ようがんばってくれたなぁ、、、
ほんまにようやってくれた、、、そりゃそうでしょう 筒川製糸工場~筒川村は、明治中期には大勢の人が住んでいた。しかし働き口がなく、当時の村長である品川萬右衛門は、義務教育を終えた子供達が、加悦谷の方へ女工として出稼ぎにいくために、そこで男女の風紀が乱れることを父兄が大変悩んでいたのを知り、この救済の方法としてこの地に、農業以外の産業を興さなくてはいけないと確信し、道の拡幅を府へ要望し、田んぼを畑に変え桑の木を植えさせた。そして製糸工場を作った。しかし、筒川製糸工場は、明治42年(1909)6月14日、繭を乾燥している間に工場が全焼し甚大なる負債を抱えた。村の田畑等を抵当物件として提供し、組合員全員が力を合わせ大正6年、借金の返済もすべて終わりついに再建するに至ったのである~。 その慰労の東京旅行。
感謝の気持ちで優しい仏の心でしたことがあだになり、インフルエンザウイルスを土産にまでし、花の盛りの娘たちを地獄に突き落としてしまった、それはと゛んなにつらいことた゛ったことでしょう、、、 危ないそんな情報も届いていたのかもしれません、不安懸念もあったかも。旅行の判断は正しかったのか、きびしく責任をとわれられたのかも。しかしなにしろ、花の東京見物、目標に苦労を堪え忍んだことを思えば取り止め、延期という選択肢はなかったのでしょう。
ちなみにこの風邪、 人類が遭遇した最初のインフルエンザのパンデミックで、スペイン風邪と呼ばれているもの。 .. 経過をみると流行に波があったと日本社会衛生年鑑(大正8年。) 「 大正7年3、4月の頃各地にて多少の流行をみたが、初夏の候に 本病の発生はやんだ、しかし、9月中旬に至りて本病は爆発的に発生して、十月上旬その病勢はるかに熾烈となって藪旬を出ないで殆ど全国に蔓延したその最も 猖獗を極めたのは11月で12月下旬にいたって病勢衰退したが、翌大正8年1月下旬から2月に至るまで酷寒の候にはさらに猛威を逞うして、(略)7月に 至って本病の流行はまったく終息をとげた。」 筒河から東京へ 旅にでたのは1月、農閑期の冬場しか出られなかったのでしょう、113人の大旅行団。予約の変更なども大変。 深刻さが伝わらず、おさまるであろう、なったらへんという楽観的希望的観測が働いたのかも、、、、、。筒川から伊根。船で舞鶴 、列車で京都、東京へ。何十時間を要した旅だったのでしょうか。
しかし、時あたかも「大正8年1月下旬から2月に至るまで酷寒の候にはさらに猛威を逞うし」ていた時期。世界で第一次大戦(1000万人)の4倍の死者(4000万人)を出し、日本国内では関東大震災(10万人)の5倍近く(45万人)の死者をもたらしたスペイン風邪の嵐の渦に巻き込まれたのです。
一行と関係者の犠牲その人数、従業員13名を含み村内にも多数の感染者を出し、計42名。 物故者の魂を地蔵さまじゃなくみんなで見た思い出の籠もった鎌倉大仏を模し、供養しよう。自然な気持ちです。
発注 大阪にて鋳造したる青銅仏座像式八尺五寸
施工費 経費四千九百五十円を要したり 換算すると現在価格に約2000万円、
供出 この像 青銅製であったゆえに、供出にと強要。昭和十九年(一九四四)三月赤たすきがかけられ、「出征」。
再生 仏様にも人をあやめることを強要するなんて、しかし、表向きにはいえないそうなら、石で作り直そう、「大仏奉讃会を結成して、金仏に代わる石仏を再建することを村民に呼びかけ」一年後の、昭和二十年(一九四五)四月八日には開眼供養にこぎつけられている、
「丹後大仏」 概ねの事情は、こういうことです。
さて、ここで謎が二つ。 一つ目 石はどこの手がけた石工さんはここまで石を運んでか別の場所できざんでか、 二つ目 赤襷で出征した見送られた大仏様の運命、『期待』どおりに戦地に赴かれたのか、 この疑問に答えてくださっているのが、鬼塚史朗さん※。
一つ目、寺領に出た石を使い、寺領で刻んで、本坂へはこ路コロをしいて、村中が出てはこんだということ。
二つ目、 「宮津駅うらの廃品置き場の隅で戦後しばらく雨ざらしのままに放置されていた。」
ウィクペディアは「1944年(昭和19年)頃:金属製であったことが災いし解体される。戦争で使う銃弾となったと思われる。」と記述
していますが、それは、想像。出征なさっていなかったのです。ここにも謎、敗戦まで時間的には約1年半。 なぜ「出征」しなかったのか、工場が空襲などで機能しなくなっていたのかも知れません。あるいは、筒川からは持ち出したけれども、貨物列車に載せ搬送命令を出すことためらわせる押しとどめる何かが働いたのか、罰当たりなお先棒は担げない、消極的な抵抗というのか伊根出身の事情を知った方が判子をつかなかったのではなかったのか、そうしているうちに敗戦。しかし、その後、伊根筒川の里に返される事はなく、鬼塚さんも調べられたのでしょう、けれど「その後の消息を知るものはいない。」
一番素敵なストーリーは、業者さんに引き取られ、鐘に鋳なおさ、魂を鎮めているという話だと思いますが、少なくとも 人の魂を鎮める仏様が人の命を奪う鉄砲玉には成らなかったこと、嬉しいことでした。
未知未対策ウィルスのパンデミックか゛いつおきてもおかしくない現代、筒川大仏の゛問いかけは、過去の物ではありません、
また、村に産業を!これなんか、今でいう『里山資本主義』て゛はありませんか。
さまざまにものをおもわせる貴重なモニュメントた゛とあらためておもいました。
この大仏、伊根町本坂にあります。ふなやの里から約15分。
※『昔の暮らしと村の文化 丹後の話題150』この本、ぜひ手元に置きたい丹後の生活誌事典、あまのはしだて出版です。ウィクペディアじょうほうなどうのみにしていたら、とんでもないことになるところでした。