この湧水、丹後屈指の水量をほこります
名前は「世屋里タンポポ」
この湧水を活かしたい!
宮津天橋高建築科の皆さんが実習課題として、制作してくださいました
一年がかりでした
縁結びは、京都府丹後森作り推進課
いきかえった水はいのちもよみがえらせます。
さんしょうもやせやめだかのビオトープにもなります。
あれ、
まあ!
切られたんですね
エノキです。
ダメじゃん、酸素出してくれているのに。
でも、 切り株から、たくさんの新芽。
地球のことが心配だから、
芽をだそうよ
戦争をしかけるするような人間たちはどうでもいいのだけれど
可愛い命たちのことが心配だから
芽をだそうよ
葉の一枚一枚から
枝の一本一本から
翻訳するとそんな声
伊根と橋立の間の、切られても 切られても 芽を出すエノキの話です。
ついでに、このエノキのお話。
ニレ科エノキ属 | |||
別名と外国名 | 別名:エ/中国名:朴樹 | ||
自生地(原産地) | 本州、四国、九州、沖縄、中国中部 | ||
樹 高 | 10~20m | ||
開花期と結実期 | 花:4~5月/実:9~11月 | ||
特 性 | 日照は陽地~中庸/耐潮性は強い/耐暑性は強い/生長はやや早い/移植はやや容易/萌芽力あり/根張りが著しい | ||
植栽域 | 本州~九州 | ||
美 性 | ケヤキに似るが、樹高より枝張の方が大きくなる横張り性のある大木に生長し、どっしりとした力強さを感じさせる。。ケヤキの優美さに対し、エノキは重厚さに持ち味。寒冷で空気の澄んだところでは秋の黄葉も深味があって美しく観賞価値が高い。寿命も長い強健種で、大木が各地に見られ、地域のランドマークとなっていることも。 | ||
用 途 | 庭園木、公園樹 | ||
管 理 | ・枯枝、衰弱木の除去。剪定は8月下旬~10月に行う。 | ||
類似種と品種 | 類似種 ケヤキ、ムクノキなど | ||
文 化 | ・名の由来は、器具の柄に利用されるから「柄の木」との説などがある。 ・一里塚の木として有名。慶長9年(1604)、徳川秀忠が街道整備に際し植えさせたという。 ・村境の道祖神などにも植えられた。 ・江戸の王子稲荷のエノキには、大晦日に狐が集まり、農民はこの野火によって豊凶を占ったという。 ・「縁の木」に通じることから縁切りまたは縁結びの木として知られる。 ・国蝶のオオムラサキやゴマダラチョウの食草である。 ・ヒヨドリやキジバトなどの野鳥が実を好んで食べる。また、ヤドリギがよく寄生する。 |
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メ モ | ・枝が太く折れにくく、水平に近い角度で伸びるため、子供の木登り用に適する。 ・樹冠が広がるので緑陰樹にも好適。また、樹形はそろいにくいので規則的な街路樹には不向きだが、不規則性を生かす植栽を考えたい。 |
寅さんの似合う風景、、、ね、、!
はい、こういうところなんですか、ね!!!
上世屋の田んぼで。9月10日。
わかります?
これをやる人はひとりになりました。
加悦、明石から磯砂山を見ています。なので連山の右端に、いさなご山。9月11日。
古代丹後の弥生人もこんな空を見ていたのでしょう。
森本から内山方向を見ています。品良くおちついた里山景観です。9月12日。
あるじゃんあるじゃん、寅さんの似合う風景!
、、、なので、眼のはなせないたんごではあっても、どんどんもすすめられる近代化、
なんでい これ、うつくしいたんぼのまんなかに?
