宮津エコツアー · ブログ写真展 「風の吹くあまのはしだてと仲間たち」2

ブログ写真展 「風の吹くあまのはしだてと仲間たち」2

銅板画技法による天橋立絵図です。従成相山眺望天橋立之図、

mai30_25[1].jpg岡田地図

岡田春燈斎の手によるものです。 岡田春灯斎さんについては、「幕末の銅版画家。 京都の人。松本儀平に銅版画をまなぶ。弘化4年(1847)以後,諸国名所図や歴史絵などをおおく制作し,水月堂という屋号の店をひらいて販売した。」と紹介されています。

つまり、この図絵の世界は、幕末の天橋立周辺を反映しているのです。

mai30_25[1].jpg岡田地図.jpg宮津

由良ヶ岳は丹後富士、宮津の城は舞鶴城、橋立明神の鳥居は西向き!

mai30_25[1].jpg岡田地図.jpgなりあいじ

世屋山は「施谷山」!

mai30_25[1].jpg岡田地図.jpgいちのみや

真名井神社は、「真名井与佐宮」で、東向きに江尻の海から参道が通じていた!

水墨画でもなく浮世絵でもまして写真で無い、モノトーンの色調と描線の細かさが特徴です。

銅版画は版画の一種です。木版画は凸部の色、銅板画は凹部のインクが紙に写ります。

これが、木版画。

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広重二代 諸国六十八景 三十七丹後あまのはしだて、

文久2年(1862)のものです。

銅板画は、浮世絵に比べるとはどことなく異国情緒を感じさせるということで人気が出たということです。春燈斎さんは、「日本三景」も一枚に刷り込んでいます。正式名は、「日本三勝景」

mai30_23[1]山系

現在の「日本三景」の由来は、林春斎の『日本国事跡考』のなかで「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立、安藝嚴島爲三處奇觀」(松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす)という記述だと言います。この著、寛永20年(1643年)の発行です。

そうですかぁ、日本を代表する勝景はいずれでしょうかのう、という茶飲み仲間の話題に、「松島、橋立、厳島、この三つでござろう」と言ったのが日本三勝景、つまり日本三景になったと言うことですが、相当な発言力のある方だったようです。チェックすると、東京大学総長みたいな立場のかただったようです。

「京都出身。那波活所(なわかっしょ)に師事し、その後父羅山同様江戸に赴き江戸幕府に仕えた。父羅山の死去後の明暦3年(1657年)林家を継ぎ、幕政に参与した。寛文3年(1663年)、4代将軍徳川家綱に五経を講義して弘文院学士号を与えられ、訴訟関係・幕府外交の機密にあずかった。日本史に通じ、父羅山とともに『日本王代一覧』、『本朝通鑑』(『本朝編年録』)、『寛永諸家系図伝』など、幕府の初期における編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた。鵞峰が整えた林家学塾の組織は、その後の昌平坂学問所の基礎となった。

多方面な関心をいだいて博学広才ぶりを発揮した父羅山にくらべ、鵞峯は、『本朝通鑑』や『日本王代一覧』などにおいて「日本」の国柄がどのようなものであったかを追究し、幕府政治の正統性や妥当性がどうあればいいかについて、その支配イデオロギー形成の端緒を開いたとも評される」

これにだめ押ししてくださったのが、貝原益軒さん。府中から成相寺へ登ることになり、その坂の途中で、「此坂中より天橋立、切戸の文殊、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宣[うべ]也…」(紀行記『己巳紀行[きしきこう]』)。

こういう人だったようです

「1648年(慶安元年)、18歳で福岡藩に仕えたが、1650年(慶安3年)、2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。1656年(明暦2年)27歳、3代藩主・光之に許され、藩医として帰藩[1]。翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。7年間の留学の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。」つまり、1657年から7年間、1664年まで、京都へ留学し、本草学朱子学を学んだ、その間に、丹後を訪れたと見ていいのでしょう。

この景観、「其景言語ヲ絶ス」と、言葉の達人益軒先生がおっしゃるぐらいですので、そこは私たちの出番と多くの絵の腕自慢が傑作を残しています。

雪舟さんの絵図、

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広重さん

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これは国宝、日本の国宝です

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さて、これ、

mai30_25[1].jpg岡田地図

さて、橋立画をこうやって並べてみますと、おかしいことに気がつきます。画になりやすい構図は成相から宮津方向なのに、雪舟絵図だけは特異なのです。

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雪舟がこれを描いた1501(文亀元)年ころといいますと、1493年に明応の政変が起き、下克上の戦国時代の幕が開いた時期になります。写真が軍事機密とされたように、水墨画とはいえ今のドローンで空撮したような写実性に富んだ絵は、相当怪しいものであったはず。絵図に雪舟の落款、押印が無いというのも、丹後の守護一色氏の布陣の偵察ということがカモフラージュされていたのかもしれません。

ちなみに、この等身のお地蔵さん、

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雪舟図の智恩寺部分に描かれている物です。

寄進したのは大宮町三重に居城を構えた一色氏の重鎮大江越中守。代々その名を名乗ってらして、その最期の代の大江越中守は、光秀、藤孝連合軍との弓の木城決戦で討ち死にしたと言います。

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絵は正直です。

今日も天の橋立を写す人。台湾からですって。感想を尋ねたら

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「境致の佳なる 其景言語ヲ絶ス」ですって。

春斎さんと益軒さんだったのかもしれません。

 

 

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