月は東に昴は西に、いとし殿御はまん中に
2012,3,24
江戸三大俳人と言えば、松尾芭蕉、小林一茶、与謝蕪村。すぐにそれぞれの代表作が浮かびます。しかし、松尾芭蕉、小林一茶は人によってかなり違うのではないでしょうか。それに対して、蕪村さん(1716-1783年)の場合は、どうでしょう 。はしたてや 松は月日の こぼれ種! 期待はしても、おそらくあり得ない、10人に問えば7,8人がこの歌を浮かべるに違いありません。
「なの花や 月は東に 日は西に」
では、この雄大な光景をどこで蕪村さんはみたのか、その疑問について、実は、ヒントを丹後の民謡から得たのではないか、と推測する研究者があると言います。中学生のころから蕪村にひかれて研究を続けてきた森本哲朗氏。彼は、丹後民謡にある「月は東に昴は西に、いとし殿御はまん中に」という唄を挙げます。
蕪村さんは「むかし丹後宮津の見性寺といへるに、三とせあまりやどりけり」と『新花摘』に書いたとおり、三九歳のとき京から丹後へ移り、丹後から京へ帰って姓を与謝と改めたと言うことです。丹後在住の折りには地元の俳人と交流し、盆の踊りなどにも参加したことでしょう。そんなときに歌われる言葉の一つ一つを記憶にとどめた言葉の達人の心の中で、「殿御」のかわりに「なの花」を配する構想が浮かんだのではないかと森本さんは想像したのです。
一般的には、「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾ぶきぬ」(柿本人麻呂・万葉集)を踏まえた発想であると言われるようです。構図としてはつながるとは思います。しかし、その歌には「いとし殿御はまん中に」はないじゃないですか。この俳句の発想は、私達丹後の民謡にあるとする説に賛同したいです。地域への興味を新たにする気分にもなります。それにしても、「殿御」のかわりに「なの花」を配したとしたら、菜の花にどんな思いを託されたのでしょうか。叙景を超えたなまめかしさを感じます。
丹後半島はかっては、奥丹後半島、さらに遡れば与謝半島とも呼ばれていたそうです。その半島を覆っている雨雲、もう菜種梅雨に入ったのでしょうか。
■ ちなみに・・・・
蕪村さん、菜の花をいくつも詠みこんでいます
○菜の花や 鯨もよらず 海暮ぬ
○菜の花や 摩耶を下れば 日の暮るる
(「摩耶」とは六甲山系の摩耶山のこと)
○菜の花を 墓に手向けん 金福寺
研究者によれば、いずれもこの菜の花は在来種アブラナであろうとされます。
河川敷や堤防、空き地に大きな菜の花畑ができているところがあります。あれは、丈夫で川原や荒れた土地にも繁茂するセイヨウカラシナ。修景用に播種して育成することもあるそうです。