大雪のまたの日①、
大雪のまたの日②、
大雪のまたの日③、
自然の猛威のまえに現代生活は無力だなぁと思います。
さて、この雪清少納言さんのころもふったわけで、日常生活を断ち切る雪に対する緊張感、これを彼女が取り上げないわけはありません。
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雪のいと高うはあらで、薄らかに降りたるなどは、いとこそをかしけれ。
(雪がそんなに高くはなくて、うっすらと降った様子などは、とても風情があるものだ。)
また、雪のいと高う降り積りたる夕暮より、端近う、同じ心なる人、二、三人ばかり、火桶(ひおけ)を中に据ゑて物語などするほどに、暗うなりぬれど、こなたには火もともさぬに、大かたの雪の光いと白う見えたるに、火箸(ひばし)して灰など掻きすさみて、あはれなるもをかしきも言ひあはせたるこそ、をかしけれ。
( また、雪がとても高く降り積もった夕暮れから、部屋の端に近いところで、気の合う人、2~3人ほどで、火桶を中において雑談などしているうちに、暗くなったけれど、こちらには火もともさないのに、おおむね雪の光でとても白く明るく見えている、火箸で灰をいたずらに掻いて、しみじみとした話や面白い話を何でも話し合っていたのが、趣深い感じだった。 )
宵もや過ぎぬらむと思ふほどに、沓(くつ)の音近う聞ゆれば、怪しと、見出したるに、時々、かやうの折におぼえなく見ゆる人なりけり。「今日の雪を、いかにと思ひやりきこえながら、なでふ事に障りて、その所に暮しつる」など言ふ。「今日来む」などやうの筋をぞ言ふらむかし。昼ありつる事どもなどうちはじめて、よろづの事を言ふ。円座(わらふだ)ばかりさし出でたれど、片つ方の足は下ながらあるに、鐘の音なども聞ゆるまで、内にも外にも、この言ふ事は、飽かずぞおぼゆる。
(宵も過ぎたかと思う頃に、靴の音が近く聞こえるので、あやしいと思って外を見ると、時々、こうした晩に連絡もなくひょっこりと姿を見せる人であった。「今日の大雪を、どうしておられるかとご心配申し上げながら、何ということもない用事の障りがあって、どこそこで一日を過ごしていました。」などと言う。「今日来む」というあの歌の筋を踏まえた言葉であるらしい。昼間にあったことなどから始めて、色々な話をする。円座(ざぶとん)を差し出したけれど、一方の足を地面に下ろしたままで、鐘の音などが聞こえる頃まで、部屋の中でも外でも、こうして話し合っている事には、飽きるということがないように思われた。 )
明暮のほどに帰るとて、「雪、何の山に満てり」と誦(ず)じたるは、いとをかしきものなり。女の限りしては、さも、え居明さざらまし(あかさざらまし)を、ただなるよりは、をかしう好きたる有様など言ひあはせたり。
(明け方になって帰りがけに、「雪、何とかいう山に満てり」と詩を吟詠したのは、とても風流なことである。女だけの集まりでは、そんなに、一晩中雑談で明かすことなどできないだろうが、男性が加わると、女性も風流で情趣のある様子などを語り合うようになるものだ。 )
※『枕草子』の現代語訳:101 – Es Discovery esdiscovery.jp/knowledge/japan5/makura101.html – キャッシュ
たしかに、「176段」にある、と金さん。