隠岐へ渡る機会がありました!
境港から渡ります。
日本海に吹き出した火の島というのに惹かれたのです。
その断崖。
冬の暴風暴波が作り出した、専門用語では、海に食われた崖、つまり海食崖!
この高さ、257mなのだそうです!
見に来てよかったとおもわせてくれた決定花は、ツワブキ!
こんな岩場に転々と咲いているのです。
あぶない、そんなとこいっちゃああかん もどれー!
それが、まあふつうでしょう
暴風暴波にさらされる絶壁でも、活き場所、死に場所ときめて咲く凛とした覚悟の花、
すごい、素晴らしい!
行ってきてよかったよ、とご挨拶したら、
水木さん、「なまけものになりなさい」、濃い意味の言葉をかけてくださいました!
もう一つ土産話、
稲木も漁村も舟屋もみるものみんな丹後とそっくりでしたけれど、つたわる話もそっくりでした。というのが、この巨スギの名は、「八百スギ」
八百比丘尼にちなんだものだそうです。
この伝説も丹後各地に残っています。
まず、その基本的なストーリー
八百比丘尼伝説[編集]
八百比丘尼(やおびくに)は、人魚など特別なものを食べたことで長寿になった比丘尼である。福井県小浜市と福島県会津地方では「はっぴゃくびくに」、栃木県西方町真名子では「おびくに」、その他の地域では「やおびくに」と呼ばれる。高橋晴美によると、その伝説は全国28都県89区市町村121ヶ所にわたって分布しており、伝承数は166に及ぶ(とくに石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に多い)[70]。白比丘尼(しらびくに)とも呼ばれる。800歳まで生きたが、その姿は17~18歳の様に若々しかったといわれている[71]。地方により伝説の細かな部分は異なるが大筋では以下の通りである[72]。
ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる。
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『京都の伝説・丹後を歩く』
〈 乗原の千年比丘 伝承地 竹野郡丹後町乗原
昔、この村に一人の僧がやって来たそうだ。その僧が此代の海から奇妙な魚を拾ってきた。その魚は、普通の魚とは異なり、胸から上は人間のようであるし、腰から下は魚の鱗がいっぱいある魚だったので、庚申侍をして、みなで食べようかと言っても、だれも箸を出さなかった。
大久保喜兵衛の娘が一口食べてみたところ、その魚のやわらかくて白い身は今までに食べたことのないおいしいものだった。ちょうど石榴のような甘酸っぱい味がしたのだそうだ。
ところが、それ以来、困ったことに、娘は病気ひとつしないし、体はとても大きくなって、嫁のもらい手がなかった。親も兄弟も隣りの家の者も、さらには村中の者がみな死んでも、福々しい娘のままですこしも年をとらなかったものだから、乗原にいるのがつまらなくなって、但馬の方に行ったそうだ。
但馬で嫁にいったという話もあったが、また、乗原に舞い戻ってきて、村に役立つことを何かしたいものだと思って、依遅ヶ尾から落ちてきた石を選り分けて、庚申墓の方から植松のあたりまで敷いた。道が固まって村中の者は喜んだという。また、牧の谷に降りる植松の大きな松もその娘が植えたそうだ。
その娘は八百年余り生きていることから、「千年比丘」といったそうだが、最後には若狭の方へ一人で船に乗って出たということだ。その後どうなったのか、だれも知らないが、何でも、お宮に祀られたとか。 (『丹後の伝説』)
伝承探訪
九州から青森県にかけて、とりわけ日本海側に色濃く、八百比丘尼の伝説が分布している。八百比丘尼とは、人魚の肉を食べたために、若い頃の姿のまま、八百年も長生きしたという尼の話である。福井県小浜市の空印寺の岩屋に籠もって入定したと伝えることが多い。丹後地方にもこの伝説に関わりのある場所が各所にある。たとえば、宮津市の栗田半島の塔ヶ鼻には八百比丘尼がいた庵の跡というあたりに供養塔が建てられ、そこが出生地だともいう。また、久美浜町葛野の岩船神社の左右にあった松の大木は八百比丘尼が植えたものだという。この八百比丘尼は尾張国の出身であったとされる。さらに、宮津市の山あいの木子・世屋のあたりには八百比丘尼が穴を掘って入定したと伝えるところがあるという。
ここ丹後町乗原でも、このような伝説によく似た、千年比丘と呼ばれる人の話が伝えられている。乗原は、海辺の此代集落から旧道を二キロ登った峠の上の戸数三十軒の集落である。屹立する依遅ヶ尾山の北山麓にあるため、牧の谷から吹いてくる北西の季節風は激しいものであった。かつては木材業や茶・蜜柑などの生産が盛んであったという。ここは大久保・川戸という二つの姓に分かれているが、このうちの大久保家の本家にあたる大久保喜平治氏のお宅がこの千年比丘の生家であったと伝える。当家は平家の流れをくむとされ、江戸時代初期の元祖からの名を記した位牌を伝えている旧家である。江戸時代から明治時代以降にかけて、造り酒屋や材木屋を営んでおられた。造った酒は宮津の町まで運んでいたものだという。喜平治氏の祖父は千年比丘の命日とされる日には小浜まで参っておられたとのことである。氏も祖母からこの話を聞いておられる。千年比丘は天候をよく当てたので、漁師から乞われて小浜に行った、しかし、あまりに長生きをしたので、世をはかなんで京に行った(死んだこと)、そこには白い椿の花が咲き、清水が湧いた、という。
八百比丘尼伝説は、まさしく、家の伝承として伝えられてきたのである。 〉