宮津エコツアー · シイの木は、日本人にとって大恩人の木!

シイの木は、日本人にとって大恩人の木!

大宮町久住の本光寺境内にある三本のシイの樹は、それぞれ三メートルを越す巨樹です。

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奥のは445cm

入り口のは413cm

真ん中のは少し小さいけれど、それでも309cm。

近くの延利・高森神社と権現さんの境内にも。

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(上 延利 高森神社)

これは、株立ち大シイ892cm。

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(上 延利 高森神社)

このようにお寺やお宮さんにはシイの巨樹がおおい、シイの巨樹はお寺やお宮さんにおおい、、、、

しかし、大きいことに目がいって、考えませんでした、それはなぜか?ということを!

実は、シイの森の湿っぽい薄暗さはあまり好きではなかったのです、、

けれども、シイの巨樹がお寺やお宮さんにおおく残っている理由に思い至って、それを改めました、

シイの巨樹がお寺やお宮さんにおおく残っている理由、、、

こんなことがわかりました!

その①。

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日本人は何度も飢饉を乗り越えてきた koizumipress.com/archives/15779 – キャッシュ

2018年9月1日 – 縄文人の栄養摂取術 それでは次に、飢饉のときや災害のとき、いわゆる非常時を生き延びる救荒食品についてお話をします。 まず、現代の日本で、山の中に … 堅果ではクリ、クルミ、シイの実、ナラの実、トチの実など。根茎類ではカタクリ、 …
食料を得るため、人々は歴史の中で知恵を働かせ、様々な努力を重ねてきました。長い狩猟採取の時代から、縄文時代後期には雑穀類やイモ類の栽培が始まり、ついで米作などの農耕が始まりました。米作は中世に入りようやく定着してきましたが、亜熱帯植物である稲の安定した生産は、大きな困難を伴うものでした。
近世(江戸時代)に入ってからは、用水の確保や、早生~晩生の品種を組み合わせるなどの改良もある程度取り入れられましたが、当時の未発達な技術に加え、江戸時代は全期を通じて寒冷な時代であったこともあり、不順な天候や病害虫の多発での大凶作に伴う飢饉が絶えませんでした。特に「やませ」が発生する冷涼な岩手県の気候風土では、凶作が大きな問題でした。江戸時代は栽培する品目が農民の自主裁量では決められず、大名や旗本の許可が必要だったため、気象条件が稲作に向かない土地でも稲作に励むしかないという状況や、農民に対する徹底した年貢米の収奪や、藩境はんさかいを超えた物資の交易が制限されていたことも窮状に拍車をかけた大きな原因と言われています。 明治以降、日本は西洋から新たな技術を取り入れながら独自の技術開発を進め、食料の増産に力を入れましたが、凶作は絶えませんでした。昭和に入り、戦後は高度な経済成長とともに農作業の機械化、化学肥料の使用、病害虫防除の近代化などの生産技術が著しく進歩しました。しかし今でも約10年に1回程度は不順な天候によって稲作の不作年があり、野菜や果物でも台風や大雨等によって生産が減少することがあります。そのような時であっても、世界中から食料を輸入することができる現在、飢饉は昔話となりつつありますが、当時の人々がどのような物を食べて命をつないできたのか、飢饉の歴史とともに当時の食を紹介します。かつての本州・四国・九州の暖地は、一年中緑に輝く葉を茂らした照葉樹(しょうようじゅ)の森林に覆われていました。昼なお暗い鬱蒼(うっそう)とした森林の代表者は、シイ、タブ、クスなどの常緑広葉樹(じょうりょくこうようじゅ)でした。縄文時代や弥生時代、更にそれ以前の太古の時代には、海岸線付近まで、この照葉樹林(しょうようじゅりん)で覆われていました。人々はこれらの樹木を利用しながら自然界の一員として共生して生活していたのです。しかし、現在では、ほんの僅かな地域に樹林が残っているにすぎません。シイは秋に実る果実が食料とされていました。シイの果肉はデンプンに富み、渋みが少なく生食できるし、ゆでたり炒ったりしても美味です。おそらく日本で農耕文化が発達する以前の先住民族の重要な食糧であったと考えられます。また、農耕時代になってからも、飢饉の時の救荒食糧として主要なものであったと考えられます。これは、いくつかの古墳から、シイの果実が出土することからもうかがえます。

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その②

西福寺のスダジイ  敦賀市指定天然記念物 昭和58年11月18日指定 福井県敦賀市原 西福寺境内
幹周   7.5m  樹高    10m  樹齢   650年
敦賀市の西方約1kmの原に西福寺はあり、山門をくぐると樹齢を感じさせるシイの古木2本が参詣者を出迎えてくれる。
幹の太さは西側のもの(上から2枚目)がやや大きく、半円形の整った樹形である。反対に東側のものは荒々しい形相をして枝を張り、凄みを感じさせるものだ。西福寺開山の良如上人のお手植えと伝えられ、飢饉の際にもシイの実を食べられるようにとの配慮からであるという。読売新聞選の新・日本名木100選に西側のシイが選ばれ、全国にその名を知られるようになった。