というとらさんのそばに「たんごのみなさんがまちのぞんでらしたものなのよ」というさくらさん。
新緑がひときわあかるい巨樹、
メタセコイアです。
戦後復興のシンボルになれ!そんなミッションをたくされ広く植樹されたので、兄弟が全国にいて、活躍しました。
そんな兄弟の消息を「まいどなニュース」で、京都新聞・浅井 佳穂記者がとどけてくれました。木と人とのかかわりの深さをあらためてかんがえさせてくれたいい記事でした。
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地域の歴史を知るメタセコイア、無念の伐採 「申し訳ないではすまない…相談ほしかった」
伐採されたメタセコイアの切り株(京都市北区・原谷中央公園)
明治神宮外苑(東京都)や明石公園(兵庫県明石市)など、各地で物議を醸している公共空間における樹木の伐採。そんな中、記者のもとにも「70年ほど前からあるメタセコイアの木が切られたんや」と、京都市北区の男性から電話がかかってきました。何が起きたのか取材しました。 【写真】メタセコイアの木が写る、1987年の写真 メタセコイアが伐採されたのは3月下旬。金閣寺の北西にある京都市北区原谷地区の原谷中央公園で大きく成長した木でした。原谷地区は戦後すぐ、国策による開拓が行われた場所です。地元在住で1948年に一家で入植した前原英彦さん(87)によると、メタセコイアは公園に3本あり、いずれも50年代前半に中国から贈られたといいます。旧満州(中国東北部)からの引き揚げ経験者が多い地区住民に愛されていたそうです。 メタセコイアは当時、開拓者でつくる洛北開拓農業協同組合の事務所北西側に植えられました。しかし、宅地化に伴い農業に従事する人が減少し、2008年に組合は解散を決議。組合事務所のあった一帯は京都市に寄贈され、原谷中央公園として10年に開園しました。 今年の3月下旬、3本のうち2本が京都市の請負業者によって切り倒されました。市北部みどり管理事務所によると、落ち葉が多く住民からの苦情が寄せられていたことや、メタセコイアが隣接して植えられている「区民の誇りの木」のソメイヨシノの成長に影響を及ぼしていることから伐採が決まったといいます。 自身も旧満州からの引き揚げ者で、近隣住民による連絡で伐採を知った前原さんは「申し訳ないではすまされないが、今となっては切ってしまったものは仕方がない」と肩を落としています。 残るメタセコイアの前方に、木の由来を記した案内板を立てることで市北部みどり事務所とは合意したといい、前原さんは「最後の1本が長く残るようにしてほしい」と話しています。 (まいどなニュース/京都新聞・浅井 佳穂)
田庭の国丹後上世屋から、京都のメタセコイアにエールを送ります。
寒の戻りの寒さの中でもカワヅザクラ(河津桜)、
「野生では花粉の媒介者となる虫の活動が始まる春よりも大幅に早く咲くと子孫を残せないため、本州の野生種のサクラには寒い時期に咲かない仕組みがあるのだが、カワヅザクラは本来は本州に自生しないカンヒザクラが交雑することによって花期が早まったと考えられている。」ということらしい。
ちなみに、
「1955年に静岡県賀茂郡河津町田中の飯田勝美が河津川沿いの雑草の中で1mほどの原木を偶然発見し、庭先に植えたことが由来である[3][4]。1966年から開花し、当初、発見者の飯田家の屋号から「小峰桜」と地元で言われてきたが[3]、その後の学術調査で今までに無かった雑種起源の栽培品種であると判明し、1974年に「カワヅザクラ(河津桜)」と命名され[3]、1975年に河津町の木に指定された[3]。現在も原木はこの地に存在し、2007年現在で樹齢50〜60年である。また、1968年頃からこのサクラが増殖されるようになった。町の木指定に伴い、町民有志らによる植栽が河津川河口などから町内全域に広がった」
「樹高は亜高木、樹形は傘状。一重咲きで4cmから5cmの大輪の花を咲かせ、花弁の色は紫紅。オオシマザクラとカンヒザクラの雑種にさらにカンヒザクラが交雑した種であり、オオシマザクラ由来の大輪の花と、カンヒザクラ由来の紫紅の花弁の色と早咲きが大きな特徴である。」
「東京の花期は通常は2月から3月上旬で稀に早い年には12月に開花することもある。原木のある静岡県河津町での花期は2月頃で花期が1ヶ月と長い。野生では花粉の媒介者となる虫の活動が始まる春よりも大幅に早く咲くと子孫を残せないため、本州の野生種のサクラには寒い時期に咲かない仕組みがあるのだが、カワヅザクラは本来は本州に自生しないカンヒザクラが交雑することによって花期が早まったと考えられている。極端な早咲きは野生では淘汰される不利な特質だが、カワヅザクラのような栽培品種ではその珍しい特質と花の特徴がむしろ好まれて接ぎ木などで増殖されている」
ともかく咲く時期がフクジュソウと同じなので、上世屋では、フクジュ桜と呼ばれて、湯たんぽのように雪融かしに一役も二役もかってくれています。
いっぷくの山水画!
