宮津エコツアー · Guardian Beast

Guardian Beast

丹後の国分寺あとに怪獣!!

20210920_124923

人類の守護獣《KOMAINU ―Guardian Beasts−》、、、つまり狛犬のようなものなんですって

聖武天皇が、全国に国分寺を建立した意図は、国家を揺るがした天然痘の大流行と関係があるということです。

20210920_124427

だから このまがまがしきものは、天然痘ウイルス!

20210920_130009
どういうことかというと、

「フリー百科事典『ウィキペディアが、天平の疫病大流行 の項で、詳しくまとめていました。

、、、、、、、、、、、、、、、、

天平の疫病大流行(てんぴょうのえきびょうだいりゅうこう)[1]は、天平7年(735年)から同9年(737年)にかけて奈良時代の日本で発生した天然痘の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとされている[1]。天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。737年6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。天然痘の流行は738年1月までにほぼ終息したが、日本の政治と経済、および宗教に及ぼした影響は大きかった。
背景
日本の中央政府は、8世紀初頭までに中国にならった疫病のモニタリング制度を導入しており、国内で疫病が発生した際には朝廷への報告が常に行われるよう公式令で定めていた[2]。この制度の存在により、735–737年に発生した疫病の際にも詳細な記録が残されることとなった。それらの記録は『続日本紀』他の史料に残されており、流行した疫病が天然痘[注 1]であったことを伝えている[3]。

発生
天然痘は735年(天平7年)、大宰府管内である九州北部で発生したと記録されている[4]。平安時代末期に書かれた歴史書によれば、735年の流行の感染源となったのは「野蛮人の船」から疫病を移された1人の漁師とされている[3][注 2]。一方で、発生地から見て遣新羅使もしくは遣唐使が感染源である可能性が高いとする見方もある[1]。735年8月までに九州北部では天然痘が大流行しており、事態を受けた大宰府は8月23日、管内(九州)の住民に対する当年度の税の一部(調)を免除するよう朝廷に要請し、許可された[5]。翌736年(天平8年)になっても九州での流行は続き、農民の多くが天然痘により死亡、もしくは農地の放棄に追いやられ、収穫量が激減したことで飢饉が引き起こされた[6][7]。

736年2月、聖武天皇は新たに遣新羅使を任命し、4月には阿倍継麻呂を団長とする使節団が平城京を出発した[6]。使節団は九州北部を経由して新羅に向かったが[1]、一行はその道中で天然痘に感染し、随員の雪宅満は新羅に到達する前に壱岐で病死した[8][5]。その後、大使の阿倍継麻呂も新羅からの帰国途中に対馬で病死し[9][8]、残された一行が平城京に帰還すると本州にウイルスが持ち込まれ、737年(天平9年)には天然痘が全国的に大流行することとなった[5]。737年6月には平城京で官人の大多数が罹患したため、朝廷が政務の停止に追い込まれる事態となった[1]。737年7月には、大和国、伊豆国、若狭国、伊賀国、駿河国、長門国の諸地域が相次いで天然痘の大流行を報告した[10]。737年8月には、流行の拡大を受けて税免除の対象が九州だけではなく日本全国の地域に広げられた[10]。737年の流行は庶民だけではなく全ての階級の日本人を襲い、死亡した多くの貴族には藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂という当時の国政を担っていた藤原氏の四兄弟も含まれていた[1]。天然痘の流行は738年(天平10年)の1月までにほぼ終息した[1]。

日本史の研究者ウィリアム・ウェイン・ファリス (William Wayne Farris) が、『正倉院文書』に残されている当時の正税帳を利用して算出した推計によれば、735–737年の天然痘による日本の死亡者数は当時の総人口の25–35パーセントに達しており、一部地域ではそれをはるかに上回る死亡率であったという[11]。ファリスの推計に従えば、この時期の日本では100万–150万人が天然痘によって死亡していたことになる[1]。

