2013/02/06
語ってくださった吉岡初衛さんは、昭和29年の町村合併時の村長を務められたかた。当時区長。9月2日には区長所にて用務をされていました。
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焼けたとき、私は区長をしとりました。9月の2日、とうじは弁当もちで堆肥をこしらえるために柴刈りにいっとりました。日の内だて煙がようみえなんで、なんだ激しく煙があがっとるなゆうことにやっと気がついてとんでかえってきなっただけど、焼けとる最中だったり遠くの山へいっとったもんはかえって初めて知ったという状態でした。
私は当時、今の農協出張所前の堰堤工事の主任をやっとりましたで、上世屋に残っておったんです。その時、五、六人の人たちが人夫で出とっとくれました。火災の時は、その人たちが、牛をださなあかんゆうて、あっちもこっちもだしてくれた、
(↑ 1985年ころ 撮影 川北亮司さん)
それでも及ばず三、四頭は焼けてしまいました。
私は、書類を全部持ち出しました。区長所には、だからいま全部残っております。その代わり、うちのものは全部丸焼けでした。
(↑ 2013,2 京丹後市の火災現場)
それからは、蔵のあった一部の人は蔵へ、そのほかの者は学校に三日間泊まったんです。皆、たれもかれもほおっとして、(びっくりしてあほうになる)、焼け跡の片付けもなにもせず暮らしておったのです。
私は、こんなことをしておっても刈り取りはせんならん、冬も来る、掘っ立て小屋なりとも建てようと申したンですが、区長はそういいなるが、鉈もがんども何一つないんだ、どうして木を切るかと途方にくれておったんです。そういい暮らしている内に、親戚のもんが見舞いに来てくれるして道具も集まり、建てられる状態にはなったんです。
ところが、戦時のことで、法律は自分のものでも木を切ってはならんということであったんです。しかし、刈り取りもせんならんし、冬も来るなことはゆうとれんいうことで、10日ほど後に、京都の府庁にいって許可を求めたんです。そこで、地元の木を千石切って小屋を建ててもよい、という許可をもらってきたんです。
こうゆう訳で、遠慮なしに木を切って掘っ立て小屋を建て冬越しができるようになったんです。
その後、本建築に移るにしても相当かかるし、そんな金はなかつたんだ。正直ゆうたら、その当時は闇米がはやった。供出が厳しかったで、保有米ゆうたらわずかしかのこらんのだが、を始末して闇米にしたり、それもできん人は、公然とはなかったのだが、村の方で、村長が、供出にださんならんやつを、建築したらなえすゆうて、供出の米を借りられるよう世話してくれたりしたんで、それを闇米を買いにきた人に売って、それで金をつくったんだ。
上世屋の家は、ジンネゴで建てた、ともいえるし、※始めのうちは一俵の闇米で建った。
(↑ 1985年ころ 撮影川北亮司さん)
しかし、戦時戦後で大工も木挽きも不足していて、なかなかたてられん状態でした。全部たちおわったのは、10年もかかったでしょうなあ。焼けてから、上世屋のもんは、精神的にも仕事の面でも、ほんまに努力したもんだで、、、。
※「始めのうちは一俵の闇米で建った」について
この古民家を解体調査した研究者によると栗、アカマツ、ケヤキ、コナラ、ブナ、竹、笹などで用材は全部近辺の山から調達したもの、民家は「里山そのもの」だと報告されている。手間替えの習慣があり、「一俵の闇米」で建てることは充分可能だったと思われます。