人面葉、
きんみずひきの葉の特徴なんですが、なんでそんな模様を作るのか謎です。
謎と言えばこれも謎!
高山は、「世屋山」ではなかったのか、としたらいつから高山 と言うようになったのか!これは、質しておく必要を感じています。
というのは、世屋山慈眼寺、山号はお寺の所在する山を言います。延暦寺は比叡山という山にあったので比叡山延暦寺。慈眼寺は世屋山という山の頂にあったので世屋山慈眼寺、と理解できます。ではその世屋山があったのか。
江戸時代の地誌 『丹哥府志』の記述。
『世屋の庄。 世屋、野間の二庄は高山深谷の間にあり。凡七、八里の處四方皆山なり。西丹波、竹野二郡の境に高尾、金剛童子、小金山、市ケ尾、東の方海の境に鼓ケ嶽、千石山、太鼓ケ嶽、其中間には世屋山、比富の尾、露なしケ嶽、是其最大なるものなり、其間無名の山岳挙て数ふべからず、』
このように、世屋山はあったと明記しています。 領地、支配地を鳥瞰できるこれらの見晴らしのきく高い峰々は政治的軍事的に一番大事なところだったはず。
(↑高山から金剛童子山)
高尾、金剛童子、小金山、市ケ尾、は西丹波、竹野二郡の境。鼓ケ嶽、千石山、太鼓ケ嶽は東の方海の境。「世屋山」は高尾山と鼓ケ嶽、「其中間」ということですから、今の「高山」。そこは世屋川の源流の最高地点でもあることをあわせれば、高山=「世屋山」と考えてもいいのではないでしょうか。そうすれば、比富の尾は駒倉小杉境、露なしケ嶽は、今の「岳」に相当すると考えられます。では、世屋山と呼ばれていた時期があるのに「高山」にされたのはなぜなのでしょう。
(↑山頂から世屋の庄)
行者山と金剛童子は同じ山、与謝の大山と大江山も同じ、このように一つの山塊が複数の名をもつことはあります。同じ事情が高山にもあるのかも知れません。
ですが、それ以外に強力な事情が認められれば別ですが、そうでないなら、「世屋山」とするほうが、昨今世間に広くアピールできるのではないでしょうか。
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「高山」の山頂では、こういう案内をしばらくはさせてもらおうと考えています。