20210920_162151

対策
なお、『類聚符宣抄』という太政官符・宣旨などを集めた書物の中に、天平9年(737年)6月26日付の太政官符が1通収録されている。

太政官符東海東山北陸山陰山陽南海等道諸国司 疫病治療法および禁ずべき食物等のこと、七カ条

今回の疫病は赤斑瘡という。発熱時の症状は瘧(おこり、悪寒・高熱をともなう病気一般)に似ていて、発熱後3、4日、あるいは5、6日で発疹し、瘡(そう、吹き出物)の出る期間も3、4日続く。患者の全身は焼けるように熱く、しきりに冷水を飲みたがるが、決して飲ませてはならない。瘡が出終わると熱も引くが、下痢が併発する。治療しないと出血する。出血は発病当初からの場合もある。併発する症状は4種ある。咳・嘔吐・吐血・鼻血である。これら合併症よりもむしろ下痢に注意すべきであり、以下のような治療を加えねばならぬ。
布・綿で腹・腰を巻き、必ず温かくしておく。冷やしてはいけない。
百姓たちはどうせろくな寝具もないだろうが、患者を地面に寝かせておいてはならない・床に敷物を敷いて寝かせるように。
重湯や粥や粟汁は温かければ勿論、冷えても良いから与える。鮮魚・冷肉・果物・生野菜はいけない。特に生水・氷はかたく慎むように。下痢を起こしたら、韮や葱を煮て、大量に食べさせると良い。血便や乳状便が出たら、糯(もちごめ)の粉と米粉を混ぜて煮、一日に2、3度飲ませる。下痢が止まらなければ、5、6度に増やす。もちごめや粳(うるち)の乾燥米で、粥を作ってもいいが、その場合も必ず細かく砕いてから粥にするように。
およそこの病気は食事を嫌がるものだが、無理しても食事させなくてはならない。また海松(みる)を炙ったものや、岩塩ではなく粉にした塩をたびたび口に含ませると、口や舌が荒れても、結果が良いようである。
回復後も20日間は鮮魚・冷肉・果物・生野菜を摂取してはいけないし、生水・水浴・房事のたぐいや、風雨の中を歩いたりすることも慎むように。もしこの注意を守らないと必ず霍乱(かくらん)になって下痢を再発する。これを勢発・労発というのだが、そうなったら、愈跗(ゆふ)・扁鵲(へんじゃく)のような中国古代の名医を連れてきても手遅れである。20日過ぎれば魚も肉もいい。ただよく炙ってから食べる。乾鮑(ほしあわび)・堅魚(なまりぶし)・乾肉の類もいいだろう。しかし、鯖(さば)や鯵(あじ)はたとえ干物でも止めておくように。年魚(あゆ)もいけない。蘇(乳製品)・蜜・豉(豆腐)などはいい。
およそ疫病を治そうと思ったら、丸薬・散薬など(インチキな薬・効力のないもの)を求めて飲んだりしてはならない。もし熱が引かなければ、人参湯だけは飲んでもよい。
この四月以来、平城京・畿内はことごとく疫病に臥せっており、 死亡者が続出している。諸国の百姓も定めて被害甚大だろう。よって以上の如く、注意を箇条書きにして諸国に伝達する。
この官符本文は到着次第国衙で写し取り、本文は郡司の主帳以上1人を使人としてただちに隣国へ送付し、留滞させてはならぬ。また国司は所管の国内を巡行して百姓にこの内容を告示せよ。もし百姓のうちに重湯や粥にする米のない者がいたならば、国司は正税の倉を開いて賑給(しんごう)し、その使用量は記録して太政官に報告せよ。
なお、この官符は太政官の発行した正文であるから、官印を押しておく。官符到着次第、実行せよ。

以上のように、太政官は疫病についての心得を、国司を通じて全国の百姓(人民)に周知徹底させようとしており、この文書を全国の諸道に複写し、発送している。

余波

東大寺大仏殿。盧舎那仏像(奈良の大仏)は天平の疫病大流行の後、聖武天皇の命によって建立された。
政権を担っていた藤原四兄弟が相次いで病死した後、彼らの政敵であった橘諸兄が代わって国政を執り仕切るようになった[10]。彼の政権では、公卿は合計7人で各氏一人ずつとなった点が注目される。天然痘の終息から数年後には、農業生産性を高めるため、農民に土地の私有を認める「墾田永年私財法」が施行されたが、これは疫病によるダメージからの回復を目指す社会復興策としての一面が強かった[1][12]。

