この方には心当たりがありました。「雅一朗」さん。
お母さんは藤織りおばあさんの一人、小川つやさん。
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雅一朗は、大東亜戦争のころ、海軍に行きたいゆうておったんだけど、あかなんで、今度は陸軍うけるゆうて、みんごと受かって、伏見に入隊したんです。19の歳だったろうで、あんな時分は高等科しかあれへんで、衆に3遍ども青年学校にでましたが、そこで訓練しましただ。あの子は、子どものころからがしゃあこと兵隊が好きだって、青年学校の時も、成績がええゆうて大将さんにほめられたいうておりましてなあ、一生兵隊で終わらしてもらうゆうとったが、死ぬるゆうことも知らんとかになあ。
伏見に入隊してから、お父さんが、クラブ(公民館)で、供出がでけんで、やんやんもめながら寄り合いしとるところへ、渡るからすぐ来い、ゆう電報が昼の四時頃着いたんです。それで、明日の一番でいかんならんさきゃあゆうことで、何しとる間ものうて、ようかんの出来損ないみたいのんとじるすぎるような餅をつくってもっていったんです。ほだけど、もっていったっても、厳しいで、くわれんのですわ。ほだけど、渡ってから帰ってこれるかどうかわかれへんだもんに、どだけなっともくわしてやりてぃやあわなああ。どこへ行ってくおうゆうて、あっちへ行ってこっちへいつてえりゃあしんぼうしたですだで。そうこうしとるううちに、先の方で、ようけ座り込みして食やあとんなるだ。それを見つけるまで、どだけもあるいたでゃあ。
それで、あの子を東本願寺の角で見送ったですだけど、あの子らあが渡ってから、門を閉め切って出しとくれなんだですで。すぐだしたら、どっちいったゆうことが分かるで、スパイされるゆうて、3時間ども、たてらしとかれたですわなあ。フィリピンへいったんですけど、バナナやパイナップルの食い倒しでええとか、それから、進さん(小川Mさんのお父さん)におうたゆうて手紙を起こしましたがなあ、下士官訓練で、銃剣術しとったら、馬に乗ってきて見ておんなったらしいが、「おまえは」雅一朗さんじゃないか」いわれるもんで振り向いたら、進兄さんだつた。あんな外地で、ところの人に会うのはオヤにおうたようで、筆であらわせんから想像してくれゆうて書いておりましたが、それから間ののうマニラの作戦でやられてしまいました。がしゃあ激戦だったらしくて、かったにわからんようになってしまいましただ、、、、、、。(1975 世屋上小中 育友会誌)
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「渡ってから帰ってこれるかどうかわかれへんだもんに、どだけなっともくわしてやりてぃやあわなああ。」ととるものとりあえず「ようかんの出来損ないみたいのんとじるすぎるような餅」だけをつくってもっていった親心は痛切です。
満州事変以降戦争に従軍した世屋の里の青年たちはみなスキー少年たち、その数60人(小川進氏調査 「高原の碧晶」)、そのうち郷土の土を再び踏むことのできなかった14名の石碑が数行の文字で運命を語りながら里を見守っています。