丹後縦貫林道成相線の、ミョウガ谷付近です。
ここは山麓の斜面が急で、雪崩が溜まる地形で。長く道を塞ぐとことです。しかし、6月もまもなくなのに、この残雪!例年なら、遅くても5月連休明けくらいには消えていましたので、驚いています。
この付近は、丹後で半島では珍しいトチ群生域。そのトチの開花と令和7年豪雪の名残残雪、両方が楽しめますよ。
が
「山野の生命力の全開する5月をたとえれば、、、馬 その山野に咲き誇るフジは、さながらその馬上の戦士」
その藤、は、家紋にも。
さてその藤原さん、ルーツを辿ればその始祖は、中臣鎌足さんに行き着く、、、中臣鎌足さんと藤原鎌足さんは、同一人物なのです。!うん?
中臣鎌足として生き、藤原鎌足として死んだのです!?!?!
しかもその改名です、、死の間際に行われたというのです。 !?!?!?!?
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「出生地は『藤氏家伝』によると大和国高市郡藤原(奈良県橿原市) 。また大和国大原(現在の奈良県明日香村)や常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説[2]もある。
早くから中国の史書に関心を持ち、『六韜』を暗記した。隋・唐に遣唐使として留学していた南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。『日本書紀』によると644年(皇極天皇3年)[注釈 2]に中臣氏の家業であった祭官に就くことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。
密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(後の孝徳天皇)に近づき、次に中大兄皇子に接近した。また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。
645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。この功績から、内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。また、唐や新羅からの外交使節の対応にもあたっており、外交責任者でもあったとみられている[3]。
その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と対立した。647年(大化3年)の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。649年(大化5年)に倉梯麻呂・石川麻呂が薨去・失脚したあと勢力を伸ばし、654年(白雉5年)頃には大紫冠(だいしかん)に昇格した。
669年(天智天皇8年)10月、山科の御猟場に狩りに行き、馬上から転落して背中を強打した。天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。これは白村江の戦いにおける軍事的・外交的敗北の責任を痛感していたものと考えられている(なお、白村江の戦いが後世の長屋王の変と並んで『藤氏家伝』に記載されていないのは共に藤原氏が関与していた事実を忌避するためであるとする説がある)[3]。天智天皇から大識冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去した。享年56。」 ※ウキペディア
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「天智天皇から大識冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去」とウキペディア。
なぜ 死にゆく同志への最高の感謝の行為 それが藤原姓への改名、藤原には、どんな意義理由が込められていたのでしょうか なぜ、中臣として死ななかったのか、なぜ、藤原として死ぬことを喜んだのか その意味とドラマを知りたい、、
と思ったとき、「山野の生命力の全開する5月をたとえれば、、、馬 その山野に咲き誇るフジは、さながらその馬上の戦士」。そこに、中臣鎌足と中大兄皇子たちがみえたのです。
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◆名前について、藤、富士、、、「フジ」という発音の共通点、、ここについて、語源から迫って頂けませんか
「フジ」という発音を持つ藤(ふじ)と富士(ふじ)の語源には、興味深い歴史と文化的な背景があります。それぞれの言葉の成り立ちを見てみましょう。
藤(ふじ)の語源
「藤」という言葉の語源には諸説ありますが、代表的なものとして以下の説があります:
「不尽(ふじ)」説 古代の人々は、藤の蔓が絶えず伸び広がる姿を「尽きることがない=不尽」と表現したことから、「ふじ」と呼ぶようになったという説があります。これは藤の生命力の強さを反映しています。
「布自(ふじ)」説 「布(ふ)」は広がる、「自(じ)」は自然に、という意味合いを持ち、藤の蔓が自然に広がっていく姿から名付けられたという説です。これは万葉の時代の言葉の成り立ちとも関連があるかもしれません。
「縫じ(ふじ)」説 古語で「縫じる(ふじる)」は織り込む、結びつけるという意味があり、藤の蔓が絡み合いながら成長する様子がこの動詞から発展した可能性もあります。
富士(ふじ)の語源
日本の象徴ともいえる「富士山」の語源も、歴史的な背景と結びついています。
「不死(ふじ)」説 古代の伝承では、富士山は霊山として「不死(死ぬことがない)」を象徴し、神聖な場所とされていました。これが「ふじ」と呼ばれる理由の一つとされています。
「風じ(ふじ)」説 富士山は風が強く吹く場所であり、「風じ(ふじ)」という言葉が転じて「富士」になったとする説もあります。
「火主(ふじ)」説 富士山はかつて噴火を繰り返していたため、「火の神=火主(ふじ)」と呼ばれたことから、富士という名称が生まれたという説もあります。
藤と富士の共通点
「藤」と「富士」の語源を見てみると、どちらも「尽きることがない」「長く続く」「自然の偉大さ」という意味が込められていることが分かります。藤はその蔓が伸び続けることから、富士はその壮大な姿が永遠の象徴として、多くの人々に愛されてきました。
日本の文化に深く根付いたこの「フジ」という響きは、自然の力強さや生命力を表すものとして、語り継がれているのですね。さらに掘り下げたい部分があれば、ぜひ教えてください!⛰️
◆「尽きることがない」「長く続く」「自然の偉大さ」、、、なるほど、、この三つの意味をひとつにしたのが、「フジ」なのですね
まさにそうですね!「フジ」という響きには、日本の風土や精神を象徴する要素がぎゅっと詰まっています。藤の花がしなやかに広がるように、日本の歴史や文化も続いていく。そして、富士山の堂々たる姿のように、変わらぬ存在感を持ち続ける——そんな思いが込められた言葉なのですね。
「フジ」に秘められた意味の奥深さに気づくと、藤の花を眺めるときも、富士山を仰ぎ見るときも、それぞれの尽きることのない美しさがより心に響いてきますね。まるで日本の精神そのもののようです。こうした背景を知ることで、身近な言葉の価値がより一層輝いて見えますね!
