干し柿、乾しシイタケ、そのむこうに、、、。
乾しイモ。
(↑ 11/26 大宮町森本)
ところで、この乾しイモ、「軽量で食べやすくカロリーも充分、厳冬下でも凍らず安価且つ国産資源」ということで、野戦糧食として目をつけたのが日本の軍隊。その初めが、日露戦争(1904~05年)。この闘いで兵隊さんには乾しイモが配られ、乾しイモは「軍人イモ」と呼ばれていたといいます。 例えば旅順要塞攻略戦は、1904年7月31日から翌年 1月1日まで、155日間。この間、兵隊さんたちの腹を満たしたのはこの乾しイモだったのです。 また、この旅順要塞攻略戦に動員された日本第三軍の将兵は延べ約13万人、うち戦死15400、戦傷44008、 合計約6万に及ぶ犠牲を出しました。 雨霰と打ち込まれる弾幕の中に突撃をくり返さなければこれだけの被害は出ません。このような戦闘ぶりを、司馬遼太郎さんは「旅順攻撃における乃木軍の作戦首脳者が、第一軍以下に比べて恐るべき無能を発揮した(中略)高級軍人の場合は有能であることが絶対の条件であるべきであった。彼等はその作戦能力において国家と民族の安危を背負って おり、現実の戦闘に於いては無能であるがためにその麾下の兵士達を凄まじい惨禍へ追い込むことになるのである」 (『坂の上の雲』)と厳しく批判されているということ。
ちなみに上世屋一村からも、光野市蔵さん、光野三吉さん、光野熊蔵さん、小川石蔵さんの四人が出征されています。(「高原の碧霄」)
蒸してから干すという製法で生産が商業的に始まったのはその後、1908年明治41年からといいます。サツマイモの産地として適した土壌、冬の乾燥した気候という条件から茨城県の地場産業として発展しました。
なくなった父親もサツマイモが好物でした。イモ穴を掘ったり乾しイモにしたり、保存の工夫もたいへんしていました。戦友会には,必ずサツマイモを携えて参加するひとでした、、、。