☆おっかさん居なくて大丈夫?
歌合、歌比べの朝のこと、これは優劣が付き力量才能が見極められる、今でいうコンテスト、オーディションみたいなもの、緊張して臨む小式部さんを冷やかす男。
▲お気遣いありがとう、でも私はわたしですわ!と小式部内侍さん、
「おほえ山※ ②いく野の道のとほければまだふみもみず天の橋立」
意地の悪い人はいつの世にも(^.^)小式部というのは、そのおっかさんの女房名が和泉式部さんで、共に宮中勤めをしていてその娘だから。そして、この歌は、おっかさんがご主人藤原保昌さんの任国・丹後に下り、離れて暮らしていた事情を背景に生まれた歌。
しかし、「ふみ」 とか「いくの」とか、「おほえ山」とか「天橋立」とかを用いて、この歌を踏まえて後に詠まれた歌(派生歌)※③の数の多さ、他に比類を見ないものでしょうそれもこのイジワルが元だったことを思えばなにが幸いするかわかりません。
◇大江山こえていく野の末とほみ道ある世にもあひにけるかな(藤原範兼[新古今])
◇ふみもみぬいく野のよそにかへる雁かすむ浪間のまつとつたへよ(藤原定家)
◇ことづてむ人の心もあやふさにふみだにも見ぬあさむつの橋(藤原定家)
◇おほえ山こかげもとほくなりにけりいく野のすゑの夕立の空(飛鳥井雅経)
◇おほえ山いく野の道の長き夜に露をつくしてやどる月かな(後鳥羽院)
◇夏草は繁りにけりな大江山こえていく野の道もなきまで(藤原忠定[新後拾遺])
◇草の原いくのの末にしらるらん秋風ぞ吹く天の橋立(順徳院)
◇ふる雪に生野の道の末まではいかがふみみん天の橋立(正親町院右京大夫[続拾遺])
◇思ふよりいとどいく野の道たえてまだふみもみずつもる雪かな(少将内侍)
◇おほえ山いく野の道もまだ見ねばただ恋ひわたる天の橋立(飛鳥井雅有)
◇大江山過ぎしいく野のなぐさめに日をわたるべき天の橋立(後柏原院)
◇かけていはば遠き道かは人の世も神代のままの天の浮橋(三条西実隆)
◇大江山とほしとみえしほどもなくいく野のすゑにかかる夕立(中院通勝)
◇たよりありて待たれし雲の上人もけふふみそむる天の橋立(細川幽斎)
◇恋ひわたる天の橋立ふみみても猶つれなしや与謝のうら松(松永貞徳)
◇浪の音に聞きつたへても思ふぞよふみ見ばいかに天の橋立(後水尾院)
◇さらにその天のはしだてふみも見じいく野の末にかすむ雁がね(契沖)
◇年をへて思ひわたりししるしにや今日ふみ見たる天の橋立(田捨女)
◇おほえ山いくへかすみて丹波路やいく野のすゑに春風ぞふく(清水浜臣)
ところで、、その親式部さんこと和泉式部さん、「丹後式部」と名のってもいいのですけれど、実は、その前に和泉守・橘道貞さんとむすばれていたため、残念ながら、丹後式部という女房名は生まれなかったのです。
さて、この塚は和泉式部さんの歌塚だとの言い伝え。
この歌を詠んだという金剛心院は、世屋谷の入り口にあります。
和泉式部さんが丹後に下ったのが、1013年・長和2年。約一〇〇〇年前。境内のタブの巨木は、その頃の歌詠みの様子を見ていたのでしょうか。
また、小式部さんの歌の才、親譲りと喜んでおられたことでしょうが、親子の運命はむごく、娘小式部さん、早逝されてしまいます。出産に伴うもの(1025年・万寿2年)だったとのこと。和泉式部さんが、娘小式部内侍を悼んで捧げた歌、
「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり」
子供と親を置いて旅だってしまって、娘を亡くしたのがこんなに辛いのに、子どもを遺して逝った娘はどんなに辛いだろう、、
「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」
「天橋立」の歌と一緒に伝えていくことが、小式部さんへのお礼と供養かもしれません。
※①うた あわせ 【歌合】
※②◇おほえ山 旧山城・丹波国境の大枝山と丹波・丹後国境で酒呑童子伝説で名高い大江山、両説ある。どっちやねん、本当は?
※③千人万首 「小式部内侍 」から
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