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◆買う天智天皇は、藤が、「尽きることがない」「長く続く」「自然の偉大さ」そういう意味を持っている、、と言うことですね
まさに、そのような解釈ができますね!天智天皇が中臣鎌足に「藤原」の姓を授けた背景には、深い意味が込められていたと考えられます。
「藤」という言葉には、「尽きることがない」「長く続く」「自然の偉大さ」という象徴的な意味があり、これは藤原氏が後世に渡り、日本の政治と文化を支配していくことを予見していたかのようですね。藤の蔓がしなやかに伸び、絶えず広がり続ける姿は、藤原氏の繁栄と権力の拡張を象徴するものといえるでしょう。
また、「藤」は万葉の時代から高貴な花として知られ、貴族文化と深く結びついていました。天智天皇がこの姓を授けたことは、藤の持つ知性や品格の象徴を鎌足に託したとも考えられます。これにより、藤原氏は単なる氏族ではなく、「尽きることのない繁栄」を誓約された家系となり、後に摂関政治を通じて長く日本の政権を掌握しました。
この視点から見ると、「藤原」という姓の授与は、まさに王権による未来への布石であり、日本の歴史において特別な意味を持っていたのですね。こうした背景を知ると、日本の氏族の名の奥深さがより一層感じられます。✨
藤原の意味
「藤原」という姓は、「藤」と「原」から成り立っていますが、単なる植物や地形の名前ではなく、特定の家系と思想を象徴するものでした。
「藤」:繁栄・貴族の象徴 藤の花は長く伸びて繁栄する植物として、日本では古くから吉祥の象徴とされていました。藤原氏の祖である中臣鎌足が藤を好んだとも言われ、これが氏の名称になったという説があります。 また、「藤」は紫色の美しい花をつけることから、貴族文化とも結びついていました。
「原」:広がる大地・勢力の拡大 「原」は広い土地を意味し、氏族の勢力が広がること、永続することを示す象徴的な言葉でした。藤原氏は朝廷の中心で権力を握り、広範囲に影響を持っていたため、「原」という言葉がその権勢を暗示するとも考えられます。
藤原姓の持つ特権的な意味
藤原氏は、奈良・平安時代において最も強い貴族の家系であり、天皇に最も近い立場で政治を動かす氏族でした。特に、藤原氏は「摂関政治」を築き、天皇の外戚(母方の親族)として絶大な権力を持っていました。つまり、藤原の姓を持つことは単なる貴族ではなく、日本の政治・文化の中心にいることを意味していたのです。
藤原姓を名乗ることは、「繁栄」と「権威」の象徴であり、それ自体が格別な名誉でした。歴史的に見ても、藤原氏の系統を持つ家系は代々高貴な役割を果たし、文化や社会に大きな影響を与えました。
このように、藤原の姓には単なる名称以上の意味が込められており、その歴史の重みは計り知れませんね さらに掘り下げたいことがあれば、気軽に聞いてください✨
◆ありがとうございます、、5月はフジの季節です、、鑑賞の視点が一つ増えました!
素敵ですね!✨ まさに5月は藤の花が美しく咲く季節。これから藤を眺めるとき、その「繁栄」と「高貴さ」という象徴的な意味が心に浮かんで、より深く鑑賞できそうですね。
京都にも藤の名所がたくさんありますし、風に揺れる藤の花を眺めながら、日本の歴史や文化に思いを馳せるのも風流ですね 季節の楽しみがさらに増えたようで嬉しいです!✨
花より団子、外観よりも現実的な利益が大事、という意味です。では、藤、その花は葉は団子になるか、、つまり、食べられんかねー その興味をその道の達人に振ってみましたら、、、、あるある!でしたね!