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極めつけは、日本昔話で放映された昔話かも。

 「金の椎の実」放送回:0669-B  放送日:19881001(昭和631001)

演出:柏木郷子  文芸:沖島勲  美術:安藤ひろみ  作画:柏木郷子( 京都府 ) 8446hit

あらすじ

京都の福知山にある天神様の社の傍に、みよと言う娘が暮らしていました。みよは猟師だった父親を早くに亡くし、母親と二人で暮らしておりました。ある時みよの母親が、日頃の無理が祟って重い病気になってしまいました。みよは毎日甲斐甲斐しく母親の看病を続け、天神様の社に母親の病状平癒の祈願を続けましたが、母親の容体は良くなりませんでした。

ある日、みよは天神様の社からの帰り、傷ついたコウノトリが雛を抱えたまま、野良犬に襲われているのに出くわしました。みよは野良犬を追い払い、コウノトリ を助け出しましたが、コウノトリの親は既に死んでおりました。残された雛を哀れに思ったみよは親コウノトリを埋葬し、雛に「ピーコ」と名付けて育ててやる事にしました。

ピーコはみよの世話の御蔭ですっかり大きくなりました。そんなある日、みよが母親の看病に疲れてうたた寝をした隙に、ピーコが居なくなってしまいました。悲しくなったみよがしくしく泣いていると、突然白い着物に白い頭巾を身につけた美しい女の人が現れ「みよさん、貴方の御蔭で私の娘はあんなに元気に育ちました」と言って、空を悠々と飛ぶピーコを指し示しました。その女性は、あの時死んだコウノトリの霊の化身だったのです。

女の人は「今度は私が貴方に恩返しをする番です。天神様の社の傍に、金色に輝く椎の実を置いておきます。それを煎じておかあさんに飲ませなさい。必ず病気が治りますから」そう言って姿を消しました。

みよが天神様の社に行ってみると、本当に金色の椎の実が落ちておりました。みよがそれを持ち帰り、煎じて母親に飲ませると、たちまち母親の病気は治り、元気になったと言う事です。(投稿者:熊猫堂 投稿日時 2014/1/27

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煎じて母親に飲ませると、たちまち母親の病気は治り、元気になったというのは、シイの実の栄養価の半端なさを語ります。

椎(しい/シイ)の実の栄養と効能

椎(しい/シイ)の実は、ブナ科シイ属の常緑高木の種実。ナッツ類の一種。生でも食べられますが炒って食べることが多い。ビタミンやミネラルなどの栄養をバランス良く含み、健康に役立つオレイン酸やリノール酸、α(アルファ)リノレン酸などの脂肪酸が豊富。そのままいただく、炒め物、炊き込みご飯やお菓子の材料として利用されます。

椎(しい/シイ)の実は、糖質の代謝を助けエネルギーをつくり出し疲労回復に役立つビタミンB1や細胞の新陳代謝を促進し、皮ふや粘膜の機能維持や成長に役立つビタミンB2、また、皮ふや粘膜の健康維持をサポートしたり、脳神経を正常に働かせるのに役立つナイアシンやビタミンB6、動脈硬化を予防しストレスをやわらげる働きのあるパントテン酸そして、貧血を予防し、細胞の生まれ変わりや、新しい赤血球をつくり出すために欠かせないビタミンである葉酸を含みます。さらに、抗酸化ビタミンであるビタミンCやビタミンEを含みますので活性酸素の発生や酸化力を抑え、動脈硬化、皮膚や血管の老化を防ぎ、免疫力を高めてくれます。また、骨や歯を構成するのに必要なミネラルであるカルシウムやリン、マグネシウムなどを含みます。カリウムも多く含まれますので疲労回復や利尿作用、高血圧の予防に役立ちます。

椎(しい/シイ)の実は、良質なタンパク質や食物繊維、βーカロテン、レチノールも含む優れた栄養のある食べ物です。

こちらはアクが少ないため、そのまま粗くすりつぶし、パンやクッキーに混ぜ込んで焼くなどして食べられます。

含有する栄養成分のなかで特出しているのはビタミンCで、コラーゲンの生成に関与しています。ビタミンCが不足してコラーゲンの生成がうまくいかなくなると、細胞の分裂が弱まって壊血病になります。

また、強い抗酸化作用によって過酸化脂質の生成を抑制し、動脈硬化・脳卒中・心筋梗塞などを予防するほか、発がん物質であるニトロソアミンの形成を抑える働きもあるため、抗がん作用が期待できます。

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(上 延利 高森神社)

檀家や氏人の心のよりどころのお寺や神社には、命の最後のよりどころとしてシイの木が植えられ、守られてきた、それが、シイの巨樹がお寺や神社におおい理由だったのです。

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(上 波見 高峰神社)

トチ、栗とともにシイも日本人にとって、大恩人の木だったのに、それが強調されていないことを恥ずかしい思いをもって痛感した次第です。

 

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