宮津エコツアー · 「麒麟が来る」戦国与謝古道、開く!

「麒麟が来る」戦国与謝古道、開く!

「本能寺の変」の報せを受けた宮津の細川家に何が起きていたのか、どのように忠興と玉さんはどのように送ったのか、味土野へはどの道を辿っていったのか、、そこは小説家の腕の見せ所!三浦綾子さんと吉川英治さんと松本清張さんと永井路子さん、それぞれの想像を見てみましょう!

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まず、三浦綾子さん『ガラシャ夫人』

①「殿!・・・それで、このわたしをいかがあそばれますか?」「父に味方なさらぬとは、つまり父の敵となられましたのも同然。敵方の娘は返されるのが慣わし、、」「お玉、昨夜もいうた。わしは返さぬ。返すくらいならわしが殺す。お玉、よいか、わしはそちがいとしいのだ、命にかけても返しはせぬ、殺しもせぬ、そちの命はわしのものじゃ、そちが死んでは、わしも生きてはおれぬのだ。」忠興はひしと玉子を胸にかきいだいた。▼▼②「殿、細川家の浮沈にかかわることですぞ。これほど申し上げてもお聞き入れなくば、奥方のお命は我らが頂戴いたしまする。どうせ敵方の手にかかるならばここが思案のしどころ。いっそ、我らの手で、、、いや御自らの手で御生害あそばれるのが奥方のお幸せともうすもの」▼▼③「ならぬ。お玉を斬るともうさば、わしがそちを斬る!」「何と、この有吉を斬ると仰せられてか」「玉の命を奪う者は、誰でも切り捨てる。羽柴筑前であろうと高山右近であろうと」決然と忠興が言った。忠興の見幕に一座が急に静まった。と、松井康之の感に迫った声が聞こえた。「殿!それほどまでのお覚悟とは、、、。松井康之、命に代えても奥方をお守りいたしますぞ。」「おお、松井、助けてくれるか。頼む、何とか玉を返したことにできまいか。」「返したことに?」「うむ、亀山城に返したと、世間をあざむき、その実、この城のどこかにかくまうということはできぬか。」「さあそれは」「むりかそれは、。とあらば、どこか山の仲にでもかくし置き、亀山に返したと言い張ることはできぬか。」「、、、、、」深い沈黙がつづいた。▼④  万一、亀山にお返ししたとの虚言が発覚したる場合、殿、何と申し開きをいたしましょうや」▼⑤「、、、が、待てよ、おのおの方、殿の御策も御名案かも知れぬぞ。中国の毛利軍が、果たしてこのまま指をくわえて、筑前守を見逃すかどうか。 略 「惟任殿ほどの知謀の将がただ手をこまぬいて、この十日間を徒に送ったとは思えぬ。何れにせよ、殿の申されるが如く、奥方は奥方は山奥にでもおかくまいもうすが賢策かも知れぬ。」▼⑥毛利方に送った密書が、秀吉の手に奪われていたことを、まだだれも知らない。▼「うむ・・・・」不承不承、松井の言葉に応ずる気配がした。「と決まれば、急いで場所を探さねばならぬ。」「人目につかぬ山中のう」「おお、そうじゃ、殿、味土野はいかがでござりましょう。」松井康之がいった。「みとの?とな」「は、丹後半島の中程にある山の中、あの金剛寺亀山のすぐ傍らにござる」「では、険しい山中だな。女の足ではたいへんなところだが、、、」「男の足でも容易ではありませぬゆえめったに人の寄りつくところではござりませぬ」「道のりは?」「宮津より、舟にて余佐の海を横切り、日置の浜に渡り、そこより味土野まで三里でござります。」「おお、それは近い!」ようやく忠興の声がはずんだ。「戸数はどれほどじゃ」「せいぜい、二十戸もござりましょうか。山伏寺などもござります「では、ひどく淋しいというほどでもないな」「は、山の中とはいえ、人里でございますれば、、、、」「なるほど、では、それに決める。松井!明朝早々にも人をつかわし、住居を用意させよ。」▼▼⑧「敵を欺くためには、味方から欺かねばならぬ。」という幽斎のすすめもあって、玉子が城を出る姿を、家中でみたものはない。夜陰に乗じて宮津の浜から舟に乗り、伴のもの数人と、警護のもの二十名ほどに守られて、日置の浜に渡った。▼略 日置の浜で、ほんの二ときばかり舟の中でまどろみ、夜の明け切らぬうちに一行は味土野に向かったのだ。途中の山道のけわしさも、並大抵ではなかった。男でもたやすく登れるところではない。