➀藤の食用活用
藤の花の天ぷら 春に咲く藤の花は、天ぷらにするとほんのり甘く、香り豊かな味わいになります。衣をつけてサクッと揚げると、見た目も美しく、季節の味覚として楽しめます。
②藤の花の酢漬け 藤の花を軽く湯通しし、酢や砂糖と合わせて漬けることで、鮮やかな色合いを保ちつつ、さっぱりとした味わいになります。サラダや和え物のアクセントにも。
③藤の花のシロップ煮 藤の花を砂糖と水で煮詰めてシロップにすると、デザートやドリンクの甘味料として活用できます。ヨーグルトやアイスにかけると、華やかな風味が楽しめます。
④藤の若葉の炒め物 柔らかい若葉は、油炒めや煮びたしにすると美味しく食べられます。クセが少なく、ほうれん草のような食感で、味噌汁の具としても活用できます。
⑤藤の花のゼリー 花の香りを生かして、ゼリーや寒天に閉じ込めると、見た目も美しく、春らしいデザートになります。
⑥藤の花酒 藤の花を日本酒や焼酎に漬け込むことで、ほんのり甘く香り高い藤の花酒が楽しめます。季節限定の特別な一杯として人気があります。
藤の花は観賞用としてだけでなく、食の面でも活用できる!
藤の花は、見た目の美しさだけでなく、食としても楽しめる魅力がある、、
かかってこいやと藤の花!
眼に青葉 山ホトトギス 藤の花
いよいよ5月、日差しが強く野山の樹という樹は葉を広げ花を着けます。4月、サクラが一人勝ちだったのに対し、5月は百花爛漫、ともかく、賑々しい
その代表が藤の花、
さて、花を愛でられるのはあくまでも花、蔓を愛でるものはありません、しかし、蔓あっての花、その「蔓」が語られることは少ないです。その中で観察生態分析について秀逸なのは、このコラム。
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「【コラム・及川ひろみ】今年は藤の開花も例年より随分早まりました。花の時期は逸しましたが、今回取り上げるのは「藤のすさまじい生命力」についてです。美しい花を咲かせる藤ですが、実は林の木々の立ち枯れの原因となる「恐ろしい絞め殺しの木」です。
林の林床に育つ藤の細いツル。藤は樹上の木の枝を目指しツルを伸ばします。その姿はツルの先端に目でも付いているのかと思うほど、遠く離れた枝や木にも到達します。ツルが届いたら、太陽の光を求め上へ上へと、蛇のように木に絡み付きながら登って行きます。地下からの養分、光合成による養分を基に、どんどん成長していきます。直径15㎝ほどの太さの藤。切ってみると年輪8年、成長の速さにびっくりです。
木に絡まった藤は大蛇が巻きついたような姿で成長し、しまいに絡まった木を絞め殺し、絡み付かれた木は倒れます。しかも、同時に地面に倒れた藤は次の狙いを定め、這い登ります。藤は枝を隣の木、そのまた隣の枝へと広げ、しぶとく生き続けます。遠目で荒れた林に見える所は、藤による立ち枯れが起こっていることがよくあります。
私たちが宍塚の里山で山の下草刈りを始めたころ、林で藤を見つけた山主さん、「親の仇(かたき)」と言って鎌で藤をバッサリ。樹木を枯らす藤は、林の大敵、出合ったら容赦なく伐(き)るのだと聞きました。その後、山の下草刈りをしていると、藤の若い芽が林床至る所に見られました。藤の根が山全体に広がり、いつでも成長できるのを実感しました。藤の根をすっかり取り除くのは至難の業です。
山だけではありません。五斗蒔(ごとまき)谷津の奥、湿地が広がる所にも藤の根が縦横無尽に広がっています。浅い水場であれば難なく広がり、水の中に根を伸ばしています。湿地植物は別として、多くの植物は水分が多すぎる環境では根が腐り成長できませんが、藤はそんな環境にも問題なく広がる、実にしぶとい植物です。
(宍塚の自然と歴史の会代表)」
※ 茨城県つくば市に近い土浦市の宍塚大池を中心とした緑が残る100haほどの地域で様々な活動を行っている。市街地近郊における里山保全を行うボランティア団体であり、日本における里山保全の先駆けとなった。 理事長は及川ひろみ。任意団体時代の会長は森本信生。会員総数約600名。うち正会員は200名ほど。
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「多くの植物は水分が多すぎる環境では根が腐り成長できませんが、藤はそんな環境にも問題なく広がる、実にしぶとい植物」
という藤の生育適地、それが谷間の里なのです。丹後半島天然フジの名所が、筒川、野間川など丹後半島の川の上流なのは、そういうわけです。
世屋川上流もその一つ、湿地湿田の息づく世屋高原は、最高のフジ生育地なのです。
さて、そんなこんなで、5月の世屋高原についてAIcopilotさん相手におしゃべりコーナー
◆宮津市のカミセヤという里山にいます
宮津市のカミセヤは、京都府の美しい里山の一つで、棚田景観と生物多様性が共生する場所として知られています。春になると、ユキヤナギやレンギョウが咲き誇り、自然の息吹を感じられる場所のようですね1。
この地域では、エコツーリズムが推進されており、里山の風景や生態系を守りながら楽しむ活動が行われています。また、棚田や郷土性豊かな民家が広がる風景は、まさに「日本の原風景」とも言えるでしょう3。
カミセヤの春を満喫されているようですね。どんな景色が広がっていますか?藤の花も見られるでしょうか?