当時、災害や疫病などの異変は為政者の資質によって引き起こされると見なす風潮があり、天然痘の流行に個人的な責任を感じた聖武天皇は仏教への帰依を深め、東大寺および盧舎那仏像(奈良の大仏)の建造を命じたほか、日本各地に国分寺を建立させた[13][14]。盧舎那仏像を鋳造する費用だけでも、国の財政を破綻させかねないほど巨額であったと言われている[15]。

天平の疫病大流行の後、日本では数世紀にわたって天然痘のエピデミックが繰り返されることとなった。しかし、10世紀を迎える頃には日本人にとって天然痘の流行はエンデミックと化しており、735–737年のような壊滅的な被害が出ることはなくなった[16]

<<<<<<<<<<<<<<

さて現代日本の状況、非常事態宣言体制を延長せず、解除という方向といっています。が、発症者数、ワクチン接種数、医療体制など大丈夫という判断には容易に与し得ないところです。一に専門家、二に専門家、三に専門家 医学医療の見地からの提言を最優先してほしところです。

ちなみにこの制作者

ヤノベケンジYANOBE Kenjiさん。
1965年大阪生まれ。90年初頭より、「サヴァイヴァル」をテーマに実機能のある大型機械彫刻を制作。97年チェルノブイリを訪れる《アトムスーツ・プロジェクト》を敢行。2011年震災後、希望の彫刻《サン・チャイルド》を制作し国内外で巡回。20年3月末、疫病から人々を守る願いを込め設置等、アートの枠組みを超えた幅広い創作活動を続けている。

Lucky Dragon / ラッキードラゴン (2009)
In 2004, Yanobe made Cinema in the Woods a small sized theater which would serve as a shelter for children. For the theater, he reedited the animation films which where intended to give warning to children against the crisis of nuclear war. The film were originally made and broadcasted in the United States during the time of Cold War. From the experience of showing Cinema in the Woods at Daigo Fukuryu Maru Exhibition Hall, he got a concept that Torayan would revive Daigo Fukuryu Maru.
Lucky Dragon was intended to tell the revival of Daigo Fukuryu Maru by Torayan and also to show the revival of waterways that once served for active industries and commerce of Osaka.
ヤノベは2004 年に、冷戦時代にアメリカで放送されていた核戦争に対する啓蒙フィルムを再編集して、子どもだけが鑑賞できるスモースサイズのシェルター型映画館《森の映画館》を制作し、都立第五竜丸展示館でも展示している。その際、《トらやん》が「第五福竜丸」を再生させる空想を抱くようになる。
《ラッキードラゴン》は、「第五福竜丸」を《トらやん》が再生させることをイメージすると同時に、かつて隆盛を極めた水の都、大阪の細長い水路の復活・再生の象徴として制作された。

20210920_125348

Lucky Dragon
Lucky Dragon was made as a head with slender neck. The making process was as follows; firstly, made a base with styrene foam and coat it with FRP (Fiber Reinforced Plastic) and fasten the alminum scales with rivets onto the base. The dragon’s head and neck are light and strong and it was attached to a boat and moved upward and downward. It emitted fire and water with a gas burner and a pump from the mouth. It was made within a month and it proved that the division of labor worked perfectly at ULTRA FACTORY.
リアルな龍(ドラゴン)をイメージした躯体は細長い首を持ち上下に動かすことが可能になっている。成形した発砲スチロールをFRP(繊維強化プラスチック)で塗り固め、鱗状にしたアルミニウムをリベットで締結する。その結果、首を動かす軽量さと丈夫さを兼ね備えている。さらに、口から火炎や水を噴かせるために、ガスバーナーや噴水ポンプを取り付けた。制作期間はわずか1カ月足らずであり、ウルトラファクトリーによる分業体制が確立されていることを物語っている。