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永井路子さん『朱なる十字架』 1971年

①光秀の謀反事件が嵐のようにすぎてしまうと、宮津の館は、やがて平穏に戻った。忠興もそのころになると、めだってお玉にやさしくなった。まるで元結いを切った日の冷酷な扱いの埋め合わせでもつけるように、不器用に、しかし、ある温かみをこめてお玉をいたわった。
その彼がある困惑の表情を浮かべてお玉の許にやって来たのは、その後まもなくである。「困ったことになった」「このままではそちの身が危ない」「一時身をかくしたほうがよくはないかと思う」その間じゅう、じっと忠興を見つめていたお玉は、やがてぽつりといった。「私がいてはお邪魔なのですね。」「でも、本当に愛していてくださるなら、お手放しにはならないとぞんじます。」「今のあなた様には、私がいることはお邪魔なのです」「もし玉を本当にいとしいとお思いになりますのなら、この場で、玉をお刺しくださませ」
「殺す暗いなら苦労はせぬ、そなたを助けたいと思うからそう言うのだ」「行ってくれるのだな」「はい、それはどこでございます」「味土野だ。山の中だが、ここなら誰からもみつかりはせぬ。そこで待っていてくれ。必ずいつかは迎えにゆく」
②準備はその日から慌ただしく進められた。明智からきた付け人のうち小侍従のすべてが従った。
③追われるように宮津の館を出て、炎熱に焼かれながら、山肌にしがみつき、夏草のしげみをかき分けながら、この味土野の山奥にたどり着いたのは夏のさなかだった。従者に輿脇を護られて夜明けに宮津を出た一行は、暫くの間は、松の木越しに海の見え隠れする道を辿ったが、岩滝の部落から、北へ向かうと、しだいに山が迫ってきて、輿もそのあたりで棄てねばならなかった。

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松本清張さん、『火の縄』

①忠興は、注進状を見て、蒼くなっていた。「どうなされます?」忠興は、父に訊いた。「お前の考えは?」「てまえは父上のお考えに従います。「うむ」藤孝は黙っていたが、穏やかで深みのある眼差しを息子にむけた。「玉をどうする?」息子はしばらくだまっていた。略 「斬ります」と吐くようにいった。藤孝がじろりと見て、「血迷うな」と叱った。「は?」「なぜ、玉を斬る?」「明智の女ゆえ、諸人から疑いをかけられましょう。斬って証をたてます」「うろたえもの」藤孝はまた叱った。「織田家の諸将への面目はわしが立てる。玉を殺すことはない」

②「光秀は滅びる。あの男、案外小器であったな。いや主殺しをいっているのではない。殺した後の始末を考えていないのだ。味方の算用もなしに、逆上せて事を挙げたといえよう。いまに、あの男、袋叩きになる、惜しい男だが、」「玉はしばらく山の仲にでも預けておけばよい。親父と同様、殺すには惜しい女じゃ。与一郎、あのような女房は、またともらえぬぞ。」
③敵味方に分かれると、相手方から来た養子や嫁は戻すのが通例だった。藤孝は
それをしないという。、年来の親友に見せた藤孝の最後の好意であった。
④「特に頼もしく存じ候条、略 表裏公事によらず御身上見放しもうすまじく候事 6月11日 秀吉血判」秀吉誓書到着

⑤「監物」藤孝は訊いた。「筑前に、 玉のことを話したか?」玉を丹後の三戸野の山中に押し込める事にしたと、秀吉に言い添えさせたのである。「申し上げました」「どういっていた?」藤孝は膝をのりだした。しかし、明智の女、玉については秀吉の胸中はわからなかった。「黙って、頷いておられました。秀吉がそれに触れないのは、以後の処置があってのことかもしれないのだ。藤孝に暗い不安がさした。宏量の聞こえのある秀吉だが、敵将明智の女とあれば別かもしれなかった。」

④忠興は大急ぎで妻の部屋に行った。玉は片づけごとをしている。明日は早朝に、宮津を発って三戸野に行くのだ。三戸野は和知と保津の分水嶺をなす山奥である。

⑤ただひとつ、戦闘が身近に感じられたのは、光秀の女の嫂が、輿に乗って、奥丹後に送られていったことだった。初夏の眩しい光を受けて、その輿は数十人の家臣に守られて城門を出て行った。蝉時雨の山道を、一行は鎧の金具を光らせながら小さくなって消えた。

