:25日の朝日新聞。
行政関係者も思案投げ首というほどの少子高齢、地方の衰退ではあるけれど、「かみせや」で起きていることに、出口や手掛かりのヒントはあるのではないか、というように読みました。
「大学で出会う都会の友達にこの風景を紹介したい、将来どこに行くかわからないけど、春が来るたびにここにきます。」、、、、学びのお手伝いができて、ほんとにうれしいです。
冬眠から覚めたシマヘビくんが、「感動したと伝えてくれ」といっておりました。
人が作る里山に適応した生き物たちみんな、そうおもっているでしょう。
さて、この記事の基調は陶淵明の詩「歸去來兮」(かへりなん いざ)の思いと重なる部分があるように思いました。
田園將蕪胡不歸 田園 將に蕪れなんとす 胡(なん)ぞ歸らざる
既自以心爲形役 既に自ら心を以て形の役と爲す
奚惆悵而獨悲 奚(なん)ぞ惆悵して獨り悲しむ
悟已往之不諫 已往の諫めざるを悟り
知來者之可追 來者の追ふ可きを知る
實迷途其未遠 實に途に迷ふこと 其れ未だ遠からずして
覺今是而昨非 覺る 今は是にして 昨は非なるを
大意、、、さあ帰ろう、田園が荒れようとしている、いままで生活のために心を犠牲にしてきたが、もうくよくよと悲しんでいる場合ではない、今までは間違っていたのだ、これからは自分のために未来を生きよう、道に迷ってもそう遠くは離れていない、、、、
歸去來兮 歸去來兮(かへりなんいざ)
請息交以絶遊 交りを息(や)め 以て遊びを絶たんことを請ふ
世與我以相遺 世 我と 以て相ひ遺(わす)れ
復駕言兮焉求 復た駕して 言(ここ)に焉(いづく)にか求めん
悅親戚之情話 親戚の情話を悅び,
樂琴書以消憂 琴書を樂しみ 以て憂ひを消す
農人告余以春及 農人 余に告ぐるに春の及べるを以てし
將有事於西疇 將に西疇に於いて 事有らんとす
或命巾車 或は巾車に命じ
或棹孤舟 或は孤舟に棹さす
既窈窕以尋壑 既に窈窕として 以て壑(たに)を尋ね
亦崎嶇而經丘 亦た崎嶇として丘を經(ふ)
木欣欣以向榮 木は欣欣として 以て榮に向かひ
泉涓涓而始流 泉は涓涓として 始めて流る
羨萬物之得時 萬物の 時を得たるを羨み
感吾生之行休 吾が生の 行くゆく休するを感ず
―さあ帰ろう、世間との交際をやめよう、自分と世間とは相容れない、なんで再び官吏の生活に戻ることを考えようか。
―親戚のうわさ話を喜んで聞き、琴書を楽しんで屈託がない、農夫が春の来たことを告げ、西の畑で農作業を始めた、車に乗ったり、船を操ったりして、深々とした谷を訪ねたり、険しい丘に登ったりする、木々は生い茂り。泉はほとばしる、万物が時を得て栄える中、私は自分の人生が終わりに近づいていくのを
感ずるのだ。
四段目は、自然の恵みに対比して人の命のはかないことを、一種の無常観を以て述べる。陶淵明の人生観がよく現れている部分である。
已矣乎 已矣乎(やんぬるかな)
寓形宇内復幾時 形を宇内に寓すること復た幾時ぞ
曷不委心任去留 曷ぞ心を委ねて去留を任せざる
胡爲遑遑欲何之 胡爲れぞ遑遑として 何にか之かんと欲す
富貴非吾願 富貴は吾が願ひに非ず
帝鄕不可期 帝鄕は期す可からず
懷良辰以孤往 良辰を懷ひて 以て孤り往き,
或植杖而耘子 或は杖を植(た)てて耘子す
登東皋以舒嘯 東皋に登り 以て舒(おもむろ)に嘯き
臨淸流而賦詩 淸流に臨みて 詩を賦す
聊乘化以歸盡 聊(ねが)はくは化に乘じて 以て盡くるに歸し
樂夫天命復奚疑 夫の天命を樂しめば 復た奚をか 疑はん
―致し方のないことだ、人間はいつまでも生きていられるわけではない、どうして心を成り行きに任せないのだ、また何故あたふたとして、どこへ行こうというのだ、
―富貴は自分の望むところではない、かといって仙人になれるわけでもない、よい日を選んで散歩し、杖をたてて草刈りをしたり、土を盛ったりする、
―また東の丘に登っては静かにうそぶき、清流に臨んでは詩を賦す、願わくはこのまま自然の変化に乗じて死んでいきたい、天命を甘受して楽しむのであれば、何のためらいがあろうものか
田園まさにあれなんとす 帰りなんいざ ああなんぞかえらざる
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現実のも壁はあります。けれども帰郷志向の潜在的な層はかなりあるのではないかと思っています。
そこに橋をどう架けてあげるか、道を付けてあげるか、そこが試案のしどころだぞ、さあどうする!とシマヘビも。
しかし、大胆に着想し、深く議論し、着実に実践する、それができるのも人間です。次の知事選びに、そこのところが反映されることを期待します。
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