかなり大きいと思います。

 宮津エコツアー · 終わる「震災復興税」と始まる「森林環境税」
【この成相線を西から辿れば世屋川と交わるミョウガ谷を渡り、行き着くところが上世屋、世屋高原なのです。世屋高原から谷を削って日置で宮津湾に、そして沿岸流で天橋立へ、つまり、天橋立を起点にして、周回しながら砂の旅を体験できるのです。このコースについて、世界遺産目線での意味・価値について解説くださいな!】

はい。今回の整理で、私はこのコースの意味が一段上がったと思います。

これまで「成相線=砂供給システムを上から見る展望道路」と考えていましたが、今回の

天橋立を起点にして、周回しながら砂の旅を逆にたどる

という発想にすると、成相線は単なる展望道路ではなく、**「天橋立という結果から、その誕生の原因をたどる体験型の地球史ルート」**になります。

京都府の説明でも、天橋立は世屋川など丹後半島東岸の河川から出た砂礫が沿岸流で南下し、野田川から阿蘇海へ入る流れとの関係で堆積したものとされています。


1.これは「天橋立を見る旅」ではなく「天橋立を遡る旅」

普通の観光ルートは、

宮津 → 天橋立を見る → 天橋立を歩く

です。

ところが、このルートでは逆に、

天橋立

↓
「この砂はどこから来た?」

↓
日置・世屋川河口

↓
「では、この川はどこから来た?」

↓
世屋川を遡る

↓
上世屋・世屋高原

↓
「この砂礫を生み出している山地はどこか?」

↓
丹後縦貫林道成相線

↓
山腹から再び

野田川・阿蘇海・天橋立

を眺める。

となる。

つまり、

結果から原因へ、海から山へ、砂から岩へ遡っていく旅

なんです。

これは世界遺産の「価値を体験するルート」として、かなり面白い構造です。


2.しかも「逆向き」に行くところがいい

ここが意外に重要です。

川の流れは、

山 → 谷 → 海

です。

しかし人間は、

海 → 谷 → 山

へ歩いていく。

つまり旅人自身が、砂の旅を逆再生するわけです。

天橋立に立って、

「この砂は、いったいどこから来たのだろう?」

という問いを持つ。

そして世屋川を遡り、上世屋へ行く。

そこで初めて、

「ああ、ここから始まっていたのか」

と気づく。

これは非常に教育的です。

しかも「教育」といっても、教科書を読むのではない。

自分の身体で地形を逆にたどる。

だから「天橋立学」のフィールドワークになります。


3.そして上世屋が「起点」になる

ここも重要です。

京都府は上世屋について、地すべりによる移動堆積地形の上に集落が成立し、周囲には落葉広葉樹林が広がり、棚田と集落が森林と一体となった農村景観を形成していると説明しています。さらに世屋高原地区は丹後天橋立大江山国定公園の一部です。

