伊豆大島に悲惨な爪痕を残した超大型台風。犠牲になられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。
宮津湾の波浪も高かく、17日朝の小天橋海岸の様子。
松の生え際までの砂浜 小天橋南端
打上げられたエビクラゲ
伝統の燈籠流しには、海も天候も申し分なし。
関係者の方々のご尽力で順調にスタート。ところが花火が始まって約30分後、危険制限水域に入った不届者のために花火の中断約20分間。異常気象?と不届者?。伝統行事を守っている関係者や市民にとってはなんと嘆かわしいことでしょう!
暑い中、早くから待機の追掛燈籠流しスタッフの皆さん 全部で10基以上の筏
お盆に帰られた新仏を極楽浄土へ送る精霊船 約40隻 沖の艀は打上げ花火用台船の一つ
沖へ曳航火の手が大きければ大きいほど早く極楽浄土へ凪の宮津湾内を漂う燈籠猛暑の中でもこの人出
天橋立方面から次々と来場。伊根湾めぐり船の応援もあり観光船はフル操業。宮津踊り振興会の皆さん
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天橋立は二度にわたって切断された結果、今日の姿になりました。
天橋立を大天橋(北砂洲)と小天橋(南砂州)に分けて呼ぶのには訳があり、南砂州ができた経緯に関係があります。江戸時代後期1800年頃から明治前期1893年頃の約100年間に、1.7kmの砂州が一気に伸びて形成されたのが、南砂州と呼ばれている小天橋であり、当初は北砂洲とつながっていました。
それが1872年(明治5)の豪雨で切断され、現在のブリッジの大天橋部分である水戸ができました。
更に、二度目の切断は1914年(大正3)、京都府が航路確保のため南砂州の中央部を切断し、文珠水道(天橋立運河)を整備した結果、小天橋の長さは830mとなりました。
切断した南側を埋め立て、そこを第二小天橋と呼ぶようになりました。下の写真が陸続きの第二小天橋410mです。
二度目の切断時の小天橋南端かと思われる石積みが、今回の天橋立ガイド部会の定例研修で見つかりました。この石積は現在の小天橋南端から約100m程手前のところにあります。
その真偽は、現在京都府丹後土木事務所に申し出て調査中です。 写真は小天橋南端と石積