宮津エコツアー · 昭和19年の世屋大火、やはり語り伝えておいた方がいいでしょう。つらい思い出ですけれど、、、、、

昭和19年の世屋大火、やはり語り伝えておいた方がいいでしょう。つらい思い出ですけれど、、、、、

2013/02/06
昭和19年の世屋大火が、どのような状況だったのか、再建への歩みはどうだったのかを語れる方が少なくなりました。資料も散逸します。地震の活動期に入った日本列島、大規模災害が予想されています。世屋大火も災害史として語り伝えておいた方がいいでしょう。つらい思い出ですけれど、、、、、復興はやはり「人間」の手でやり遂げられたのです。「1975年 世屋上小中学校育友会誌」に残る聞き取りを再掲しておきます。

~  一部  状況 ~
語り手 矢野さよさん
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男の子三、四人がなんばんきびやいとっただ。それが蔵のしのがき(蔵をかこっているもの)に移って燃え広がったんだ。9月2日の午後三時ごろだった。その頃は、もうすぐ米になるゆう時分で足腰のたつもんはみんな山へ行きしずんどったんだ(ではらっていた)。そいで、子どもと年寄りしかのこっとらなんだんだ。

うちんは、おっさんは兵隊にいっておらなんだだし、家には足がリューマチでねとる母がおったんだ。軍部には、兵隊が40人ほど兵隊がおって、上世屋が焼ける煙があがっとるゆうもんで、じゃあみだったかショウブ谷のほうへいっとったで、とんでかえってきただけど、学校の上の道まできたら、村の真ん中はもうやけてしもて、喜代志さんげや進さんげが燃える最中で、村の端々の家しかみえなんだ。もうどうにもこうにも足がすくんでたっとれなんだでえ。
家財道具とて、母親は自分が出るのに精一杯だししたもんだでなあんにも、おっさんの大工道具もなにも、どだけのもんもだせなんだ。家が火元の近くだったさきゃあに、火の回りがはよて牛が二匹とも焼けてしもうた。火を見て怖がってうごかなんだんだ。そんなことで、もんぺとじゅばん姿、着の身着のままで焼け出されたんだ。

(↑ 2/5 京丹後市の火災焼け跡)

残ったんは勝巳さんげと学校だけだったで、村中の門が学校に寝泊まりして、川で炊きだししてなああ。
それからは、ジンネゴ(竹の実)をとってきて、粉にしたのを食べたり、むしこ、※リョウブをとってきたり、飯米は供出できびし取り立てられて少なかったで、おかゆにしたんだけど、そりゃあおかゆなんてもんだなかった。フキやいものほうが見舞いに親戚のもんがみんなづれきてくれて、山の木を切って、土間にむしろを敷いて、山小屋のようなものを建てて、それで上世屋の冬を越したあで。ねとるうえに雪がばあばあふってくることもあっただし。
結婚してから、シナ事変と大東亜戦争、おまけにやけだされたんとでこどもをつれて難儀な暮らしだった。所帯盛りがそういうことでむちゃくちゃだった。

※ リョウブ(令布)

 

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