大宮町奥大野 やくっさんのタブの樹です。
星野麥丘人さんは こんな句を詠んでらっしゃいます
■ たぶの木の 影は踏まずよ 神迎
巨樹には、手を合わす、、、願いを込めて、感謝の気持ちを込めて
それが農耕民族日本人の心に染みついた習慣になっています。
五穀豊穣の恵みは人知を越えたもの
風、水に恵まれてこそのものだから、
その巨樹への向かい方、西洋では、ちょっと違うようです、ヘルマン・ヘッセさんのおっしゃるには
「 樹はいつも私にとって、もっとも痛切な説教者だった。彼らが民衆や家族のような生活をして森や林をなしている時、私は樹を尊敬する。そして彼らが単独に立っている時、私はなおいっそう彼らを敬う。
そういう彼らは孤独な人間をおもわせる。どうかした弱さから人知れず世をのがれた隠遁者をではなく、ベートーヴェンやニイッチェのような、偉大な、孤立した人々をおもわせる。彼らの稍に現世の風はざわめくが、その根は無窮なものの中に憩っている。彼らはその中でおのれを失わないばかりか、おのが生命のあらん限りをつくしてただ一つのことをなしとげようと努力する。彼ら固有のもの、すなわち彼らの衷にやどっている法則を実現し、彼ら本来の姿を完成し、おのれの何者であるかを示そうと努力する。」
〈『樹木』尾崎喜八訳〉
「彼らの稍に現世の風はざわめくが、その根は無窮なものの中に憩っている、、、」
確かにこういう見方、こういう樹への向かい方もいいなぁとおもいます。
「彼ら固有のもの、すなわち彼らの衷にやどっている法則を実現し、彼ら本来の姿を完成し、おのれの何者であるかを示そうと努力する。」
わたしはわたし!
個人の尊厳、権利の保障された社会とは、まだまだいえませんから、、。
奥大野で100歳になる古老の方は、自分の子どもの頃、すでにこの大きさだったとおっしゃられているとのこと。
地元の方は、「たまのき」と呼ばれます。たまとは、魂のたま、あるいは霊のたま、なのかもしれません。。