2012/05/19
世屋に関する地誌を知りたいと想えば、ここ。
www.geocities.jp/k_saito_site/doc/seyav.html 6/17の世屋五地区バス巡りにむけて、さて!と探していたところヒット。
「斉藤」と、お書きするのでしょうか、k_saitoさん、の世屋に関して多くの古文書に当たった綿密なまとめは、さながら、現代の長浜宇兵。
たとえば、【藤織り】、
「大正十二年(一九二三)の『与謝郡誌』によれば、大正九年当時、世屋村(宮津市字上世屋、下世屋、木子、駒倉、東野、松尾)では、農家の副業として六三戸の八三人が藤織りに従事し、二九五反を生産し、五九○円を得たと記されている」
【人口の記録】
「世屋村は、明治22年~昭和29年の与謝郡の自治体名。畑・下世屋・松尾・東野・上世屋・駒倉・木子の7か村が合併して成立。大正9年402世帯・1,394人。昭和29年の戸数246・人口1,287(市町村合併史)。」具体的な数字は、ガイドに不可欠な説得力だ。
【世屋せやの地名】
何が語源なのか、安易な想定に納まらない、「セヤダタラのセヤは鉄を意味する古代湮滅語の一つである。サシスセソは鉄を意味すると思われるが、セヤのヤは何か。『万葉集』巻二十4398。ここは読めないのかほったらかしになっているが、「於此曾箭」という言葉がある。ここを「負征矢(おひそや)」と一般に訳していて、征矢とは戦争の対人用の矢だとする。そうかも知れないが単に「鉄(ソ)矢」ということかも知れない。」
Mさん、これを読み込むことが、必須ですな!、6/17の世屋五地区バス巡りは。
まずスタートの畑に進みましょう。この里の水と石組みの美しさは際立っている。ここでかたらなければならない紙漉きのことをk_saitoさんは、次のようにまとめてくれています。
□伝承では四、五百年前に四国より遍路さんが来て、紙の漉き方を教えたのが、始まりと伝えられている。
□ 冬の副業として、畑の近隣の東谷(廃村)、西谷(廃村)、日ケ谷、筒川、野間、上世屋、日置などでも紙漉きが行われた。
□『貿易備考』〔大蔵省記録局・明治十八年(一八八五)〕によれば、与謝郡畑谷村として、立原紙、小奉書、廷奉書、佐次杉原紙などの種類名がみえる。
□ 大正十一年(一九二二)には「畑製紙組合」が結成され、丹後一円に拡大された。昭和三年(一九二八)「手漉製紙ニ関スル調査」によれば与謝郡世屋村、戸数二八、従業人員六四で、種類には半紙・障子紙・縮緬帯紙とあり、産額六九一四円となっている。
□販路は与謝郡橋北方面、加佐・与謝・中・竹野各郡産業組合、与謝郡宮津町宮城商店、峰山町丹後縮緬同業組合、丹後一円機業家、丹後縮緬機業と結び付いていた。
□ 昭和十二年(一九三七)、日中戦争によって海軍省から軍需産業の指定を受け、舞鶴工廠内爆薬部に火薬を包む細川紙を納入するようになった。戦争による強制増産が命じられた。
□ 経済の復興と共に和紙の利用も多くなり、講習会や現地視察などが行われた。しかし、安価な洋紙の出現により、労働力にみあった製品価格がくずれていき、昭和四十四年(一九六九)に「畑製紙農業協同組合」は解散した。
これらを噛み砕き、戦争で強制増産させられたことや、地場産業縮緬とむすびついていたなど、強調すれば、シナリオにできますね。往時の反映を語るのは、格式のある立派な公民館や学校のあと。この学校跡は、「畑婆爺ニアセンター」として蘇っています。