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さらに、文壇の大御所吉川英治さん。

■光秀との関係は、偶然にできたものでは決してなかった。藤孝は、彼も自分も貧しい一介いっかいの浪人であった頃から、およそ光秀ほど、信頼していた人物はなかった。その学問や知識に関する態度のちがいはあっても、人間として沈着で、教養も深く、忍苦に強く、理性に富んで、しかも戦場では人におくれをとらない一方の驍将ぎょうしょうとして――今朝の今朝まで、彼との縁を、悔いたことなど、ただの一度もなかったのである。▼ 「その光秀が?」▼  と、藤孝は今も、息子の忠興へ、半ば憤いきどおろしく、半ば信じられない事のように、▼ 「信長公を弑逆しいぎゃくし奉ったなどとは……。大逆の乱を起して洛内を合戦の巷ちまたにしておるなどとは……。夢か、天魔でも魅入みいったか。信じられぬのだ。……しかし、刻々と、矢つぎ早やに諸方からのこの通状だ。また、光秀自身から、味方に参ぜよとの書状も今着いた。わしは、正直、途方にくれた。忠興、そちはいずれに組すか」▼  こう父の云ったのに対して、忠興は、さっきから二度までも、▼ 「何の御斟酌ごしんしゃくですか。主君を殺した逆臣に組する弓矢は忠興にはありません。――妻の処置しょちは、良人たるわたくしの胸でします。そして、信長公の御無念をはらさんとする何人とも力を協せて、光秀を討たずにはおきません」▼  そう明確に答えを繰返くりかえしていたのであった。▼ 「よう云われた。父とても、同じ考えである」▼  藤孝は、仏間ぶつまにはいって、信長の霊に誓の仏燈あかしを捧げ、その日に、黒髪を剃おろしてしまった。▼  忠興は、重臣をあつめて、父子おやこの決意を告げ▼▼■ 「そなたに罪があるではないが、今日かぎり側には置かれぬ。おそらく、世の憎しみは、そなたにも降りかかろう。大逆人の血すじよ、光秀の娘よと、あらゆる辱しめと、怒りにまかす仕返しの手がつき纒うであろう。――別離は、慈悲と思え。迦羅奢、山へ逃げろ、三戸野の山奥へでも落ちて行け」「…………」▼  迦羅奢は、突然、大きく咽むせんで泣きはじめた。略 ▼ 「よいか、人目につかぬ夜のうちがよかろうぞ。郎党には米田金八郎・何児小左衛門・岩成兵助三名を付人としてつかわすほどにな。……山の尼院へ」▼ 略 ▼ 「兵助っ。金八郎っ。――支度はいいか。奥方を……いや迦羅奢を、すぐ用意の山駕にうつせ」

日本名婦伝 細川ガラシヤ夫人 | 耳で聴く本(きく本) kikubon(キクボン)

▼  庭面で、付人達の返事がした。迦羅奢も、今は取り乱して、▼ 「せめて、お城の内で、死なせてくださいませ」と、自身の懐剣をさぐった。▼  忠興は、それを奪り上げて、いたたまれないように、廊下へ交わした。彼女の供をして三戸野山へ夜のうちに落ちようとする付人達は、山仕度で庭の近くまで、その山駕を用意して来ていたが凝然と、ただ立ちすくんでいた。▼ 「山へは行きません」「行けっ」▼ 「いやです」迦羅奢の声音は、次第に強いものに変って来た。▼  ▼■諄々と、彼は妻にいいきかせた。略▼ 「……迦羅奢。そなたは、卑怯であろうぞ。この苦しい忠興の意も汲まず、後に遺る子も思わず、この場合、何よりやさしい死を選ぶ所存か。たとえ忠興の側を別れ去ろうとも、妻ならば妻の道を、母ならば母の道を、もっと強く生きぬいて、しかも後に、大逆人の娘という汚名をも、雪いでみようとする気もないのか」▼  ふと、良人のことばが、一滴の甘露のように、心の底へぽとと落ちた。▼  迦羅奢は▼「参りまする。どんな山の奥にでも」▼  いつもの素直な声で答えた。鏡に向い直した。そして静かに身づくろいすると、やがて、日頃の老女・侍女・乳母までを呼んで、別れを告げた。――わが子の与一郎へも、最後の乳ぶさを与え、たくさんな召使の涙の中に、その日の深夜、城の搦手門から山駕にかくれて、三つの松明に護られながら山へ落ちて行った。▼▼

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コース、乗り物、護衛など具体的な部分に絞ってみると、以下のようです。

【一】深夜、城の搦手門から山駕にかくれて、三つの松明に護られながら山へ落ちて行った

【二】初夏の眩しい光を受けて、その輿は数十人の家臣に守られて城門を出て行った。蝉時雨の山道を、一行は鎧の金具を光らせながら小さくなって消えた。

【三】準備はその日から慌ただしく進められた。明智からきた付け人のうち小侍従のすべてが従った。③追われるように宮津の館を出て、炎熱に焼かれながら、山肌にしがみつき、夏草のしげみをかき分けながら、この味土野の山奥にたどり着いたのは夏のさなかだった。従者に輿脇を護られて夜明けに宮津を出た一行は、暫くの間は、松の木越しに海の見え隠れする道を辿ったが、岩滝の部落から、北へ向かうと、しだいに山が迫ってきて、輿もそのあたりで棄てねばならなかった