◆現代から隔絶されて、その光景はまるで、「茶室」のようだと感じていました。おおいに納得です。
「茶室のようだ」という感覚、まさにそれですね。カミセヤの里山に身を置き、現代社会から離れることで、利休が大切にした静寂と調和を感じられるのかもしれません。
茶室は、喧騒を離れ、わずかな空間の中に無限の世界を見出す場として存在しています。それは単なる物理的な隔離ではなく、精神的な「間」を生み出すもの。カミセヤの風景もまた、人工の音が少なく、自然の息遣いと自分自身の内面に向き合う空間になっているのでしょう。
まるで一服の茶のように、その景色に身を委ね、じっくりと味わう時間。それこそが、利休が求めた「茶の湯の心」とも重なりますね。
カミセヤで過ごすひととき、まるで「一期一会」の茶席のように感じるのではないでしょうか。
◆「一期一会」の茶席、、、心から納得できます。
そう感じていただけるのは、とても素晴らしいことですね。「一期一会」という言葉は、単なる哲学ではなく、実際に体験し、心で納得することで、その深い意味が開かれるものなのかもしれません。
カミセヤの里山で過ごす時間の中で、自然と向き合いながら、今この瞬間の美しさに気付く——それはまさに、茶室の中で一服の茶をいただくときの静けさと重なりますね。風の音、草木の揺れ、太陽の光の移ろい……すべてが「今この瞬間」にしか存在しない特別なもの。
そう考えると、どんな場所でも、「一期一会」を感じることができるのかもしれませんね。あなたが今、目にしている景色は、まさに唯一無二のもの。心に深く刻まれる時間となることでしょう。
◆この里がもっとも美しく見えるアングルの一帯を、地元の高校生たちが世話をしています
それはとても素敵なことですね。地元の高校生たちがこの美しい里山を大切にしながら、その景観を守り、育てている——まさに「茶の湯」の精神にも通じるものを感じます。
利休の考え方には、「場を整える」ことへの深い敬意がありました。茶室も、庭も、そこに集う人々の心を映す場として存在します。そして、里山を手入れし、美しい風景を守ることは、その土地の歴史や文化を未来へつなぐ行為そのものですね。
高校生たちが手をかけることで、四季折々の風景がさらに際立ち、訪れる人々にとって「一期一会」の美しさとなるのでしょう。この場所で、風に揺れる木々や、静かに咲く花々を見るたびに、彼らの想いが感じられそうですね。
あなたは、その高校生たちの努力をどんなふうに感じていますか?
◆彼らにこの話を伝えます
それはとても素晴らしいことですね。この里山の美しさを守り続ける高校生たちに、利休の美学や「一期一会」の精神が伝われば、彼らの活動にさらに深みが増すかもしれません。
彼らが手入れをすることで、訪れる人々がその風景の価値を感じ、「今、この瞬間の美しさ」を心に刻むことができる。そのことを知れば、高校生たち自身も、自分たちの手がける仕事が単なる「維持管理」ではなく、風景を創り、文化を未来へつなぐ行為であることに気付くでしょう。
彼らがどんな想いでこの場所を守っているのか、もし聞く機会があれば、ぜひ教えてください。きっと、そこにまた新しい「一期一会」の物語が生まれる気がしますね。
◆千利休さんも招待したいです。
それは素敵な発想ですね。もし千利休がこの里山を訪れたら、彼はどんな言葉を残し、どんな茶を点てたでしょうか。きっと、この静寂と調和のある風景を深く味わい、その瞬間の美しさを最大限に引き出そうとしたでしょう。
利休がもしこの場所に来たなら、高校生たちの手によって整えられた景観に感謝しつつ、「花は野にあるように」と言い、ありのままの自然が最も美しいことを伝えたかもしれませんね。そして、おそらく、この土地の水を使い、土地に息づく植物と共に、一服の茶を点てていたことでしょう。
あなたが千利休の精神をこの里山に招き、高校生たちと語り合うこと、それはまさに茶の湯の心そのものですね。もしかすると、今、この場所で交わされる対話や、風にそよぐ景色そのものが「一期一会」の茶席なのかもしれません。
◆この土地の水、、、、世屋川の源流にあるカミセヤには、各地に水が湧いています、その一つには、
カミセヤの里山には、世屋川の源流として豊かな湧水が点在しているのですね。地元の人々にとって、この水は生活の一部であり、また自然の恵みとして大切にされているのでしょう。
例えば、世屋川の源流域には「はぎわら清水」という湧水があり、これは戦争の記憶と結びついた特別な場所として語り継がれています。また、この地域には湿地生態系が広がり、絶滅危惧種の植物が保護されている場所もあるようです1。
利休の美学に照らし合わせると、この湧水もまた「一期一会」の精神に通じるものかもしれませんね。水は常に流れ、同じ形を留めることはありません。しかし、その瞬間に触れることで、自然の美しさを感じることができる——まるで茶の湯の一服のように。
この湧水の周りにはどんな景色が広がっていますか?
