宮津エコツアー · 時空を越えて 「見張りの適地 世屋高原」!

時空を越えて 「見張りの適地 世屋高原」!

「京都・宮津に旧海軍遺構 若狭湾一望、米機を監視」

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「戦時中、米軍機を監視するため旧日本海軍が建設した「特設見張り所」の遺構がこのほど、京都府宮津市の上世屋地区で確認された。舞鶴鎮守府の防衛を担った施設とみられ、、、、」 と京都新聞がとりあげてくださいました。

関係者は「当時の防空体制を解明する手がかりになる貴重な発見」と話す、、とも。
さて、なぜ、『貴重』か、そこが問題。朝日新聞では、戦争遺跡も考古学の対象との記事を載せていますが、これが「貴重」さの意味なのでしょう。

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この貴重さ、世屋の歴史に引き寄せてみると、見張り所として世屋高原。じつは1300年前にも活用されていたのです。戦後70年と、丹後建国1300年と、それを結びつけて考えると、時空を越えてむすびついてということなので、さらに貴重に感じられます。

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どういうことか、、、、、まず、1300年まえのこととされる世屋に伝わる二つの話。
夜な夜な光るものが高原に現れ、海からみる人々が怪しく思い、上っていくと、大シデの梢に観音様が光っていた、そこにひとがすみはじめたという立村譚、、冬、豪雪に閉じ込められた飢えたお坊さんが観音様に助けられたという修行僧の救済譚、、これには、それぞれ謎があります。

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その謎を明快に解いていらっしゃるのが、「歴史と伝説の里・丹後~丹後伝説の科学的考察~』(あまのはしだて出版)鬼塚四郎さん。白村江の戦いで、唐新羅連合軍と戦ったのは663年、僧が世屋にやってきたとされるのが704年、丹後は、海向こうの朝鮮半島や大陸の国々との緊張関係を高めていた当時の大和政権からすれば、外交の玄関口、軍事の最前線だったのです。軍船を連ねた一団がやってくることを想定して備えをしなければならなかったのです。まずは、海を見張ること。しかし、事は軍事機密、あからさまにされるはずはなく、それはあくまでも「修行」。仮に新羅の軍船の来襲を発見したらどうするか、烽火をたくのです。
鬼塚さんは、丹後の峰から峰を経て、丹後や若狭の国衙、さらには大和、当時は近江大津京へつながる烽火を用いた情報網が当時の『軍防令』によって張り巡らされていたはず、とおっしゃっています。
さて、一つめ目の謎。海上の漁師が毎夜世屋高原に灯りが点る。怪しがった真応お上人が漁師とともに分け入って見ると、それは大シデの梢におられた観音様から発していたと。そんなばかな、橋立が落ちた、と同じ、でも、観音様が光る、そん子供だましが、まことしやかに伝えられている立村話。では何か、鬼塚さんは、それこそが烽火なのだとおっしゃっています。烽火を燃やさなければならない緊急事態があったのか、いえ、それは無くても、テスト、実際に機能するものなのか、訓練をして、燃やす木の種類、燃やし方、煙の量、判別出来る距離、これは実際に確かめなければなりません。そんなことがいついつと定めて入念に行われていたことでしょう。真応お上人こそが、烽火部門の長だったのだと。舞鶴湾口の舞鶴火力発電所。世屋からはその煙突から立ち上がる煙がよく見えます。寒さの厳しくなるとよけいに立ち上がります。これなどはさしあたり現代版の烽火。、
そして、二つ目の謎、
成相観音話。雪の深いなか、孤絶する場所で修行した僧の話。なぜそんな時期にそんな修行をしたのか、それが修行ぞ、といわれるといのちがけで、さもありなん、行者様はりっぱだ、だからこそ霊力もえられるのだと私たちはおもってしまいます。そんなひたむきな行者様をすくってくださった観音様は実におやさしいありがたいお方だ、と。でも、果たしてその中身はなんだったのか。そんな時期にそんなことをするのが修行だったのでしょうか。その不思議も、その僧が、真応お上人に率いられる烽火部の兵士だとすると理解できると鬼塚さん。

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大陸からの海を渡っての大和襲撃の可能性の高い時期は秋から冬。航海が風と海流を利用してのころです。風は秋から冬にかけて大陸から日本に吹くのです。雪は、その付随物。見張りは、冬こそ大事、その任務はたとえ豪雪大寒波厳寒のときも怠ることが許されなかったはず。僧が人の目を欺く兵士の仮の姿だとすれば、軍律に従い任務を果たすのに命をかけるのは、かの「小野田少尉」と同じこと。

さて、時は流れても、情報を征するものは戦いを征する、世屋高原は、見張りの適地として再び戦争への備えに利用されました。海軍省が舞鶴の工廠と基地を守るため世屋高原にサーチライトを空に向け、耳をダンボにして音をとらえるための特設見張り所を設置したこと。昭和16年の事でした。
、、、、、、  世屋高原は、むかしから「見張りの適地 」だったのです。

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けれど、これから大切なことは、この世屋高原、山里海がつながる純粋な里山自然美を楽しむことの出来る場所として発展してさせていくことなんだと、あらためて、この記事から考えたことです。。 これも、「時の流れがおっことしていった」ものを「とぼとぼ拾ってあるくこと」(^.^)

ちなみに この遺構、スノーシューでならいまでもウオークできます。連絡ください。

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