2012/09/21
知られざる物語 京都1200年の旅・「京の人々が憧れた 日本三景・天橋立」放映のあとさっそく資料館へ。「中国大陸に渡って大自然を写生し、宋元画を学び、禅画一致を求めて一生描きつづけた」雪舟さん86歳の生涯のなかで、80歳を越えてからの作という橋立図に対面させてもらいました。
(許可を得て撮影しています。)
来館者の方はちらほら、「ライフワーク」を独占して、まじまじとしげしげとじっくりと見せていただくことが出来ました。、
さて、その謎とされる構図、どこから見たらこう見えるのか、繰り返しナレーターはおっしゃっていました。「絵画史上最大の謎」と。しかし、「写真家」の勘でいえば、謎でも何でもないとおもいます。
その当時デジカメがあって、雪舟さんが持っていたとしたら、と想定したらいいんです。おそらく大江山のふこう峠、もしくは毛原方面から宮津へ入られたことでしょうから、峠を越えて天の橋立が見えるところから、心を高ぶらせながらの撮影がはじまったのではないでしょうか。
写真家がシャッターを押すがごとくに、絵筆を走らされたはずです、
あっちから見たらどう見えるだろうか、いくつもポイントを変え、遠景、近景、など写真家がバシャバシャ切り取った中からこの一枚を選ぶように、たくさんのスケッチをいかして、作画の意図の元に組み立てられたのではないかと私は考えます。つまり、どこから見て描かれたのか、その詮索はナンセンス!ということ。
また、成相寺は「丗野山成相寺」と記されています。番組で案内されていた学芸員の方に、『この山の後ろが「せやのさと」なんですね、今は世屋とか狭谷ともかきますけど、ここに国分寺が合ってこのうしろのやま、つまり背後の山という意味で、私は「せ」は背、「や」は山だと思ってるんですが』、というと、「おもしろいですね、やましろの国も「山背」とかきますからね」と。さすがに専門家です。
ちなみに、雪舟さんを招致したのは、今をときめく元伊勢・籠神社といいます。作画の目的、作品の分析、所有者の変遷、などは、元伊勢籠神社の公式サイトに詳しいので、ご検索ください。