2013年2月8日
「世屋高原にはかってスキー場があり、絶景のもと多くの若者たちが楽しんだ」と橋立部会の0さん。そうそう、光野新太郎さん(おためさんのご主人)。こんな話しをされていました。
・・・・・・・・・・
「昔は焼いた炭を日置まで負うていっただで。主婦やおばあらあが賃かせぎにしたわなあ、一貫に駄賃17,8銭ぐらいだったけど、えらかったでえ。
昔『飛行少年』いう雑誌があっただが、わしはこれを買うんに炭の駄賃持ちをしたんだ。わしは、この本で外国にはスキーゆうもんがあるのを知ったんだ。二十歳の歳だったなあ、もう五十年も前の旧正月のことじゃった。武つさんげで、節呼びゆうて、今の新年会でよばれるとったときだった。いま、小川ラジオ店のおばあさんが便所にたったんだ。その時、門口から外をみたら、※今の好美さんげ(※現在の合力の家)の上の方をなにやらとんどる、飛ぶもんがある、それでびっくりして『天狗がきたっちゃあおまえたちー』というて叫ぶもんだて、みんな飛び出していったんだ。
(↑ 野間秋祭)
わしも出ていったんだが、それはスキーだいうことが、雑誌みとったで、わかったんだ。みんな、なんだえーいうて雪ん中をわら靴はいて、どんぶらどんぶらいっただ。そうしたところが、寒いで赤ゃあ頬をした人がスキーにのっとんなった。それで、てっきり天狗がきたとおもったんだろうで。それに、今まで雪の上歩くいうたら、かんじきで、もっそりもっそり歩くぐりゃあしかしれへんだもんだで、よけいだわなあ。この、スキーにのっとんなった人は、丸山先生ゆうて、それから二十年ほどして校長を退職してから、駒倉へ代用教員みたいな形で来なった。で、丸山先生はこれがスキーいうて、今、はやっとるもんだ。野間の青年会へ講習にいった帰りに、山を越えてきたんだ、、と言うて、すーっと滑ってみせなったで、みんなあっけにとられてみとっただが、みごとなもんだったでえ。この時、※おフサおばあさんもいっしょだったで、おぼえとろうで。
丸山先生いうのは、京都府スキー連盟の会長もしなった人らしいが、そのときは、※もっと偉い人をつれてくるいうていんなって、またその人をつれてきなっただ。その人が、府立第二中(現府立鳥羽高校の敷地にあった)の校長をしとんなった中山再次郎ゆう人で、二人で、スキーの講習をしとくれた。中山先生は、上世屋の雪は、北海道と違わん、ひゃあひゃあ雪(※灰がたつように軽い雪)だゆうて宣伝しなって、大阪や京都のほうからようけお客さんを連れてきなった。それで、お寺の上の三本松、岩のえにスキー場を作っておっ坂に降りるようにしただが、どんによかっただゃあ。
わしは、中山先生の一の子分だった。それから、スキーにこってなあ、それまで冬だゆうたら、藁仕事ばっかりだったで、おもしろかったんだ。一冬、屋根の雪をほつといてよわったとがあった。
しかし、炭負いもせんならんだし、それにいまもそうだけど、リュックに帽子、スキーいやあ金がかかって困った。幸いスキーは村が補助してくれただけど。それからも、中山先生からは、電報がたびたび来て、誰々が行くから案内せえいうてきなったし、スキーのコースも、世屋村青年団の協力を得て、成相から千代原(せんだいはら)、ごにゅうどう、官地、中郡境、奥地、駒倉の尾根、駒倉道をとおって上世屋に至る道を伐採して作ったもんだ。(1975 世屋上小中 育友会誌)
・・・・・・・・・・・・・・
新太郎さんがいう、「偉い人」、講習をうけた「偉い人」という中山再次郎という方はは、甲子園大会第一回大会優勝の京都二中めんばーで、日本にスキーを伝えたオーストリアのレルヒ少佐から直接講習をうけた方です。世屋の地滑り地形の緩斜面は、スキーには最適です。教育者としてスキー普及に努められる中、世屋高原を発見されたのでしょう。
それにしても、新太郎さんの、「一冬、屋根の雪をほつといてよわったとがあった」というのめり込みよう」おためさんが「新太郎さんに惚れたのは、
そういうとこだったかもしれません。
ちがうかな(^.^)
(↑※ 今の好美さんげ(※現在の合力の家)の上の方をなにやらとんどる、という斜面)
※「もっと偉い人」中山再次郎氏について検索してみました。
「その伊吹山スキーの生みの親が元京都府立第二中学校長の中山再次郎氏であるといわれています。明治44年(1911)、オーストリアのレルヒ少佐が来日、新潟県の高田でスキー技術の講習会を行い、それに中山氏も参加しています。(中山氏は若い頃、旧制高田中学校の教頭先生をされていました。)
レリヒ少佐直伝の中山氏は関西でのスキー場を物色し、遂に伊吹山を最適地と選び、大正3年ごろから毎年京都二中の生徒を引率し、スキーに来られました。その後、地元の若者も次第にスキーに親しむようになり、現在の伊吹山スキー場へと発展していったといわれています。私の母(若い頃、アルペンスキーで全国大会に出場)の身内にも、昔レルヒ少佐からスキーを習った人がいたという話を子ども心に聞いていました。何か因縁のようなものを感じました。昭和39年(1964)、伊吹山三合目に京都市長の意を受け、中山校長の胸像が立てられました。 hiromiti1011.sakura.ne.jp/sub1-94.html –
と言う方です。また、
中山再次郎(慶応3〜昭和38年【1867〜1963】)
京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)の校長です。中山は、明治26年に東京帝国大
学文学部国史科を卒業後、明治33年に京都府立第二中学校長となっています。中山は、関西のスキー
普及に努めた先駆者であり、大正4年には第一回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校
野球選手権大会)で優勝しています中山は、教え子の羽田亨(後に京都帝国大学総長
となる)の父親で当時中郡長であった羽田信明の委嘱を受け、中郡誌の編纂を始めます。編纂に伴っ
て明治36年8月3日〜18日まで郡誌編纂資料採訪に丹後地域を訪れます。その経緯は、大正3年に
刊行された『丹後国中郡誌稿』巻末に所収されている「郡誌編纂材料採訪日誌」に詳しく記されています。
この中で中山は、8月16日に「久美浜に至り稲葉氏方にて丹後一覧集一部、他書一部、並に地図一
折を得又織田幾次郎氏方の古墳物陳列館を覧る我善王寺其他の古墳発掘品整然として陳列しあり又
丹後大地図一枚あり」と記載しており、稲葉家と織田考古館を訪れています。稲葉家には、中山が携え
ていた京都府庁本『丹哥府志』を借り受けて稲葉宅蔵が写した写本(実際に写したのは、婿養子の稲葉岸之助)が残されています。
平成20年度丹後古代の里資料館コーナー展示1
「郷土史の黎明~明治時代の丹後地域~」2008年4月16日(水)~7月6日(日)資料
※ おふさおぱあさん
丹後民話の語り部‥数多くの話しが岡節三氏、細見正三郎氏らにより、採話され、日本の昔話 丹後の昔話 、日本放送協会発行の中に納められている