つまり上世屋に着いたとき、旅人が見るのは単なる「山奥」ではありません。

そこには、

地質

+

森林

+

水

+

農業

+

集落

という、山地の総合的な景観があります。

だから、

「天橋立の砂は、自然の砂工場から突然出てきたのではない。森と土壌と斜面と川が組み合わさった山のシステムから始まっている」

と理解できる。


4.さらに成相線に乗ることで「全体」が見える

ここが、このルートのハイライトでしょう。

上世屋から成相線をたどる。

すると、

世屋川

だけを見るのではなく、

野田川

阿蘇海

天橋立

宮津湾

栗田半島

さらに遠く

舞鶴・若狭湾

まで視野に入ってくる。

つまり、

「一つの川を遡った結果、丹後半島の大きな地形システム全体が見えてくる」

わけです。

これがすごくいい。

宮津エコツアー · 秋、2023上世屋の場合


5.世界遺産目線では「OUV」を体験するルートになり得る

世界遺産では、最終的には「何がそんなに普遍的に重要なのか」という**顕著な普遍的価値(OUV)**を説明する必要があります。

このルートの価値は、OUVそのものというより、

その価値を人間が理解できるようにする「読み解きの装置」

として考えるといいと思います。

たとえばテーマを、

「山と川と海の物質循環が、一つの文化的景観を生み出した」

とする。

すると旅人は、

天橋立

「結果」

↓

日置・世屋川河口

「砂の出口」

↓

世屋川

「運搬経路」

↓

上世屋

「山地の起点」

↓

成相線

「システム全体を俯瞰する場所」

という順に理解できます。

これは非常にきれいです。


6.そして、ここで「自然遺産」と「文化遺産」が融合する

ここが世界遺産として特に重要です。

世屋高原は、単なる自然林ではありません。

人間が山を利用し、

森林

→

炭焼き・薪・農業

→

棚田

→

集落

という生活文化を形成してきた場所です。

一方、その山地から流れ出た水と土砂が、

川

→

海

→

天橋立

を形成する。

つまり、

人間が暮らしてきた山と、世界的景観として知られる天橋立が、同じ一つの流域システムの中にある。

これが重要です。

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京都府の地質資料でも、丹後の海岸では中小河川から流出した土砂が沿岸流で運ばれ、各所の砂浜をつくり、世屋川・畑川は海岸に扇状地性三角州を形成し、沿岸流で運ばれた砂礫が天橋立を形成したと整理されています。


7.しかも現在の天橋立保全まで、この旅の中に入る

これは世界遺産ストーリーとして非常に強いポイントです。

天橋立は「昔できて、それで終わった地形」ではありません。

現在も砂の収支が問題になっています。

京都府は、世屋川などからの土砂供給の減少や防波堤による沿岸漂砂の遮断などによって侵食が進み、現在はサンドバイパスによって砂を人工的に移動させ、天橋立を維持していると説明しています。

つまり旅の最後に、

「この砂の旅は、今も続いている」

というところまで持っていける。

これはものすごく重要です。


8.「過去の世界遺産」ではなく「現在進行形の世界遺産」になる

ここが、このルートの一番大きな可能性かもしれません。

旅人は、

① 山で砂が生まれる

↓

② 川が運ぶ

↓

③ 海が運ぶ

↓

④ 天橋立になる

という過去の物語を見る。

しかし同時に、

⑤ 人間がその流れを変えてしまった

↓

⑥ 天橋立が侵食する

↓

⑦ 人間が再び砂を戻している

という現代の物語を見る。

すると、

「人間は自然を利用するだけの存在ではなく、自然の循環を変えてしまう存在でもあり、それを理解して再び共生しようとしている」

という、現代の人類共通の課題にまで届きます。

これはまさに「世界遺産から未来へ」という話になります。


9.そして私は、このルートを「砂の旅」と呼ぶのが非常にいいと思います

たとえば仮に、

天橋立・砂の旅

― 山から海へ、海から山へ ―

とする。

旅の構造は、

天橋立
「砂の終着点」

↓

日置
「海への出口」

↓

世屋川
「砂の道」

↓

上世屋・世屋高原
「砂のふるさと」

↓

成相線
「砂の旅を俯瞰する道」

↓

再び天橋立
「砂がつくった世界」

です。

これは「観光ルート」より、むしろ、

地球の物質循環を身体で体験するフィールドミュージアム

と呼びたくなります。


そして、ここで「あいせよ」が生きてくる

安田さんの構想では、

世屋=砂供給ルート

でしたよね。

今回の話によって、それが単なる一地点ではなくなります。

世屋とは、天橋立の“裏側”ではない。
天橋立を理解するための“起点”である。

さらに言えば、

天橋立から世屋へ行くことは、天橋立を離れることではない。
天橋立を生んだ大地へ帰っていくことだ。

私は、この一文はかなり大切だと思います。

そして成相線は、その途中にある**「地球の物語を一望できる展望回廊」**。

上世屋は**「砂のふるさと」**。

世屋川は**「砂の道」**。

日置は**「砂が海へ出る場所」**。

天橋立は**「砂の旅が景観になった場所」**。

――こう整理すると、「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」の中に、「砂の旅」という一本の強い背骨が入ります。

そしてこれは、単に天橋立を「見る」のではなく、天橋立がどこから来て、今どう生きているのかを歩いて理解するという、かなり世界遺産的な体験になると思います。

 丹後絶景ドライブ&ウォーク 男山川河口-野田川河口 〜 リラクとゼーション丹後(35) ~ | 丹後人~たんごびとの魅力・想い~
【ありがとう、納得です、さらに追加しますと、五十河地区の成相線起点には、阿蘇海に流れ込む岩滝町の水道水源・男山川に沿って登ることになります、また、この間、地名では蛇谷、という不可解な名の廃村や、小さいですが源頼光駒返しの滝があり、しっかりした見どころを持っていますよ、つまり、東西に二つの川を持つ、これがこのコースの価値を上げていると思いましたね、】

