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天橋立は二度にわたって切断された結果、今日の姿になりました。
天橋立を大天橋(北砂洲)と小天橋(南砂州)に分けて呼ぶのには訳があり、南砂州ができた経緯に関係があります。江戸時代後期1800年頃から明治前期1893年頃の約100年間に、1.7kmの砂州が一気に伸びて形成されたのが、南砂州と呼ばれている小天橋であり、当初は北砂洲とつながっていました。
それが1872年(明治5)の豪雨で切断され、現在のブリッジの大天橋部分である水戸ができました。
更に、二度目の切断は1914年(大正3)、京都府が航路確保のため南砂州の中央部を切断し、文珠水道(天橋立運河)を整備した結果、小天橋の長さは830mとなりました。
切断した南側を埋め立て、そこを第二小天橋と呼ぶようになりました。下の写真が陸続きの第二小天橋410mです。
二度目の切断時の小天橋南端かと思われる石積みが、今回の天橋立ガイド部会の定例研修で見つかりました。この石積は現在の小天橋南端から約100m程手前のところにあります。
その真偽は、現在京都府丹後土木事務所に申し出て調査中です。 写真は小天橋南端と石積