宮津エコツアー · 二本の筋と杖の跡は上世屋まで続いていた~スキーが始めて上世屋に来た日~

二本の筋と杖の跡は上世屋まで続いていた~スキーが始めて上世屋に来た日~

「なに、ひまげぇーにしとるぅ、おおきいずうたいもてあましとって、しごとがにゃぁんきゃぁあという目でみていく、肩身が狭もて狭もて!」と、除雪車がこぼすことこぼすこと、、、、、、、、、

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(わけないでしょ、、、、)

それにしても、大雪の映像が届くのは北海道や東北の日本海側から。丹後は雪から「見放されています」というのか見過ごされているというのか、おめこぼしいただいているというのか、そんな状態で推移しています。

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「冬、宮津市せやの集落は、深い雪に閉ざされる。屋根をずった雪で窓はとざされ、家の中は一日中くらい。」と『里山で木を織る~藤布が教えてくれた宝物』の冒頭で書くように、雪と云えば世屋、世屋と云えば雪、そんな世屋でも正月に雪はありませんでした。

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(↑2017.1.4)
ふだんあるものがないというのはバランスを欠く状態でもありますので、ここはスキー話で、ひとつ『雪請い』代わりにしましょうか!
小川静風さんが『高原の碧霄へきしょう』によせられた「流転廻想」に「わたしが小学校に行ったのは大正四年と思うが、そのとき父は学校係をしていた。」という文で始まるスキーを初めて見た日のことが次のように紹介されています。
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二 「スキーが始めて上世屋に来た日」
略 小学校の上は高等科があって、下世屋の学校へいった。龍渓橋のない時代で、※①あの断崖を削り取った左側(松尾側)を通って、下の眼鏡橋まで下って、学校へ行った。学校の位置は変わらないが、犬くずし(通称)の坂は相当急な坂で、あの危険な坂に橋もなくて、落ちて死んだ人もある。当時は靴はない。天気の時は「足なか」をはく、雨降りは「わらじ」をはく。マントはあったが、子どもはだれも着ない。番傘をもって、風呂敷に本を包んで背負っていく。何しろ着物を着て、素足にわらじばきで、霰が降る頃になると、冷たくて誰の足も赤く染まっていた。雪が降ると「くつごみ」、たくさん降ると「かんづき」をかけ歩いた。或雪の日、世屋下校へ行くのに、千畳敷の(今の龍渓橋のかみ)上の廻り角まで来たら、外人のように目玉の青い、鼻の高い人が杖をついて上がってくる、私たちは雪道をよけて待った。見たこともない長いものをはいて、すいーすいーと片足ずつ滑らして上っていく。何ごともいわないで。「あれがスキーちう物だな」と話して学校にいった。学校から帰り道、二本の筋と杖の跡は上世屋まで続いていた。村の人たちは、一様に「スキーは鳥が飛ぶより早い。※②学校の上から「のう田」まで一息にすべった」と感歎している。「やはり世屋ではスキーで無ければあかん、『かんずき』であるくのではだめだ」ということだった。後から聞くに、この人こそ丸山萬作という先生で、この地方の先覚者とのことだった。これが大正九年の頃と思う。
それからというものは、竹で作ったスキーが急激に増えた。私の弟、友治は、私の作ったスキーで練習した。友治が高等科へいくころは、本物のスキーで通った。 世屋へ始めてスキーが来てからわずか五年でそこまで普及した。それから、京都第二中学校の校長、中山再次郎先生が来て、上世屋は京都府下の北海道だと激賞した。それからスキー大会は毎年の如く開かれ、婦人会をはじめ区長も協力して、岩の上の三本松スキー場で、「ぜんざい」をご馳走するなどしてPRに努めた。われわれ青年の時は、駒倉道から世屋山の嶺峰づたいに成相のスキー場まで、何回となく往復したしたものである。

※① 犬くずしの開削工事
「明治41年秋から工事を始めた。与謝郡郡道として着工、大正二年5月に完工した。あの堅い岩盤、そしてあれだけの高さ、幅、当時としては難工事であったと思う、これについては小川喜兵衛氏の功績は偉大なものである。村の下にその記念碑が建てられている。さらに車の通行可能な龍渓橋がかかったのは昭和3年。木子までの府道延長は昭和18年。駒倉へは昭和21年のこと。

※②学校の上から「のう田」まで↓

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(2016.12.27)

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どうでしょう、「降る気になってもらったでしょうか」

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明日から寒の入り!

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