正月に「初日の出」は書き初めの常套文句、子どもっぽくて珍しくも何もない、かの「夕日が浦」でも、正月の夕日は見られますまい!そこで「初日の入り」。
見入る人あり橋立の初日入り 世屋野蕪村
ところで、「日の入給ふ所は西方浄土にてあんなり」と平家物語。
この西方浄土さいほうじょうどとは、この世の西方、十万億の仏土を隔てたところに存在する、阿弥陀仏の浄土。極楽浄土。西方安楽国。という意味の仏教用語。
・・・・なるほど!・・・・
では、なぜ、極楽浄土は西方にあるのか、その理由について、
「太陽は東から昇って西に沈みます。これを人間の生死に重ね合わせて考えますと、まさに太陽の沈む「西」は「死」を象徴する方向です。つまり、具体的に西の方向にあるというのではなく、「西方」というのは象徴的表現なのです。
仏教の経典は、古代のインドにおいて成立したものです。ですから古代インド人の通念に従って書かれており、また古代インド人が読んで領解できるように書かれてありますので、現代の日本人が読む際にはこの点に気を付けなくてはなりません。
経典には多くの例えや象徴的表現が使われます。そしてそれらは、真理を悟るための手段であり「方便」とよばれています。「西方」というのも、目を一定の方向(悟りの境地)へ向けさせるための方便であり、具体的な場所を指しているわけではありません。」とdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp。
・・・・・なるほどぉーう!!では、では、「極楽」とは?
『阿弥陀経』には「衆苦あることなく、ただ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」というが、梵蔵文では、衆苦を身心の諸々の苦といい、諸楽を楽の材料というから、極楽とは身心が共に苦を離れていて、幸福の材料だけがあるところの意味。
親鸞は『唯信砂文意 』に「極楽無為涅槃界」を下記のように釈している。
“ 「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」とこそのたまへり。また『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。 ”
つまり極楽とは、相対の立場では四苦や八苦のような現実苦と相対する 身心共に楽な世界ということ。絶対の立場では、不苦不楽の世界 であり、無為涅槃界である。」とウィクペディァ。
、、、、そうかーぁあー!さらに、では、その世界には、どうしたら行くことができるのか、どうすればその境地に至ることができるのか、
「悟りを開いたものは仏陀であり、輪廻から解放され六道に属さない涅槃(浄土、極楽)へと行く」ことができる、ということですが、死を考えることは「生」を考えること。
さて、今年は、、、、、!
そんなことを思いながらの2017年の「初日の入り」です。