晩秋は夕暮れの味土野高原。
シカが鳴きました。細川ガラシャも聞いたのでしょう。
さて、このガラシャさんについての「京丹後市 観光協会」による紹介。
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細川ガラシャ(弥栄町味土野)
「戦国時代の武将、明智光秀の二女として生まれた。幼名を玉という。ガラシャというのは、洗礼名である。天正6年(1578)、織田信長のすすめで宮津城主細川忠興に嫁いだ。忠興、玉ともに16歳であった。忠興は、聡名にして美しい玉を愛し、玉にとっても幸せな生活を送っていたが、長くは続かなかった。天正10年(1582)、父である明智光秀が主君織田信長に反旗を翻し、京都の本能寺で信長を討ち取ってしまうことから玉の人生は狂いを来たしてくる。明智光秀の謀反は中国攻めの羽柴秀吉に伝わることとなり、武力対決は必死の様相を呈した。当然、明智光秀は娘婿の細川忠興に援軍の要請を出すことになる。しかし、この義父の要請を忠興は断ってしまう。そのため、忠興は、秀吉側に立つ人間として謀反人の娘を傍に置いておくことが出来なくなったのである。秀吉の命により忠興がガラシャを泣く泣く幽閉したのが弥栄町味土野である。居住地(女城)跡には、「細川忠興夫人隠棲地」の石碑が立っている。男城は、谷を500mほど隔てた台地にあって警固の武士数十名が詰めていたという。秀吉が光秀を山崎の戦いで破ったのは周知の通りである。幽閉が解かれてからは、大阪の細川屋敷に住むようになり、そこでキリスト教の洗礼を受けたようである。秀吉の死後、石田三成と徳川家康の対立が決定的になったときに、三成側に人質になるよう脅しを受けたガラシャは、これをきっぱり拒絶。屋敷に火を放ち家臣に自らを刺すように命じた。キリスト教徒は自害を禁じられていたからであろう。「ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」という辞世の句が残っている。僅か38歳の生涯であった。味土野の女城の近くには、ガラシャが植えたとされる藤の蔓が大木に巻き付き、今も薄紫のきれいな花を咲かせている。
【参考図書】『もっと知りたい伝えたい丹後の魅力』
発行者:NPO法人まちづくりサポートセンター 〒627-0221 京都府京丹後市丹後町竹野 Tel. 0772-75-1411」
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(※ 独り言 おいおいここでもガラシャ藤、、、ガラシャは藤織りをしていたのです!だから一本桜も、お手植えなんですよ。)
これはスタンダードな説明でしょう。幽斎は幽閉を決めた、(それは愛情だったのか非情だったのか、それは別のこととして)その場所を味土野とした、ので味土野へ来た、そして、幽閉が解かれた、ので味土野を出た。それだけが説明してあります。
しかし、知りたいのは味土野と彼女の関係、その後どうだったのか「さよなら さよなら さよならもうすぐ外は白い冬」 オフコース だったのか
“さよならは別れの言葉じゃなくて再び会うまでの遠い約束”という…薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」だったのか、、です。
味土野体験は彼女について回ったのかどうかです。その後のガラシャに味土野が顔を出したという資料がない、様々な小説にあたっても言及がない、、、
しかし、濃厚な時間であった味土野生活が心に刻まれていないはずばない、ので願望は後者。しかし、資料がないのでいかんとも言い難い。
そういうことなので、それがあったとしたら、どうですか、サプライズでしょ、ガラシャファンには!ええ、出てきたのです、、ガラシャと味土野、このつながりの深さを示すエピソードが。いいですか、こういうことです
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①「前野 景定(まえの かげさだ)は、安土桃山時代の武将。豊臣氏の家臣。本名は坪内景定。
生涯[編集]
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の重臣・前野長康の子として生まれる。父と共に豊臣秀次付の家老となって秀次を支えた。しかし文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことにより、豊臣秀吉から秀次与党として謀反連座の疑いで父と共に捕らえられ、中村一氏に預けられた。そして、父と共にそこで秀吉の命令により切腹した。
なお景定の妻・御長(おちょう)にも捕縛命令が出された。彼女は細川忠興の長女であったため、慌てた細川家では、重臣の松井康之などが奔走し、景定から離縁出家させて、ようやく捕縛を免れたという。」
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( お長はは細川忠興の長女、つまりガラシャの娘なのです。離縁出家させて事なきを得たという手法は、本能寺の変のさい、玉を偽装離婚の形で味土野へ幽閉させたのと同じ、母ガラシャは娘の危機の際どう動いたか、、、下記の記述に会いました。出典は小さな松尾史p109)
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②母ガラシャは離縁出家させられた愛娘・長を味土野へやった! 語るのは下世屋出身の前野勝志氏、として小谷さんが紹介されている、、
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(上 下世屋の共同墓地にて)
キーマンはこの 前野半助さん。前野半助さんは、お父さんと子供さんがいらして、お父さんは前野左衛門尉宗央さん。前野一族は尾張の国河内牧を本拠地にしていたとのこと。お父さんの半助さんは、ガラシャの味土野行きをてづったが、一色と細川が戦った弓の木城の戦いで一色方に与し、討ち死にしたと伝えられています。後を託されたのは嫡子の半助さん、前野半助宗定さん。かれがガラシャの味土野暮らし、さらに大阪行き、そしてまたお長の味土野隠棲を助けたということなのです。前野長康・前野景定親子は、同じ前野一族 墓碑は33代めが建てられたとのこと )
ガラシャは娘の世話を味土野衆に頼んだ、ということは、ガラシャさんと味土野とはよほどの信頼関係があって結ばれていたということになるじゃあありませんか。とすると従来のガラシャと丹後との関係は言われているように浅からぬものを感じます。
丹後におけるガラシャ観はいまいちです、大きなものに媚びをうったりおもねったり決してしない郷土史家斎藤さんですら サイトで次のように。
「最近ではガラシャ夫人をや光秀を取り上げたテレビ番組を作ってもらいたいなどと運動が丹波・丹後で行われているという。
ドラマ性はあるが、しかしガラシャや光秀の持つ文化と丹後丹波文化がつながるのかということが問題になる、ガラシャなら特にキリスト教文化が当地にあったのかという問題がある。彼らと生活や精神を共にし、共に同じカマのメシを喰い喜びも苦労も共にし、共に理解し合えた仲にわれらの故郷はあるのかということである。光秀や忠興とは多少はあっただろうが、ガラシャや幽斎とはたしてあったのだろうか、チトばかりレベルが違う、住む世界が違う。何か農民にとってエエことでも気を入れてしてくれただろうか。エエことをしてくれたのなら、私も賛成するが、何もないなら無縁の人でしかない。しかし末裔が原発反対を言っているのでまあ応援してもエエが…」
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「けれども、娘をガラシャは味土野に置いたということが事実なら、彼らと生活や精神を共にし、共に同じカマのメシを喰い喜びも苦労も共にし、共に理解し合えた仲にわれらの故郷はあるのかということである。」にかかわってなんかあるぞとおもわせるじゃありませんか。
それにしても、戦国の政争に翻弄されたガラシャさん、父も自分もまた娘までも、、、そんなことがいつまで繰り返されるのか、救いはないのかこの問いは大河「女城主景虎」ではないですが、彼女の場合その抵抗が入信 だったかもしれません