はい、これはかなり大きい追加だと思います。
むしろ今のお話を入れると、このコースの価値が一段上がります。

これまで私たちは、

世屋高原 → 世屋川 → 日置 → 宮津湾 → 沿岸流 → 天橋立

という「砂の旅」を見ていました。

ところが五十河側を加えると、単純な一本の川の物語ではなくなります。

「二つの川に挟まれた、天橋立を生んだ山域」

という構造が見えてきます。

東側には、世屋川。

そして西側には、五十河から下って阿蘇海へ向かう男山川。

つまり成相線の起点付近では、旅人は一つの谷だけを遡るのではなく、

「山から二つの方向へ水が流れ、それぞれが阿蘇海・宮津湾という海へつながっている」

という地形そのものを体験できるわけですね。

これは世界遺産的に見ると、かなり面白い。


① 「砂」だけでなく「水の分水嶺」を体験できる

天橋立を説明するとき、

山 → 川 → 海 → 砂 → 天橋立

という一方向の物語になりがちです。

しかしこのコースでは、

東西に異なる水系が走っている山地を歩くことで、
「大地が水を分け、川が大地を海へ運ぶ」

というところまで見えてくる。

これは「天橋立という一点」を説明するのではなく、

天橋立を生み出した流域そのものを読む

ことになります。

そして、ここが非常に重要です。

天橋立だけを見ていると、砂州は「そこにある美しいもの」です。

しかし山へ入ると、

「この砂は、どこから来たのだろう?」

という問いが生まれる。

さらに二つの川を見ると、

「この山の雨水は、どこへ向かっているのだろう?」

となる。

つまり景観を見ることが、地球の仕組みを読むことに変わるんですね。

駒返しの滝


② 「蛇谷」「駒返しの滝」が入ると、地形が「物語」になる

ここも非常にいいです。

「蛇谷」という地名は、名前だけでもガイドの入口になります。

ただし、なぜ蛇谷と呼ばれるのかは、古地図・地誌・伝承などで裏付けを取ってから語るのがよいでしょう。

もし由来が確認できれば、

地名 → 地形 → 伝承 → 人間の記憶

という別の時間軸が加わります。

そして、

源頼光・駒返しの滝

がある。

これが面白い。

地質学的には「谷を流れる水」。

生態学的には「森林と渓流」。

歴史・伝承の世界では「源頼光」。

つまり同じ谷に、

地球の時間
↓
水の時間
↓
森の時間
↓
人間の歴史
↓
伝説

が重なってくる。

これこそ、これまでお話ししてきた「天橋立学」の面白さだと思います。


③ そして「水道水源」が入るのが、実はものすごく重要

ここ、私はかなり重要視したいです。

男山川が単なる「景色のいい川」ではなく、岩滝町の水道水源につながっているということ。

すると、このコースは過去の地質や伝説を見せるだけではなく、

現在、人間がこの山をどう使い、どう守っているのか

まで見せられます。

つまり、

山 → 水 → 人間の暮らし → 海 → 天橋立

です。

これによって世界遺産的なストーリーが「過去の物語」で終わらない。

むしろ、

この山を守ることは、川を守ることであり、
水を守ることであり、
海を守ることであり、
やがて天橋立を守ることでもある。

という現在の意味にまでつながります。

これは、以前お話しした「天橋立憲章を、象徴から実践へ」という構想ともぴったり重なります。


そして、私はこのコースを「輪」として捉えたいです

今までの「砂の旅」は線でした。

山 → 川 → 海 → 天橋立

でも、今回のお話を入れると、

天橋立を中心に山域をぐるっと回り、
二つの川を読み、
最後に再び天橋立へ戻ってくる。

これはもう、

「天橋立を起点とする地球のフィールドミュージアム」

と言ってもいいくらいです。

例えば、

天橋立
↓
「この砂はどこから来た?」

日置・世屋川
↓
「山から砂礫が運ばれてきた」

上世屋・世屋高原
↓
「その水と土のふるさとを見る」

成相線
↓
「今度は高所から流域全体を俯瞰する」

五十河
↓
「別の谷・男山川を見る」

蛇谷
↓
「地名と廃村から人間の記憶を読む」

駒返しの滝
↓
「伝説と歴史が重なる」

男山川
↓
「その水が現在の人間の暮らしを支える」

そして、

阿蘇海・天橋立へ帰ってくる。


すると、非常に美しい対比ができます。

世屋川 → 宮津湾 → 天橋立

と、

男山川 → 阿蘇海 → 天橋立

です。

もちろん、ここは「両河川が同じように天橋立の砂を直接供給する」と単純化してはいけません。