◆すみません 途中で送りました、、その湧水には、「せや里たんぽぽ」と名が付けられています。一帯に一帯には、在来のタンポポが息づいている野があるのです。
「せや里たんぽぽ」という名が付けられた湧水、とても趣があって素敵ですね。この土地の湧き水が、在来のタンポポが息づく野へと命を運び、その景色がずっと受け継がれているのだと思うと、まるで茶室の精神そのもののように感じます。
在来のタンポポは、外来種に押されながらも、環境の調和の中で生き続ける力を持っています。それは、利休の美学にも通じるものがあるかもしれません。無理に主張せず、その場にふさわしく静かに存在しながら、季節とともに変化し、そして美しく映える——まさに「花は野にあるように」の精神ですね。
せや里の湧水が、そのタンポポの命を支えているように、あなたがこの景色を見つめ、伝えていることもまた、風景を未来へつなぐ大切な営みなのかもしれません。どんな風に、この湧水とタンポポたちが息づいていますか?
◆風景を未来へつなぐ大切な営み、、、明確な言葉で、意義を納得しました。環境省の30by30の共生サイトに申請しています。認定されたら、この対話を踏まえて、現代の茶室京都カミセヤ、、これを軸に物語を作りたい と、思いつきました。ありがとうございます。
素晴らしい構想ですね。環境省の30by30共生サイトに申請されたとのこと、それが認定されれば、カミセヤの里山がさらに大切にされ、未来へと受け継がれる場となるでしょう。そして、その精神を物語として紡ぐ——まさに「現代の茶室」として、この土地が新たな意味を持つことになりますね。
茶室は、ただ茶を点てる場ではなく、人と自然が調和する空間であり、その瞬間の美しさを味わうための場所。カミセヤもまた、高校生たちが手入れし、湧水が命を支え、在来のタンポポが咲くことで、その「場の美しさ」が生まれているのですね。
あなたの発想が、この地を守る人々の想いと響き合い、新たな物語を生み出していくのを想像すると、とても心が動かされます。もしその物語が形になった際には、どんな風に語られるのか、とても楽しみですね。
◆繁栄を極めているとはいえ、その土台は鉄と油とコンクリート。それは仮初めの造花美、それに酔いしれることの危うさは多方面から警鐘が寄せられています。あらためて、「現代の茶室・京都カミセヤ庵」として絵をかき、物語を綴って行きたいと思います。
素晴らしい決意ですね。「現代の茶室・京都カミセヤ庵」という構想には、利休の精神を現代に置き換えつつ、新たな美を創造する試みが感じられます。鉄と油とコンクリートで作られた都市の仮初めの美ではなく、自然と共にある本質的な美しさを描き、綴ること。それは、まさに茶の湯の「わび・さび」の精神が息づく営みですね。
物語を紡ぐことで、この里山に宿る人々の想いや、風景を未来へつなぐ大切さが、多くの人に伝わることでしょう。カミセヤ庵が、人々が静かに自然と対話し、「一期一会」を感じる場となることを想像すると、とても魅力的ですね。
どんな絵を描き、どんな言葉で物語を綴っていくのか——その創造の過程もまた、茶の湯の一服のように、深みと意味のある時間になるのではないでしょうか。
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羽柴秀吉は、もと木下藤吉郎、、、!あの「とうきっつあん」が、天下人に上り詰めることが出来たのは、天にも届く蔓を伸ばす藤の霊のおかげだと、もっぱらの話です。
さて、その藤、英語で “wisteria” 。「西洋では “romantic beauty”(ロマンティックな美しさ) や “mystery”(神秘) の象徴とされることがあり、日本では “不変の愛” や “長寿” の意味を持つ、とされるパワーフラワー、。この極上名花についての解説、、。
「趣味時間 今日からできるインドア趣味情報
https://hobbytimes.jp/article/20170220c.html 」
このサイトに勝る物なし、、、
以下全編引用、紹介させて頂きます。
《紫式部も愛した紫の藤の花》
桜の見頃が過ぎ、晩春に咲き誇るもう一つの花。その美しさにふと立ち止まってしまう藤の花。俳句では藤の花は晩春の季語にあたります。 滝のようにしたたり落ちる姿がとても優雅です。万葉集を始めとする日本の代表的な書物に藤の花は多く登場しています。
