宮津エコツアー · 世屋街道は戦国街道!

世屋街道は戦国街道!

「この時、幽斎公は今出川相国寺門前の私宅にて本能寺の変を早めに知り、「早田道鬼斎」という浪人に託して丹後へ遣わせます。道鬼斎さんは宮津までの約60キロメートルの距離をなんと!6時間で走破し、宮津城に到着。松井、有吉などの細川軍団と忠興公が本能寺の変を早めに知ることになりました。このスピードのおかげで光秀からの使者よりも先に細川家が「本能寺の変」を知ることになったのです。だからこそ、冷静に情勢判断を行い、ガラシャさんを「味土野に幽閉して助ける」というアイデアが浮かんだと思います。
※武士道 味土野(細川ガラシャ幽閉の地)後編Posted in 2013-10-27T13:56:05+00:00u0531201310 ¬ 1:56 PMh.ohta2 Comments」
これ、いかにも見たように書いておられておもしろく読みました!
本能寺の変という大激震、その際、明智家から長男の嫁をもらって縁家になっていた細川家、その「細川たま」の処遇には三つの方法がありました。
①玉さんを実家に帰す ②玉さんに自決させる ③玉さんと忠興さんは光秀の軍にはせ参じる。しかし、実際はその何れでもなく「味土野に幽閉して」おくというアイデア。
このぶろぐ氏もそこに感動されたのです、

とも030宮津城

(↑ 宮津城復元にチャレンジされている古川電機様より会にいただいた年賀状)

さて、偽装離婚・味土野幽閉それはまごうことなき史実です。ただしそのアイデアがはなぜ浮かんだのか、第四の道を選んだ理由、については、見解分析推論は諸説あります。そのなかで、情報伝達のスピードとゆとりに求めていらっしゃいますぶろぐ氏の説明、疑義もありますがおもしろいです。まず疑義。・京都から宮津までの距離は約60キロメートルであること(え?京都駅から天橋立まで高速を利用する場合、走行距離は約106キロ、所要2時間10分。)・京都から宮津まで6時間で走破できた事(何時にに出て何時についたという記録がのこっている?)、・幽斎公は今出川相国寺門前の私宅にいて
(え、藤孝さん、城主で宮津鶴賀城か舞鶴田辺城にいらっしゃったのではないの?)

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一方、おもしろいこと。
「・幽斎公は今出川相国寺門前の私宅にいて本能寺の変を知り「早田道鬼斎」という早馬の使者を丹後に派遣したとおっしゃっているところ。」
「稗史野乗」(民間で編纂された雑史)とはいえ、信長の泊まった日に、同じ京都の本能寺とは数キロと離れていないところにいたという説、どういう根拠文献によるのか知りたいところですが、この説を採用すると、とんでもない想像が広がります。実は藤孝さんは、、、!
この先は、明智憲三郎さん『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫をお読み下さい。

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そこで、宮津から味土野へのルート。  宮津→(海路)→ 日置→ 世屋→ 味土野 については一色と細川はその当時棲み分けた、一色は今の岩滝から京丹後方面、細川は今の舞鶴宮津、日置世屋野間を含む加佐郡与謝郡。本能寺の変に乗じ不穏な動きを見せる一色支配地を通ることはできない、宮津 日置 世屋 味土野間には年貢や軍事物資の納入など物流ルートができていたことを思えば、まず堅い戦国街道。
さて、そのなかで、世屋 味土野間を巡って二つの資料!
ひとつは、せやかんばん絵地図

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ここには、下世屋→松尾→小杉→味土野のコース。これはふるさと会議の方々の書き込まれたコース。

もう一つは、「細川ガラシャのすべて・関係史跡事典」 『宮津よいとこ 宮城益男のガイドブック』(あまのはしだて出版)などの説。

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「かって父光秀の謀反の故に、幽閉された細川ガラシャが辿ったのは、日置から上世屋、そして、駒倉から峠を越えて野間の味土野に出る街道であった」と宮城さん。さらに、三浦綾子さんも子の説を採用。
二つのコースを地図に落としました。

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どちらも、味土野へいけます。

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どちららの説にも聞く耳は持っていたい物ですが、真実はひとつ、宮津上世屋間にバス路線があったころ、味土野の方も上世屋・駒倉を経て利用されていたこと、姻戚関係の濃さなどの状況から、日置から上世屋、そして、駒倉から峠を越えて野間の味土野にのコースに賛成!です。

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