Lucky Dragon Lucky Dragon
For the exhibition Munasawagi no Natsuyasumi (The Presage in Summer Vacation) held Fukushima Prefectural Museum of Art (2010), he created an installation work with his previous works such as Lucky Dragon and Torayan. In the collection, the museum has serial works Lucky Dragon by Ben Shahn, the drawings of Daigo Fukuryu Maru (also known as Lucky Dragon 5), a Japanese tuna fishing boat, which was exposed to and contaminated by nuclear fallout from the United States’ thermonuclear device test on Bikini Atoll in 1954. Yanobe included Lucky Dragon Concept Maquette for the installation.
In April of 2011, Lucky Dragon Concept Maquette was installed in the permanent collection room of Fukushima Prefectural Museum of Art, which reopened after the Great East Japan Earthquake. Torayan’s Ark Project was launched with the suggestions from the staffs of museum. The project was aimed to collect dolls and stuffed toys from all over Japan and put them on Lucky Dragon Concept Maquette, which was compared to Noah’s Ark. In August of 2011, the interior space of museum was opened as children’s playground and series of workshops and events Aso-VIVA! (Play-Ground!)were taken place. Because of nuclear fallout contamination, children had been encouraged to play inside of buildings and the museum offered its space for children.
2010 年、福島県立美術館で開催された「胸騒ぎの夏休み」展に、ヤノベケンジは《ラッキードラゴン》と《トらやん》のインスタレーションなどを展示した。福島県立美術館には、ビキニ沖環礁での米軍の水爆実験で被爆した遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」をモチーフにしたベン・シャーンの《ラッキー・ドラゴン》の連作のコレクションがある。そのため同じく「第五福竜丸」をモチーフにしたヤノベの作品の展示構成にベン・シャーンの作品を組み込んだ展示が行われた。その中には、《ラッキードラゴン構想模型》も含まれていた。
《ラッキードラゴン構想模型》は2011年4月、東日本大震災後に再オープンした福島県立美術館の常設展の展示室で特別展示される。そして同館スタッフの提案により、全国から人形やぬいぐるみを募り、箱舟と見立てた《ラッキードラゴン構想模型》に乗せる「トらやんの方舟計画」が始まった。その後、2011 年8月には、美術館独自の試みとして、放射線量の少ない美術館内を子どもたちの遊び場として開放するワークショップやイベント「遊VIVA!」が行われた。その一環として「トらやんの空飛ぶ箱舟大作戦」が企画された。

Lucky Dragon Lucky Dragon
In 2012, Torayan’s Great Flying Ark Project was installed at Art Tower Mito for the exhibition Artists and the Disaster –Documentation in Progress–. At Daigo Fukuryu Maru Exhibition Hall, he had an exhibition from Daigo Fukuryu Maru to Lucky Dragon and he exhibited Sun Child outside of the hall and installed Torayan on Daigo Fukuryu Maru. For Setouchi Triennale 2013, Yanobe installed Jumbo Torayan on the deck of ferryboat connecting Kobe and Shodoshima Island. Jumbo Torayan had a twig of olive in his hand as a dove in Noah’s Ark appeared with a leaf of olive. Shodoshima Island is famous for its olive and Yanobe staged the ferry as Noah’s Ark and likened Shodoshima Island to the island of hope (in Old Testament, a mountain peak which the Ark arrived after the big flood.)
Yanobe’s Ark increases and grows, transcending the boundary between fantasy and reality.
その後、《トらやんの空飛ぶ箱舟大作戦》は2012 年、インスタレーション作品として、水戸芸術館で開催された「3.11とアーティスト:進行形の記録」展においても展示される。また、ヤノベは2012年、第五福竜丸展示館で開催された「第五福竜丸からラッキードラゴンへ」展において、屋外展示された《サン・チャイルド》と同時に、実際の「第五福竜丸」に《トらやん》などを乗せるインスタレーションを行った。さらに「瀬戸内国際芸術祭2013」に合わせて、神戸と小豆島を結ぶ連絡船ジャンボフェリーの甲板にオリーブの葉を持った《ジャンボ・トらやん》(2013)を展示した。それはオリーブの木で有名な小豆島をノアの箱舟が到達した希望の島(旧約聖書では洪水後に到達した山の頂上)へと読み替える試みである。
ヤノベの「箱舟」は空想と現実を超えて増殖、拡大を続けている。

また、この展示期間は、9.24[FRI]-11.7[SUN]
会期中全日展示/作品ライトアップ:18:00〜21:00

「11.5[FRI]〜7[SUN]は、18:00から不定期で龍の口から火を噴き出し、七重塔と天橋立のオマージュとして「炎の塔」「炎の橋」をつくるパフォーマンスを試みます。また、同じく2009年に制作された《黒い太陽》を「金堂」に見立て、設置し、伽藍を形成します。」とのこと。

楽しみながら、with コロナ への危機感、対策、感謝などを共有できればいいですね。

このページのトップへ