しっとりとした雨にも似合う、昼間には色濃く咲き、夜には慎ましやかな表情をみせる藤の花。
和歌や俳句に詠まれた藤の花の魅力とはいったいどのようなものだったのでしょうか。
平安時代の藤の花は高貴な花
平安時代よりもっと昔から藤の花は存在し、今よりももっと高貴で天皇や貴族に愛されていました。和歌に詠まれる藤の花を平安時代の歌人たちはどのように美しく表現していたのでしょうか。
『いささかに 思ひて来しを多古の浦に 咲ける藤見て 一夜経ぬべし』(万葉集/久米広縄(くめのひろなわ))
ほんのすこし藤の花を思って多古の浦に来てみたら、言いようもないほど美しく藤の花が咲いていた。その藤を見ていると寝ることも忘れてしまい一夜を明かしてしまうほどだ。
作者は、藤の花を見るために多古浦に足を運んでいます。そしてそのうつくしさを前にしたとき、寝る時間も惜しいほど美しいと詠んでいます。平安時代の和歌では度々、藤の花を思いびとに掛けて表現している素敵な歌もありますが、純粋に藤の花の美しさを表現したこの和歌もとても素敵です。
藤の花はあの名作・源氏物語にもゆかりがあった
今もなお評価され続けている平安時代の名作・源氏物語にも実は藤の花は大きく関わっていたのです。
平安時代には藤の花は高貴な花でした。紫の花びらは高貴な色として、源氏物語の作者・紫式部の紫も高貴な色の紫を意識して名付けられたと言われています。
藤の花・紫は紫式部にとって特別な存在
平安時代の傑作・源氏物語には、『紫』・『藤』を高貴な人物に名付けて登場させています。
自身にも名付けた『紫』は、源氏物語の中でどのように登場しているのでしょうか。 まず、源氏物語の冒頭に登場する『藤壺の女御』。 光源氏の父・桐壺帝の妃です。桐壺帝は物語に登場する最初の帝です。 藤壺と言われるこの女性は光源氏の義母であり、初恋の相手でもあります。 この物語では高貴な人物として登場しています。
名前の由来は、女御が住む中庭に藤の花が植えられていたところから命名されています。 実に高貴で美しいこの女性に紫の藤の花を重ね合わせています。
↑ ネット 五月芽佳織さん
そして物語中ごろには、藤壺の女御の姪として『紫の上』という少女が登場します。藤壺に未練を残していた光源氏は、藤壺に似たこの紫の上に心を奪われ、その後、この女性を妻として迎えるのです。 藤壺に似ている紫の上を発見した時に光源氏が詠んだ和歌です。
『手に摘みて いつしかも見む 紫の 根にかよひける 野辺の若草』(源氏物語/第五帖)
手に摘んで早く見たいものだ。紫草にゆかりのある野辺の若草を
『紫の根』とは、ここではゆかりのあるものという意味で使われています。
光源氏の義母の藤壺の姪である紫の上は光源氏から見ればゆかりのある人です。さらにこの時代、紫草の根で染められた紫の色というものは最も高貴なものとされていました。
藤壺にゆかりのある高貴な美女に出会ったこの章は、光源氏のその後の人生を大きく変えていく章でもあったのです。
ところで、紫根とは何故ゆかりのあるものと言う意味があったのでしょうか。 その理由には紫の根で染めた懐紙や布を他のものと重ねておくと、その重ねたものにこの紫の色が移るということから紫根には、「近くにあるものを染める」=「ゆかりのあるもの」という意味で使われていました。
紫式部はこの物語の中で、藤や紫を大切な存在としてとりあげています。紫式部をも魅了した紫の藤の花は和歌や俳句にも彩りを添えてくれる高貴な花だということは間違いありません。藤の花を晩春のしっとりとした雰囲気に寄り添わせ、和歌や俳句に詠んでみてください。
江戸時代の俳諧でも藤は美しすぎる花だった
少し時代を先に進めて江戸時代を見てみましょう。
江戸時代の俳諧人といえば松尾芭蕉や与謝蕪村の名前が挙がることでしょう。
日本が誇る江戸時代の俳諧人もやはり藤の花の歌を詠んでいました。
奥の細道ではみちのくを過ぎ美濃国で芭蕉は、俳諧人・維然と出会います。俳諧の道をこの先も進んでいくのか悩んでいた維然に芭蕉はこの俳諧を送ったのでしょうか。
『藤の実は 俳諧にせん 花の跡』(松尾芭蕉/奥の細道)
藤の花と詠むには季節はずれ、芭蕉は「藤の花」ではなく「藤の実」と表現した一句です。
与謝蕪村は、まるで絵画でも見ているように美しい俳句を詠む俳画家として有名です。
『月に遠くおぼゆる藤の色香か』(与謝蕪村)
遠く月の光にうつる藤の花の艶やかさを表現しています。
