宮津エコツアー · しんべえ地蔵の蓑着せ、今年も!

しんべえ地蔵の蓑着せ、今年も!

まもなく、「宮津藩 文政五年の大一揆」の12月  。

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事の起こりは、宮津藩が領内の7~70歳の男女1人につき1日2文の新税を課す外、農民に対し、先納米1万5000俵と同量の追加上納米を課税するという方針を示したことに対し、農民らがその撤回を求めたこと。

強訴に及んだとして、拘引され詮議を厳しく受けた農民は四十余名。
犠牲者が多数出たはずなのに、そのなかで、石川村奥山の吉田新兵衛死刑(打首)、同為次郎死刑(獄門)、2人にとどまったのは、農民たちの堅い団結だったという。                十数人の追手に囲まれ縛につく際、新兵衛は平然と鍋座に座り飯を食う時間を乞い、妻はその一瞬に強訴の連判帳などを焼き捨てたと伝わる。
「宮津藩 文政一揆」の背景や要因、経過はどのような事だったのか、さまざまに語り継がれているが、60人の庄屋名主、さらに25人の豪商等の富裕層、計85人への攻撃に特徴があるという。農民は<文政5年(1822)12月13日暁方に蜂起、丹後120ヶ村から押し寄せた一揆税は、手に手に松明や鎌、斧、とび口などを持ち、庄屋や豪商宅を次々に打ち壊し、宝物、刀剣、金銀、米等を庭先に積み上げことごとく焼きつくしたという。

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なぜか!

彼らは、新税の徴収に動員され藩と財政上の協力体制を組んでいたのが理由とされる。
では、時の宮津藩主、松平宗発はなぜこのような暴政を行ったのか、数年の作柄は悪くなく、むしろ豊作で、米価も安定していたという。米価が安定していることは領内が平穏であるはず、そのことを領民と共に喜ぶのではなく、暮らし向きの安寧に配慮することなく、1日2文を7~70歳の領民に課す、さらに先納米1万5000俵と同量の追加上納米も課したのだ。
怒りの炎が燃え上がるのは予測出来るはず、また、それに協力したならば、その矛先は自分たちにも向くということを庄屋豪商たちは知らなかったはずはなかろうに、、、。

なぜそうまでして、絞り上げなければならなかったのか。

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「近畿風雲抄」(map46-2.com/koto/kyouto/j_hyakusyouikki.html )は、一揆の背景には藩主・松平宗発 と水野忠邦の出世争いがあるとする。
『◆文政一揆の際、当主松平宗発(宮津藩第5代藩主)は40歳。幕府奏者番(将軍と諸大名との取り次ぎ役)に就いていたが、奏者番の3年後輩に水野忠邦がいた。忠邦は年齢も宗発より10歳ほど若かったが文化14(1817)年に寺社奉行に就任。出世争いにおいて忠邦に抜かれた悔しさが宗発を変身させたとしても不思議ではない。それは、宗発に仕える宮津藩の江戸詰重臣の心痛の種であった。宮津藩は従前から優秀な家臣を江戸に集め人件費や諸費がかさんでいたところ、さらに宗発の上役への接待費等に藩費を費消し、その調達を国元に委ねるという悪循環が藩財政を圧迫するところとなった。宮津藩は新税等の導入に踏み切り、庄屋等を増員し税収の確保に周到な準備を行い、庄屋等には口銭を与えた。それはいわば事務費として処方されたものと思われるが、領民には不健全な役得と映り、一揆の口実となっても不思議はなかった。』

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藩財政の悪化を引き起こした要因は、藩主の出世争いのための浪費としったら、農民でなくとも「それはないだろう」と思うのは当然のこと。

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処刑は文政七年春。

桜咲く さくらの山の桜花 ちる桜あれば 咲く桜あり

民心を忘れ、無思慮に増税を急ぐ理不尽の結果を知らしめるのに一命を賭した新兵衛、為次郎への感謝を込めて、建立した地蔵に寄せられた寄進、75000人。

丹後の民衆は、しんべえ地蔵とよび、慰霊の蓑着せを今も続け一揆を語り継いでいる。

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さて、この巨体に蓑をどうやってお着せするか、そもそも、この像のもとの巨石はどこにあって、どうやってここに運び、どうやって建てたのでありませうか、、、!その謎、解いてみたいとおもいませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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