七世紀前半には焼き物を使うレベルの生活がこの付近にあった!
ここで焼いた製品が使われたのはどこだったのか、それを使ったのはどういう人たちだったのか、、一部の階級の人たちのものだったのかみんながそうだったのか想像が膨らむいい看板なのです、
が、この看板を立てられたのはどなたなんでしょうか。
立派な物だけにどなたがたてられたのか明示されているといいなと思います。焼き窯跡 その発見が縦貫林道の工事の際だったということなのです。この縦貫林道、再全通をめざし工事と整備が進んでいます。車も増えるでしょうから。
こちらは設置者が明示してあります。
これは重宝だ、ここまでの距離もわかる、いい看板だ、、、ああそうかそういうのか、、
みずめとかりょうぶとかいたやかえでとかわかる人はわかるけれど、わからない人にはわからない、そこがガイドの出番があるのやな
などとみていると、
「曹洞宗妙性■、、、」
おや!?
なになに■△寺とな!これはないでしょ、禅寺でしょうが×××喝!
どんな人目があるかわかりません、気を付けなければなりません、、、ね。
丹後縦貫林道、これは内陸の標高4~500m付近の山間部に点在する集落を結び昭和44年から55年にかけ工事され宮津市/旧弥栄町・伊根町・丹後町・岩滝町・大宮町を中心に碇高原エリア・太鼓山高原エリア、世屋高原エリア、成相山・大内峠エリアの開発が図られてきた総延長50kmに及ぶ林間道路です。時まさに中山間地の過疎と都市部工業地帯の過密の矛盾が大きくなってきた高度経済成長の中。過疎対策観光開発、林業振興、国土保全などミッションを背負った過疎の地域に夢の灯りをともした希望の道路でした。
この再全通が、この秋です。