【四】「敵を欺くためには、味方から欺かねばならぬ。」という幽斎のすすめもあって、玉子が城を出る姿を、家中でみたものはない。夜陰に乗じて宮津の浜から舟に乗り、伴のもの数人と、警護のもの二十名ほどに守られて、日置の浜に渡った。▼略 日置の浜で、ほんの二ときばかり舟の中でまどろみ、夜の明け切らぬうちに一行は味土野に向かったのだ。途中の山道のけわしさも、並大抵ではなかった。男でもたやすく登れるところではない。

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「舟、輿、山駕、松の木越しに海の見え隠れする道を辿った 三つの松明に護られながら、警護のもの20名、初夏の眩しい光を受けて、その輿は数十人の家臣に守られて、、、」・・・・時間もコースも乗り物も護衛の人数、いずれも四者四様。要するにわからん!

綿密な調査の↑小説にする松本清張さんだから、彼の説がと思いたいところですが、とんでもない、「宮津を発って三戸野に行くのだ。三戸野は和知と保津の分水嶺をなす山奥である。」、、、なんじゃそれ、、、という状況。

ですが、そこがおもしろいところです。とはいうものの、真実は一つ、味土野へ移送された!では、実際のところ、忠興は、たま移送護衛隊に、ルートとして、どちらを命じたか!

状況をかき集め、検証し、想像し、「決断」してみましょう。

まず、宮津の城跡にたって丹後の山を望みます。

ガラシャ海路 IMG_3731

 味土野はその左の奥。宮津から味土野へは、西側と東側に二つのルートを見て取ることができます。

西側  岩滝経由 大内峠 三重 五十河 高尾山越え
東側  日置経由 下世屋 松尾 上世屋 小杉経由
地図で見ると、それは菱形をしています。そこに定規を置いてみます。
東側の2辺も西側の2辺も、距離は15km前後。大差はありません。
陸上部の難易さは、どうか
西側コースは、大内峠 高尾山620m越えが難所です。
東側コースは、世屋川の谷渡り 松尾坂越えが難所です。
難所が待ちうけるのはどちらも同じ。ただ、東側の宮津~日置、この間は海岸沿い。船を利用することが可能です。

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忠興は、たま移送護衛隊に、ルートとして、どちらを命じたか!
当時、たまは、身ごもっていました。その負担への配慮がなされたとすれば、山道の長さ、難易度が同じなら、距離の半分を船便でカバーできる東側を行け、と指示したと考えていいのではないでしょうか。20201104_143150
そしてまた、この東側ルートの木子、上世屋には、医者や校長先生を日置から籠によって移送したという話から、人が語るほど困難な山路ではないと考えられます。宮津藩の半島内陸部、野間川流域にある与謝郡の里々を結ぶ年貢街道は、中世丹後の一色時代、ガラシャの辿った道を踏襲していると考えていいのではないでしょうか。

したがって、三浦綾子さん『ガラシャ夫人』の想定したルートが、総合的に考えるなら、もっとも現実的だと思います。

さて、この戦国与謝古道、世に言うガラシャ古道、特に世屋高原区間は、そういう歴史的価値も、忘れられ、クマザサが封鎖する状態が続いておりました。

そこに一気に風が吹きました。

ポイントに石柱がたちました、

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不通区間の笹が刈られました。

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松尾→上世屋→木子→小杉へと通り抜けることが出来るようになったのです。

草と人の戦いです。やはり、構想は人と金じゃと信長さん。その軍資金は、「海の京都DMO」さん等が、ガイド活動支援助成金の枠を充ててくださいました。

麒麟が来る、この機会に、三浦綾子ワールド・戦国与謝古道をあるいてみませんか。

追記

西側ルートを否定する訳ではありません。

宮津→舟→岩滝・男山→山伏峠→五十河→久住→吉津→味土野。

もしくは、宮津→岩滝→大内峠→三重→森本→五十河→久住→吉津→味土野。

小町さんのルートを踏まえて魅力的です。「従者に輿脇を護られて夜明けに宮津を出た一行は、暫くの間は、松の木越しに海の見え隠れする道を辿ったが、岩滝の部落から、北へ向かうと、しだいに山が迫ってきて」と永井路子さんの朱なる十字架。一色の残党が想定されるのが難点とか言われますが、それはあり得ない。戦国のならい、彼らはすべて首を切られています。人質をだし、服従を誓ったもののみがわずかに残されたのです。

ということですから、東から西にぐるりとまわっていて、実は正解無しがガラシャコース。

 

 

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