宮津エコツアー · お玉さんが味土野で見た雪!

お玉さんが味土野で見た雪!

丹後中央高台の一番雪

img_2117%e3%82%86%e3%81%8d

(上12月16日)

雪化粧とはよくいったもんです
なだらかに稜線を描く山並みの左側の高いところが高尾山、そこから右に眼をうつすと中央にへこみがあって、そこから右へまた盛り上がり鼓ヶ岳へ流れて行きます。へこみの部分が内山、五十河から味土野への峠です。

さてこの味土野、時は安土桃山時代。とんでもない事件に巻き込まれます。

21

時の丹後のファーストレディー、大名家正室細川玉子の「入村」です。
ときめく信長を後見人として結ばれた細川忠興と明智玉子。細川家と明智家は手を携え、中国地方侵攻の準備をすることになります。玉子は丹後を支配する大名家のファーストレディーとして、丹後に君臨したのです。ところが本能寺の変、1562年6月。予想だにしない大事件によって彼女の地位は一変します。殺すか、返すか、殺されるか返されるか自分で死ぬか、二者択一。その玉の運命を決めたのは誰か?
松本清張さんはこう解き明かします。
①忠興は、注進状を見て、蒼くなっていた。「どうなされます?」忠興は、父に訊いた。「お前の考えは?」「てまえは父上のお考えに従います。「うむ」藤孝は黙っていたが、穏やかで深みのある眼差しを息子にむけた。「玉をどうする?」息子はしばらくだまっていた。略 「斬ります」と吐くようにいった。藤孝がじろりと見て、「血迷うな」と叱った。「は?」「なぜ、玉を斬る?」「明智の女ゆえ、諸人から疑いをかけられましょう。斬って証をたてます」「うろたえもの」藤孝はまた叱った。「織田家の諸将への面目はわしが立てる。玉を殺すことはない」

②「光秀は滅びる。あの男、案外小器であったな。いや主殺しをいっているのではない。殺した後の始末を考えていないのだ。味方の算用もなしに、逆上せて事を挙げたといえよう。いまに、あの男、袋叩きになる、惜しい男だが、」「玉はしばらく山の中にでも預けておけばよい。親父と同様、殺すには惜しい女じゃ。与一郎、あのような女房は、またともらえぬぞ。」
③敵味方に分かれると、相手方から来た養子や嫁は戻すのが通例だった。藤孝はそれをしないという。、年来の親友に見せた藤孝の最後の好意であった。                   (小説「火の縄」)

そこで、「玉はしばらく山の中にでも預けておけばよい。」と藤孝のいった「山の中」とは?
三浦綾子さんは、次のように設定します。
「人目につかぬ山中のう」「おお、そうじゃ、殿、味土野はいかがでござりましょう。」松井康之がいった。「みとの?とな」「は、丹後半島の中程にある山の中、あの金剛寺亀山のすぐ傍らにござる」「では、険しい山中だな。女の足ではたいへんなところだが、、、」「男の足でも容易ではありませぬゆえめったに人の寄りつくところではござりませぬ」「道のりは?」「宮津より、舟にて余佐の海を横切り、日置の浜に渡り、そこより味土野まで三里でござります。」「おお、それは近い!」ようやく忠興の声がはずんだ。「戸数はどれほどじゃ」「せいぜい、二十戸もござりましょうか。山伏寺などもござります「では、ひどく淋しいというほどでもないな」「は、山の中とはいえ、人里でございますれば、、、、」「なるほど、では、それに決める。松井!明朝早々にも人をつかわし、住居を用意させよ。」(「細川ガラシャ夫人」)

img_2014

さて玉子さん、宮津の城からどの道を辿って味土野に入村したのか、そのルートについて三浦綾子さんの細川ガラシャ夫人が「宮津より、舟にて余佐の海を横切り、日置の浜に渡り、そこより味土野まで三里でござります。」と明確に出されたものですから、その説を中心にうごいています。しかし、それを特定するのは、実は根拠のない不毛の論議なのです。玉の運命を取り上げた重要な小説では発行順に松本清張さんの火の縄、三浦綾子さんの細川ガラシャ夫人、伊崎義明さんの花無き峰がありますが、松本清張さんは

「ただひとつ、戦闘が身近に感じられたのは、光秀の女の嫂が、輿に乗って、奥丹後に送られていったことだった。初夏の眩しい光を受けて、その輿は数十人の家臣に守られて城門を出て行った。蝉時雨の山道を、一行は鎧の金具を光らせながら小さくなって消えた。」

伊崎義明さんは

「その風浪の真ただなかを、押し流されていく小舟一艘・・・どこへ消えたのか・・・伊賀守たち三人の姿はなかった。■伊賀守たち三人が野間の庄行者山に近い高尾山の中腹にある山毛欅の森の炭焼き小屋にたどり着いたのは、幾日めであったろうか。」

いずれも、特定のルートは示されていません。

三浦ルート、それが「望ましい」のですが、私的にはそう思えません。
宮津発→文殊知恩院経由→岩滝男山→駒返しの滝→五十河小町道→内山→味土野峠

状況や地形です。
①一色残党論 これはあり得ない、刃向かったものは皆殺し根絶やしにしたのが戦国の常識。②人数論 数十人の警護隊に護衛されてと松本清張さん。そうであれば寄り広い道を行くのが常識③男城には70人の警備隊を常駐させたということ。それができた物資の輸送路があったはずなど。

五十河→内山→味土野→須川ルートは、現在府道に指定されています。これは古来より幹線道路だったことの名残りではないでしょうか。

つまり、1562年の6月、お玉一行は山裾から雪の峰へ向かった!

img_2110%e3%82%86%e3%81%8d

さて、ルート論はさておき、風雲真田丸、今夜が最終回。予告では幸村が単騎家康に肉薄するところでおわるということ。

img_2149%e3%82%86%e3%81%8d

(上12/16)

「フェイントと裏切りと寝返りと虚偽」すべての基準が「お家のため」その中で生かされるはずのなかった命を生かされた玉子。味土野の冬、純白の雪景色は、どう戦国婦人お玉の目に映っていたのでしょうか。

このページのトップへ