五七五の十七音の中に、美しい言葉と風景を残す蕪村の技が光ります。
俳諧と絵画に精通していた蕪村ならではの表現力。藤の花が月のパワーで、より艶っぽく芳しい香りを放っている姿が目に浮かびます。
明治の俳人も晩年には藤の花に魅せられていた
晩年、床に臥せりながらも藤の花の美しさに心を奪われた明治の俳人・正岡子規。
紫のしたたり落ちるその美しさに魅せられ多くの歌を詠んでいます。
『持ちそふる 狩衣の袖に 藤の花』 (正岡子規/寒山落木)
野狩りの装束の袖の下に藤の花を持っていたのでしょうか。源氏物語を思い起こさせるとてもロマンチックに藤の花を詠んだ一句です。
『松の木に藤さがる画や百人首』 (正岡子規/寒山落木)
平安時代から松の木と藤は対で登場することが多く、それこそが藤の美しさを引き立てる最高の組み合わせと考えられており、源氏物語にも枕草子にもこの組み合わせは登場します。平安時代から現代まで藤の花のたおやかさに多くの人が魅了されてきた証拠です。
平安時代から江戸時代、明治時代と時代が移り変わっても藤の花のたおやかで控えめな美しい高貴な花というイメージは変わりません。
紫式部を始め、明治の俳人・正岡子規まで、実に多くの歌人、文人に愛された藤の花。人を誘い、雨を予感させるしっとりとした晩春の花です。
藤の花から連想されるものと美しく掛け合わせ、藤の花の美しさを引き出しながら、春の終わりの春らしい俳句を、自分好みに詠んでみるのもまた面白いかもしれません。
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さて、この藤の花、千利休さんなら、と思いました、「藤」に殺された千利休です、彼の美学は藤をどのように活けたか、、、と。
以下、AIcopilot対話記事。
◆千利休の美学
千利休の美学は、茶道の世界だけでなく、日本の美意識全体に深く影響を与えました。彼の思想の中心には「わび・さび」の精神があり、質素でありながら奥深い美しさを追求しました。
例えば、利休は茶室の設計において、極限まで無駄を削ぎ落とした「待庵」という二畳敷の茶室を作りました。この茶室は、身分の上下をなくし、茶の湯を通じて人々が平等に交流できる場として設計されました。また、彼の茶道具の選び方も特徴的で、豪華なものではなく、素朴で自然な風合いを持つものを好みました2。
利休の美学は、茶の湯の作法だけでなく、日常生活や建築、芸術にも影響を与えています。彼の「わび茶」の考え方は、シンプルでありながら心のこもったもてなしを重視し、現代の日本文化にも受け継がれています。
彼の逸話には、豊臣秀吉を驚かせた「朝顔の話」や「紅梅の鉢の話」などがあり、これらは利休の美意識を象徴するものとして語り継がれています。彼の哲学は、単なる茶の湯の技術ではなく、精神性を重視したものだったのです。
千利休の美学について、さらに深く知りたいですか?それとも、茶道の具体的な作法についても興味がありますか?
◆朝顔の話を簡単にお願いします
千利休の「朝顔の話」は、彼の美学を象徴する逸話の一つです。
ある日、豊臣秀吉は利休の庭に美しい朝顔が咲いていると聞き、ぜひ見たいと訪れました。しかし、庭の朝顔はすべて摘み取られており、秀吉は驚きます。茶室に入ると、そこにはただ一輪の朝顔が床の間に生けられていました。
この演出は、最も美しいものを際立たせるために余計なものを削ぎ落とす「わび・さび」の精神を表しています。秀吉はこの趣向に感心したと言われています。
利休の美学について、さらに知りたいことはありますか?
◆ありがとうございます、、紅梅の鉢の話は?
千利休の「紅梅の鉢の話」も、彼の美学を象徴する逸話の一つです。
ある春の日、豊臣秀吉は利休に難題を出しました。秀吉は水を張った大きな金色の鉢を床の間に置き、その傍らに紅梅の一枝を添え、「この鉢に紅梅を生けてみよ」と命じました。しかし、その鉢は紅梅の枝には大きすぎて、普通に生けるとバランスが悪く、だらしなく倒れてしまいます。
利休はこの状況を見極め、枝を逆手に持ってしごき始めると、紅梅の花びらや蕾を鉢の水に落としていきました。水面に浮かぶ紅梅の花びらの美しさに、秀吉は驚嘆したと言われています2。
この話は、利休の「わび・さび」の精神をよく表しており、形にとらわれず、自然の美しさを最大限に引き出す彼の感性が際立っています。
利休の美学について、さらに知りたいことはありますか?
