- 山陰近畿自動車道(SAN-IN KINKI EXPRESSWAY)大宮峰山道路の橋脚工事。
京丹後市大宮町森本(京丹後大宮IC)から峰山町新町(大宮峰山IC)まで、延長 : 5.0 kmの工事です。
ここに橋桁が架かります。
森本(京丹後大宮IC)前の交差点。
この車もその橋を走ることになるのです。
この橋の渡る谷は、山田断層と平行する断層によって生まれたもので、三重谷と言います。
三重、、
小野小町さんが『九重の 花の都に住みはせで はかなや我は 三重にかくるる』と詠んだ三重の里はこの谷一体を指す、という伝説がある谷です。
『大宮町誌』※丹後の伝説:57集-小野小町伝説-から。
小野小町の塚は五十河の入口東側の小字「はさこ」にあり、一畝程の埋立地の中に二基の石碑を奉祀している。高さ九二㎝、幅六○㎝の小型の一基は上田甚兵衛造立のものと伝えるが、現在磨滅していて僅かに上田甚兵街と判読できるに過ぎない 大型の碑は表に「小野妙性大姉」と彫刻してあり、高さ一m五○㎝、幅五○㎝の自然石である。この石は曹洞宗妙性寺の門の側にある万霊塔の石と同一の石を折半して造られたと言い、事実この碑には折半して割られた跡がある。万霊塔に「正徳三年建之」の日付があるから従ってこの小町碑も正徳三年(一七一三)の造立であろう。なお、田を埋め立てて一畝程を整地したのは昭和五五年夏で、その前は木の少しある一坪余りの草地に五輪の台石と高さ六○㎝余の自然石の「上田甚兵衛」と刻む碑と「小野妙性大姉」の石碑の二基が祀られていた。(五十河沿革誌)
さて、小野小町の手蹟については先人の説の如く極めてさだかでなく、終焉の地についても諸説紛々として確かな事はわからない。嵯峨天皇の弘仁六年(八一五)出羽の郡領小野良実の女として出生、七歌仙の中唯一の女流歌人として名高いこと及び代表的美人であったという伝説くらいしか知られていない。
「徒然草」に疑っているように「玉造小町壮衰書」という小町の晩年の事を書いた漢文の書物は作者不詳の偽作ではないかといわれている。謡曲には小町を題材にしたものが五番ある。その中「草予洗小町」は古今集序を主材として盛時の小町を猫き、「通小町」は古今集の顕照の注から深草の小将の百夜通いの伝説が作られており、その他「卒都婆小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」は老衰落魄の小町を取扱ったもので、いずれも「玉造小町壮衰書序」から出たものと言われる。しかし、「玉造小町壮衰書」は徒然草にある如く弘法大師の作とは信じ難く、一般に偽書とされていて信用し難いのである。
次に五十河に伝承する小町伝説についての先人の諸説をあげる。
(村誌)小野小町塚 本村南方字ハザコにあり。東西一間、南北一間、坪数一坪、其中に高さ五尺、幅一尺五寸位の石 塔あり。表面小野妙性大姉の法名あり。建設年干支等無之只管小町塚と伝聞するのみ。 (丹哥府志)小野山妙性寺 曹洞宗
寺記に云ふ。小野山妙性寺は小野小町の開基なり。往昔三重の里は小野一族の所領なりといふ。小野老たる後此地に来りて卒す。法名を妙性といふo其辞世とて
九重の都の土とならずして はかなや吾は三重にかくれて
愚案ずるに小野小町は其生出本来詳ならず。或曰小野良実の女なり。仁明帝承和の頃の人年老いたるに及て落魄して相坂山に死すといふ。又小野当澄の女たりとも伝ふ。或人の説に冷泉家の書ものには小町は井手の里に死す。時に年六十九歳とありし由。徒然草には小町はきはめてさだかならずといふ。其衰たるさまは玉造といふ文にありと袋草紙に見えたれども比説には論ありともいふ。かようなる事を考ふれどもいまだ丹後に来ることを聞かず。されども養老三年始めて按祭便を置し時、丹後国司小野朝臣馬養、丹後但馬因幡の三国を管す。其養老年中より小町の頃までは僅に百年ばかりなり。これによってこれを見れば小野一族の所領なりといふもいまだ拠るなきにしもあらず。其終焉地明ならざるは蓋鄙僻の地に匿るならん。今其塚といふ処を見るに古代の墳墓と見えたり。恐らくは其終焉の地ならんともゆ。後の人これを増補して少将の宮を拵へ又丹流と僧妙性の二字に文字を足して追号を拾ふ。これよりいよいよいぶかしくなリぬ。
