細川藤孝と光秀が、協力して築いた宮津城外堀の大手川。
「信長殿に、信なし」
光秀、立つ!の報は、三時間後にこの宮津の城に。
これを届けよ、使者に託した返書には、
「光秀殿、貴殿のお気持ちは当方も同じ、しかれども、ご存じのように当家には当家の事情、そこをご理解くだされ!」
さらに、光秀からは
藤孝殿、委細承知つかまつった、武神のみぞしる明日の命、武運あればまた、両家相力を合わせましょうぞ。また、武運なきときは、たまをよろしくお守り願いたい。かたくかたくかたくおねがいもうしあげる」
さらに、その返書。
『光秀殿 ご理解、かたじけない、たま殿は、当家が命をかけてお守り致す所存。安心召されよ 藤孝』
その署名には、血判が押してあったという。
藤孝は、玉を呼んだ。
「光秀殿は、野望や野心の政治ではない政治を、望んでおられた、たま、耐えよ」
玉は答えた。
「義父(ちちうえ)さま、ご配慮の深さにあらわすことばもありませぬ。麒麟はそこまで来ております、わたくしには見えます、耐えます、耐えて耐えて、麒麟を迎えに行きます」
細川家の決断の苦しさと意味を今に伝えて、玉、ガラシャ像は、宮津城をのぞみ、立っている。
、、、、、いちがぶらり、、、!
怪しい光は、想像も妖しくしてくれるものです。
雪が解けたら、あるきますよ、ガラシャさんを見舞いに味土野まで。