(↑ 五十河たんぼ)
,,,でも
自然感満載の背景の山とちょくせん的な人工感が際立つ前景の川の堤防とのずれ
なんか 洋服姿のちょんまげ男、、、じゃないですか!
この不自然さの謎、平成16年に書かれたこの随筆が解いてくれるかも。
大宮町老人クラブ連合の会誌に掲載の記事
合成画のような景観は大水害の語り部だったのです。
さて、「昭和47年9月 突然襲ってきた第二伊勢湾台風により我が大宮も各所の河川がずたずたに寸断され、、、」と広野さん。
はて、第二伊勢湾台風、、ってありましたっけ、、
それはそうとして、治山治水、河川災害のさいセットとしてとわれる森、山は、どんな状況だったのか、きになるところです。
「第二伊勢湾台風、、」伊勢湾台風はあっても、、、やはり要チェック。
◇「昭和47年7月豪雨」
昭和47年7月3日から6日にかけては、黄海から日本海北部に進んだ前線を伴った低気圧に向かって暖湿気流が流れ込んだため、九州と四国で雷を伴った局地的な大雨が降り、この期間の降水量が500mmから800mmに達した所があった。
9日から13日にかけて梅雨前線が南下し、本州南岸から四国、九州北部付近に停滞した。 また、日本の南海上には台風第6号、7号、8号があり、これらの影響で梅雨前線の活動は活発となり、西日本から関東地方南部にかけては400mmから600mm、山間部の多い所では1,000mm前後の大雨が降った。気象庁は、7月3日から13日の大雨を「昭和47年7月豪雨」と命名した。
◇ 伊勢湾台風
伊勢湾台風は、1959年9月26日に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心にほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした台風である。
◇第二室戸台風
昭和36年9月14日、沖縄南方約300kmの海上で北西から北に進路を転じた台風は、翌15日の早朝には沖縄のすぐ東方海上でさらに北東に向きを変え、本土を直撃する態勢に入りました。そして16日早朝には九州の南方約100kmの海上から一路北東進し、室戸岬、淡路島、大阪湾、若狭湾、能登半島の進路をたどり北方に去ります。
この第二室戸台風は、その最盛期において中心気圧885mb、最大風速は70m/sec、暴風半径は330kmという強大な勢力をもち、過去の台風災害の最大記録といわれる伊勢湾台風(昭和34年9月26日)などに匹敵する規模をもっていました。
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突然襲ってきたのが9月で、第二台風なら、「第二室戸台風 」昭和36年9月かもしれません。また、突然襲ってきたのが昭和47年なら「昭和47年7月豪雨」かも。、、、
伊勢湾台風. (15号). 9月26日. 町内各所に被害が続出.
36 第二室戸台風. 9月16日. 竹野川水系の新宮川、五十河谷川、常吉川が溢流し浸水.、、、、と「京丹後市地域防災計画」。
さてそれはそうとして、それだけにしっかりもつべきは川の思想、川の定義なのだと おっしゃるのは、新潟大学の大熊先生。
広野さんが、復旧工事にのぞむのは「いかなる水害もふせぐことのできる工事」だけれどもその一方できづかわれるのは「川の生き物」のこととされるのはそのあたりのことなのだとおもいました。