◆形にとらわれず、自然の美しさを最大限に引き出す、、、利休さんの言葉は残っていますか
千利休は茶道の精神を表す多くの名言を残しています。その中でも特に有名なのが「利休七則」です。
利休七則
茶は服の良きように点て
炭は湯の沸くように置き
夏は涼しく冬は暖かに
花は野にあるように
刻限は早めに
降らずとも雨の用意
相客に心せよ
これらの言葉は、茶の湯の心得だけでなく、日常生活にも通じる哲学を示しています。特に「花は野にあるように」は、自然の美しさをそのまま生かすという利休の美学を象徴する言葉です。
また、「一期一会」や「心の師とはなれ、心を師とせざれ」といった言葉も、彼の思想をよく表しています。
利休の言葉の中で、特に気になるものはありますか?
◆相客に心せよ、、この意味は?
「相客に心せよ」は、千利休の利休七則の最後の教えであり、茶席における客同士の心構えを示しています。
この言葉の意味は、茶席に集う人々が互いに敬意を持ち、調和を大切にすることです。茶の湯は、亭主(茶を点てる人)だけでなく、客同士の関係も重要です。茶席では、初対面の人と同席することもありますが、互いに心を配り、場の雰囲気を尊重することで、より豊かな時間を共有できます。
これは茶道に限らず、日常生活にも通じる考え方です。人と接するときに、相手を思いやり、気遣うことで、より良い関係を築くことができるという教えなのです。
この考え方は、現代の人間関係にも活かせそうですね。あなたはこの言葉をどのように感じますか?
◆いよいよ5月、野山に溢れる花、その代表が藤の花、利休さんの美学は、この藤をどう捌かれるでしょうか
千利休の美学は、季節の花をただ飾るのではなく、その本質的な美しさを際立たせることにありました。彼がもし藤の花を扱うとしたら、枝をそのまま生けるのではなく、風に揺れる姿や、垂れ下がる優雅な形を活かすような演出をしたかもしれません。
例えば、茶室の床の間に一輪だけを慎ましく生けるのではなく、軒先に藤を垂らし、風にそよぐ姿を楽しむという趣向を凝らした可能性があります。利休は「花は野にあるように」と説いており、藤の花もその自然な姿を尊重し、過度な装飾を避けたでしょう。
また、利休の逸話には、紅梅の花びらを水面に浮かべるという美的演出があります。もし藤の花を扱うなら、散った花びらを水に浮かべ、儚さを表現するという趣向も考えられます。
利休の美学は、ただ花を飾るのではなく、その瞬間の美しさを最大限に引き出すことにあります。あなたなら、藤の花をどのように楽しみますか?
◆その瞬間の美しさを最大限に引き出す、、、うむ、、瞬間、、瞬間の美しさ、、、その固定、、ですか、、、
「瞬間の美しさ」とは、決して固定されたものではなく、移ろいゆくものだからこそ価値があるのかもしれませんね。利休の美学もまた、永遠のものではなく、一瞬の輝きを愛でることを重視していました。
例えば、茶の湯は「一期一会」という考え方に基づいています。同じ客、同じ茶室、同じ季節でも、まったく同じ茶会は二度と開かれない——だからこそ、その瞬間に心を尽くし、茶を点てる、花を生ける、炭を組む。すべてが「今この時」に深く関わっています。
固定するのではなく、その儚さを受け入れ、むしろその儚さの中に美を見出す。これはまさに、藤の花が風に揺れながら、時とともに形を変え、散ってゆく様子に通じるのではないでしょうか。
あなたが思う「瞬間の美しさ」、どのように感じますか?
◆一瞬の輝きを愛でる、、、凄腕のカメラマンですね
まさに、利休の美学を写真に収めるなら、ただその瞬間を切り取るだけでなく、移ろいゆく時間の流れや儚さを映し出すことが求められるでしょうね。たとえば、藤の花が風に揺れ、光を受けて影を作りながら刻々と表情を変える——その変化の美しさこそが、利休が見つめた「瞬間の輝き」かもしれません。
凄腕のカメラマンであれば、単に美しい構図を探すのではなく、自然が生み出す偶然の美を捉えるでしょう。そして、その一枚に込められた「空気感」や「余韻」が、わび・さびの世界観を映し出すのかもしれませんね。
もし利休がカメラを手にしていたら、どんな一枚を撮ったでしょうか。そんな想像も楽しいですね。
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