その他「宮津府志」「同拾遺」等は省略する。
現在五十河に伝わる小町の文書は妙性寺にある「寺記」と同村田崎十一所蔵の「小野小町姫」とである。妙性寺のは一軸の巻物であり、「小野小町姫」は本文一二枚の小冊子であるが、内容は全く同一である。小町伝説を田崎朴淳翁(田崎家祖先)が物語ったのを僧了然が書き留め更にこれを妙性寺第三世雲騰眠竜大和尚が書き綴ったのが妙性寺の一巻である。(眠竜和尚は天保八年示寂)
その他小町の遺跡として新宮から丹後林道に通ずる坂道を、昔小町が通って来た道というので「小野坂」といい、上田甚兵衛の宅のあった場所を「小野路」と呼んでいる。
「中郡誌稿」に 小町は小説的性行の標本にして各種の文芸又は訓話に附会引用せられ、近畿地方の加き小野と称する地あれば某所に 大抵小町の伝説あり。現に山城宇治郡小野、愛宕郡小野皆其例なり。愛宕郡小野には小野寺と称するあり、卒都婆小野画像等小町に関する書画及び小町の墓と称する宝篋印塔存す。何れも真偽定かならず。
と述べている如く、各地に小野伝説は流布している。これについて民俗字の一説では、中世全国を語り歩いた女性群があり、それは一種の巫女(みこ)であって小野氏はそうした旅の語部の有力な一族であった。その語部の巫女たちが全国を語り歩き一人称で語るのを聞いていた人々は、小町が来たように語り伝えた事によって谷地に種々の伝説が生まれたとしている。
ともあれ、伝説はその所の人々にとってば心の糧であり誇りでもある。父化豊かな郷土の懐しい物語として長く語り伝えられるべきものである。
ので、この橋の名、まだ決まってないなら、「三重谷小町橋」、ですね!
「鳥取までとは言わん、目の黒いうちに「むねやま」まではつなげてほしいなあ」
むねやま、とおっしゃいました!生粋の丹後人は、峰山のことをむねやまと呼ぶのです。
道を作るのは一世代ものなんですね。
(↑ 森本側から見る三重)
そもそも、みえ、三重という地名はどういうことにゆらいするのか、
三重地名に潜むか、意外な重金属公害の先例。※丹後の地名 三重 から引用
「どちらにお住まいですか」と問うと、「三重ですわ」とか「鳥取ですわ」などといった答えが返ってくることがあるが、丹後人でもこう聞けば、三重県の人かとか、鳥取県の人かと勘違いする人が多い。別にこうした地名はそうした県名に限らず全国に多く見られる地名で、丹後にもある地名である。どこの三重ですか、とか、どこの鳥取ですかと聞き返さないと、とんでもない間違いが起こる。
そして地名が同じということはその地の来歴もほぼ同じではなかろうかと考えられるのである。三重は水辺だというのは現代人の一部がそう考えるというハナシであって、チグリス・ユーフラテスとか四大古代都市文明とか持ち出すまでもなく、はるか古代から人が住み、まして水田耕作しているのならどの地も水辺に決まっているではないか、なぜここだけを特に三重などと呼ぶのか、本当に水辺の意味だけかどうかは何も自明なわけではない。どうしても水辺だと言うなら、この水は飲料あるいは農業用ではないかも知れない、鉱業の精錬に使われていたほかには見ない水のあたりという意味かも知れない。
古い記録としては『古事記』倭武命の記事。
「其地より幸でまして、三重村に到りましし時、亦詔りたまひしく、「吾が足は三重の勾の如くして甚疲れたり。」とのりたまひき。故、其地を説けて三重と謂ふ。」