そこは科学的にきちんと整理する必要があります。

しかし、同じ山域の水が異なる水系を通って二つの海域へ向かうという「流域・地形を体験する構造」は、非常に強い。

そして最後に二つの海が、

阿蘇海と宮津湾

という天橋立を挟む二つの水域として現れる。

これ、まさに「橋」なんですよね。


私なら、このコースの核心をこう表現します

天橋立を歩くのではなく、
天橋立を生んだ大地を一周する。

さらに一歩進めるなら、

二つの川をたどり、二つの海を眺め、
山から流れ出した水と土が、
やがて天橋立という「橋」をつくるまでの物語を体験する。

そして世界遺産的な言葉にするなら、

天橋立は単独の景観ではない。
山に降った雨、森が育む土、水が刻む谷、川が運ぶ土砂、海がそれを再配置する営み、そしてその大地に暮らしてきた人々の記憶。
そのすべてが重なって、今日の天橋立を形づくっている。

これはかなり強いですよ。

なぜなら、以前の「天橋立=砂の結果」という理解から、

「天橋立=山・水・海・人間の関係そのもの」

へ、一段上がるからです。

そしてこの視点なら、蛇谷、廃村、駒返しの滝、水道水源も「観光スポットの寄せ集め」ではなく、全部が一つの大きな物語の中に配置できます。

ひょっとすると、今探していた「残り20%」は、天橋立と世屋を結ぶ砂の供給線だけではなく、その周囲にある「水の環」だったのかもしれませんね。

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【そして、立ち寄り先は、自然共生サイト・マルヤ農林園&岡の前棚田跡交園!!】

ああ、なるほど!
そこで「マルヤ農林園」と「岡の前棚田跡交園」が入るのですね。
そうなると、このコースはますます「地質・水系・生態系」だけではなく、人間が大地とどう付き合ってきたかまで一本につながります。

特に「自然共生サイト」という位置づけが効いてきます。

つまり、この周回コースは……

天橋立
→ 砂がつくられた「結果」

世屋川・男山川
→ 山と海をつなぐ「水の道」

世屋高原・五十河
→ 水と土を生み出す「山の世界」

蛇谷・廃村
→ 山とともに暮らした「人の記憶」

マルヤ農林園
→ 現代における「自然との共生」

岡の前棚田跡交園
→ 人間が地形を耕し、里山をつくってきた「文化的景観」

そして、

成相線
→ それら全部を一望して「関係」を理解する視点場。

最後に、

天橋立へ帰る。

これ、かなり完成度が高いです。

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そして「自然共生サイト」が入ることで、時間軸が完成します

ここが世界遺産目線では、とても重要だと思います。

普通なら、

「昔、こんな自然がありました」

で終わってしまいます。

ところがこのルートでは、

地質時代
→ 山ができる
→ 川が谷を刻む
→ 土砂が海へ出る
→ 天橋立ができる
→ 人が山に住む
→ 棚田をつくる
→ 水を利用する
→ 廃村になる
→ それでも自然と人間の関係が続く
→ 現代の自然共生サイトとして再び関係を結び直す

となる。

つまり、

「自然遺産」から「文化的景観」へ、そして「未来」へ

という時間軸ができるんです。

これは宗田先生が言っていた「地域の歴史を人類史の中に位置づけ、未来を開く」という「天橋立学」の方向とも、ものすごく相性がいい。


そして、私は「岡の前棚田跡交園」という名前にも惹かれます。

もしこの「交園」が意図された名称なら、まさにこのルートの思想そのものですよね。

自然と人間が交わる。
過去と現在が交わる。
山と海が交わる。
東と西の川が交わる。
地質と文化が交わる。

そして最後に、

その全部が天橋立で交わる。

そう考えると、天橋立は単なる「砂の橋」ではなく、

山と海、人と自然、過去と未来を結ぶ「関係の橋」

になってくる。

これは、以前から話していた

「この景色の中に、地球の物語がある。」

を、実際に歩いて体験できるルートになりそうです。

そして面白いのは、天橋立を起点にして出発するのに、実際には天橋立からどんどん遠ざかっているのではないこと。

天橋立を理解するために、天橋立を生んだ山へ帰っていく。

この一文、かなりこのコースの「核」になりそうです。

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