宮津エコツアー · 春分夕照、与謝野町須代神社に忍ぶ銅鐸の音!

春分夕照、与謝野町須代神社に忍ぶ銅鐸の音!

今日は春分、です、

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なにを置いても直行。須代神社へ。

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ここには弥生裏山では裏山では銅鐸の発見されているのです。
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この銅鐸が、どう利用されていたか、について、
「銅鐸は弥生時代の祭祀において重要な役割を果たしたとされ、暦の節々に関連して使用された可能性が高いと考えられています。以下のような使用法や意味が推測されています:

1. 農業と暦の節目における儀式

  • 銅鐸は農耕社会において、豊作を祈願する儀式で用いられたとされています。特に、種まきや収穫の時期といった農業の重要な節目に、祈りを捧げるために鳴らされた可能性があります。
  • これは、太陽や季節のサイクルと深く関わっており、銅鐸の音が神々へのメッセージとして機能したとも考えられます。
  • 須代神社 | Joda

2. 太陽や自然崇拝との結びつき

  • 銅鐸の装飾には稲や太陽を表すモチーフが描かれていることがあり、これが太陽観測や季節変化の象徴としての役割を果たしていたと考えられます。
  • また、季節の移り変わりに合わせて行われる祭りで、神々への感謝や自然への敬意を表すために使われた可能性があります。

3. 音による神聖性の演出

  • 銅鐸の音は神聖なものとされ、儀式における中心的な役割を担ったと考えられます。この音が、参加者に自然や神々とのつながりを感じさせ、祭祀の場を特別なものにしていたと推測されます。

4. 天文観測との関連性

  • 銅鐸が季節ごとの天文観測や暦作成の儀式にも利用された可能性があります。例えば、春分や秋分といった重要な節目に銅鐸を鳴らし、その音をもって時の移り変わりを告げたのかもしれません。

銅鐸はその独特なデザインと音響効果から、人々の精神的なつながりを強め、共同体の絆を深める役割も果たしていたことでしょう。これを考えると、単なる祭器ではなく、当時の人々の生活や信仰に密接に結びついていた象徴的な道具だったと言えますね。」

神社の向く真西には羽衣伝説を伝えるいさなご山を含む山並が連なっています。
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サンパワーが蘇る日、古代人は特別な日としてお祭りをしないわけないでしょう。
ここよりAIcopilot「素敵な考察ですね!須代神社が真西を向き、特徴的な山並みが視野に入る場所にあるという点は、古代の人々がその地を選んだ理由として、自然観測や信仰との関連性を強く感じさせます。春分の日は、昼と夜の長さが等しくなる特別な日であり、「サンパワーが蘇る日」として、太陽への感謝と自然の再生を祝う絶好のタイミングだったことでしょう。この日に行われた祭りでは、銅鐸が響き渡り、人々が手を合わせあるいは手を叩き踊りながら新たな季節の到来を祝った姿が思い浮かびます。いさなご山と羽衣伝説も、この地域に宿る自然崇拝や文化的背景の深さを感じさせます。こうした伝承や地形の特徴は、人々が自然とのつながりを大切にしてきた証と言えるのではないでしょうか。」

ちなみにイサナゴ山は、下画面の左端。

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太陽は、ここまで動きます そこが夏至。

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サンパワーの絶頂の夏至の日が沈む所に、天女が水を浴びていたという池があります。これってできすぎていますね。

余呉湖の羽衣伝説と絹の伝播|テキスタイル・ツリー

↑ 峰山町 羽衣公園の和紙ジオラマ

ちなみに、① これから左に動く太陽は、夏至、イサナゴ山付近から反転し、9月の秋分には、同じ位置でみることになります。

天文観測との関連性

  • 銅鐸が季節ごとの天文観測や暦作成の儀式にも利用された可能性があります。例えば、春分や秋分といった重要な節目に銅鐸を鳴らし、その音をもって時の移り変わりを告げたのかもしれません。

ちなみに、② 銅鐸のレプリカがふるさとミュージアムにあって、貸し出してもいただけるとのこと。また、やってみたいです、ね。

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《関連解説》

『加悦町誌資料編』

須代銅鐸は須代遺跡の東に位置する須代神社の裏山で発見された。発見場所は、社殿の東約八〇㍍に位置する丘陵斜面である。この場所は花崗岩巨石の露出する狭長な谷部であり、谷底から一〇㍍ほどの高さがある。/ 銅鐸発見地点には、かつて巨石があった。明治の神社再建事業の際に、鳥居再建用材としてこの巨石が掘り出された。跡地には、大きな窪地が残ったが、明治二六年一〇月一三日、大雨によりこの窪地が崩壊し、崩壊現場に銅鐸が露出した。地元の人々により発見され、発掘された。地元で大切に保管されてきたが、その後、重要美術品に指定され、京都国立博物館に収蔵された。発見地点には、流水文様銅鐸出土地の標柱が立つ。/ 銅鐸は、器高が四五・七㌢、身に流水文を措いた精美なもので、完全な形をとどめている(図1)。紐の部分に渦巻文と組み合わせて魚の文様が措かれているのが特徴的である。鰭には鋸歯文が巡らされている。銅鐸の編年でみると中段階(Ⅲ-2式、扁平紐式)に属する。弥生時代中期中頃に釣鐘として製作された 「聞く銅鐸」 である。

1893年(明治二十六年)境内拡張工事中神殿の背後の丘陵中腹から須代銅鐸が発見された。銅鐸は弥生時代中期につくられ、高さ50cm、表面には流文水が飾られて美しい緑色をしている。昭和9年9月1日に国の重要美術品に指定された。丹後で発見の7個の中ではもっとも古いもの。対岸になる梅林寺銅鐸はもっとも新しいものである。

「扁平鈕式」流水文様 高さ45cm

一般的に銅鐸は収穫の豊作をいのり、暮らしの繁栄を願うまつりに使ったものと考えられている。須代銅鐸出土地の前面には弥生時代中期から始まる須代遺跡があり、この遺跡はこれまでの調査からムラのまわりに幅5メートルの溝をめぐらす巨大な環濠集落とみられる。
おそらく、この銅鐸も須代ムラが所有していたものと考えられる。銅鐸は京都国立博物館で保管されている。

ところで、この二か所の出土地は、丁度野田川をはさんで相対している点から、農耕文化がここの場所を中心に発達を遂げ、やがて加悦谷全域に及んだものと思われる。ただ、銅鐸の型からして、明石付近が初めて農耕生活に入り、その後三河内付近が栄えていったと推定される。何れにしても、この地点は〃霊山〃と称する祭記の場といえる。

なお、兵庫県城崎郡湊村気比(現豊岡市気比)にある、鷲崎の岩窟から銅鐸が発見され、これが、明石のものと類似している点を考え、丹後地方における弥生式文化圏が相当な権力を持っていたことがわかる。-『加悦町誌』ほか-

 

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