宮津エコツアー · 宮津与謝のサクラ噺

宮津与謝のサクラ噺

桜の花の下には「死人」が埋まっているという有名な詩の一節があります。だから美しいのだと。桜はメモリアル樹、埋められている死者の人生、生きた意味を語り伝えるのだという意味でしょうか。しかし、その事情を語り伝える人もなくなっています。桜には何かある、それを忍ぶのも桜の楽しみ方でしょうか。

その1、宮津・難波野の麓神社のサクラ。

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花が白花で葉と一緒に出るタイプです、

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種類をチェックすると、赤味大島が近いようですが、どうなんでしょうか!

麓神社の神木ムクノキは、周径505cmの巨樹です。

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その2 府中の成相寺本坂道入り口のソメイヨシノ

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旧い地蔵堂のそばにある巨樹サクラです。根本には多くの板碑。

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その3 岩滝町・板列神社脇のサクラ公園の花もいいですよ。

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花に囲まれている巨大な石碑

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真名井純一翁の顕彰碑と読めます。

チェックすると郷土の製糸業の発展に尽くした方で、その功績については、

『幕末-明治時代の製糸業者。1826-1902
文政9年生まれ。生家は丹後(京都府)岩滝村で縮緬(ちりめん)をあきない,廻船問屋をかねた山家屋。製糸・養蚕の改良につとめた。明治3年阿波(あわ)徳島にまねかれて蚕糸改良を指導し,晩年は京都府技師となる。明治35年7月16日死去。77歳。本姓は小室。前名は利七,国蔵。

真名井純一[本姓小室利七]は文政12年(1829)岩滝村に生まれた。生家の小室家は山家屋と称し、代々廻漕問屋、生糸縮緬の販売を業 とした小室一族の宗家であった。先代利七の時代の山家屋は持船三十八艘で、縮緬の原料生糸を買収して機業に貸与、織上がった縮緬を京都に送り三井、下村等 に売却するを兼業としており、丹後における山家屋の機屋は数百軒にのぼり、そのために文政5年(1822)の大一揆において襲撃、打ち壊された経過をもつ 地方の豪商であった。 家を継いだ彼も縮緬の原料である生糸商いのため日本海で活躍していたが、万延元年(1860)米沢で製糸について学び、私費で製糸伝導所を開くなど丹後 地方での養蚕の奨励、良質生糸の製造に努め、明治9年(1876)、宮津の銀細工屋兼大工の中本藤右衛門の協力を得て、奥州座繰器(胴繰座繰)、上州座繰 器(角枠手引・丑首座繰)に改良を加えた新しい座繰器械を発明した。これが真名井座繰器と呼ばれるもので、多条繰糸機が実用化されるまで、広く蚕糸絹業界で活用された。この真名井座繰器は、上州座繰と あまり変わらないが、主な改良点は、①機械の運転を右手廻しにした②回転を円滑にするため歯数を増やし、歯形をインボリュート曲線とした③ケンネル撚を別 装置とした④浮繰りとしたなどで、性能が良く漸次他の器械を圧倒、使用は全国に及び我が国の製糸業発展に大きな足跡を残すことになった。
なお、真名井とは古来より丹後に縁の深い呼称で「たなばた天女」で知られる名峰磯砂山の別名でもあり、比沼麻奈為神社(峰山町久次)、豊受大神が降臨し た真名井原(現府中地区)や真名井神社(宮津市中野)など、農耕、機織り、醸造等の伝説的産業神と深く結び付いている。 さて、小室利七は若い頃私財を投じて現在の与謝の海病院南側付近を埋立て、真名井新田を完成させている。後年、それにちなんで「真名井純一」と名乗ったと伝えられているが、丹後の産業神としての由縁を知った上のことであったろう。

(京都府織物・機械金属振興センターの資料)』
~板列公園に偉人の業績 | ガチャマンおやじの忙しい日々gachaman.web-cat.netから~

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日本の近代の文明開化と富国強兵を、丹後丹波は製紙で支えたのです。京都府織物・機械金属振興センターはその先頭に立たれたリーダーだった偉業を伝えています。建立は大正九年と書いてあります、園内のサクラは見たところソメイヨシノです、その時植樹された物とおもいますから、100年を越す長寿サクラです。ただ碑文は文語漢文です、今の人が読むには無理があります。その側に説明の看板をつけて頂けるとありがたいかなと思います。

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