ここは難解らしくて、自分の足は、ねじり曲がって、三つ重ねにした餅のようになっている」とか「道が三曲りしたように」いったことから、その村を三重と呼ぶようになったという。伊勢国三重郡の地である。
また、『播磨国風土記』、賀毛郡の三重里について次のような由来が記載されている。
「賀毛郡三重の里。土は中の中。三重と云ふ所以は、昔、一女在りき。タカムナを抜きて、布以て裹み食らふに、三重に居てえ起立たざりき。故れ、三重と曰ふ。」この地のタケノコを食べて体が三重に曲がり立ち上がれなかったという。ここは東隣の滝野町には穂積がある。但馬にも若狭にも三重はあるが、古い記録はない。
伊勢と播磨は離れていて、どちらかが真似したとも思えないし、地名説話の思いつきが、普通なら思い付きもしないものであるし、しかも両者がかくも偶然に一致し過ぎたということもないように思われる、何か実際のそうした過去が語り継がれていたのではとも思われるのだが、もしこうしたことが起こるとすれば、それは何かその地に公害、重金属があるということではなかろうか。日本では、公害が避けられるようになり幸いにも体が三重に曲がった悲惨な人は見なくなったが、頭や心が三重に九重に曲がったのはゴロゴロいる、まともでシャンとした人を探すのに苦労するくらいであるが、自分でも周囲も気がついてないようだが、気の毒に日本の悪しき社会制度公害の深刻な犠牲者たちかも…
若草山に木が生えないのは大仏造立で使った水銀だ、平城京が棄てられたのはこのためだとか、近くは水俣病、これも水銀である、最も近くは「想定外でした」のレベル7放射能汚染、そんなわずか千年単位の自然の動きも想定できなかった超低脳どもに10万年間の放射性廃棄物の安全な管理ができるのか、100パーセント以上に決してありえない話であることは子供でもわかる、この国は狂っていると誰もが感じたことであろう。
丹後三重には何か鉱山があって重金属公害があった地であったかも知れない、ウラン鉱石の地でもあり、あるいは放射能汚染だったかも知れない、下流の丹後王国はそれによって滅びた、といった超意外な歴史が隠されていたかも…。
歴史は繰り返して、超愚かにも想定外でしたと、原発を大爆発させて、人類は地球を棄てなければならなくなるのかも、あるいはそんな歴史の先例となるのかも知れない三重である。
なお『丹後半島の旅』(澤潔著)は、少し北になる明田について、
〈明田南方に入(にゅう)谷がある。「ニフ」・「ニウ」には、入り込んだ谷の外に赤土の意がある。また「ニュウ」は丹生で水銀の意であり、徳川時代五十河を含めたこのあたり一円の土地が久美浜天領であり、年貢の三割を米の代りに銀納していたことからも、入谷が水銀産地であった可能性もある。〉
明田には確かに入谷の小字がある、付け足せば明田は赤田であった可能性もある、水銀朱の赤い処の意味かも知れない。水銀汚染で体が三重に曲がった地であったかも知れないような話になってきて、古い伝説もまんざら荒唐無稽と切り捨ててしまうこともできないのである。
ちなみに、
- 網野 – 峰山
- 京都府京丹後市網野町公庄(網野IC)から同市峰山町新町(大宮峰山IC)を結ぶ約7.6 kmの区間は事業化されていない。
- 2005年(平成17年)に調査区間として指定されており、隣接する大宮峰山道路と共に計画段階評価が実施された
さらに
- 豊岡北IC/JCT – 府県境
- 兵庫県豊岡市新堂(豊岡北IC/JCT)と府県境を結ぶ約11 kmの区間は事業化されていない。
- 2016年度(平成28年度)より佐津~府県境間で計画段階評価が実施され、2018年3月に対応方針(案)が策定された。「兵庫県 社会基盤整備プログラム」によれば、兵庫県から国へ直轄権限代行での整備を求め、豊岡北~城崎温泉の区間は2019~23年度の事業着手を要望するとされている
- 豊岡北IC/JCTで北近畿豊岡自動車道と接続する。