宮津エコツアー · この入園料、300円は、安いですよ「加悦町古墳公園」

この入園料、300円は、安いですよ「加悦町古墳公園」

「加悦町古墳公園」展示。

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旧加悦町は、弥生古墳の町、その数644基。

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はっくつされた遺物が、ここにあつめられているのです。

20230212_153952やきものやさん

集大成しての生生ましい展示は、圧巻。

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この入園料、300円は、安いですよ

さて、この加悦、「かや」とはなにもの?

以下、『丹後の地名』師さんのトークで。

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『加悦町誌』

「加悦」という地名の語源は明らかでないが、言い伝えられるものをあげてみよう。
イ、地勢からきた伝説
加悦谷盆地はその昔、阿蘇海に通じた浅海で、その周囲は深い「茅」原であった。また沼地が多く、茅、萱類の繁茂したところであったから、「かや」の地名となったという。
口、神社の祭神からきた伝説
加悦の吾野神社の祭神は「野の神」といわれる「我野廼姫(ルビ・かやのひめ)命」であり、これが、地名になったという。
ハ、郷名からきた伝説
倭名類聚抄には現加悦町一円を「神戸郷」と称している。「カンベ」が転音訛伝して「かや」になったという。その他、名和長年の家臣嘉悦氏がこの地に来て、土豪となり、その姓を地名に用い、 「かや」としたともいうが、これは考えられない。
「かや」を「加悦」と書くようになったのは、江戸時代以後のようで、一一四三年(康治二年)平安時代の兵範記背文書には、「賀舎」と書き、一二八八年(正応元年)の丹後国諸荘園郷保惣田数帳目録には「賀悦」と、一三三八年(建武五年)の日置季久の手紙にも、一四五六年(康正二年)の禁裏造営段銭引付きにも、一四七〇年(文明二年)山田郷菩堤寺の梵鐘にも、「賀悦」と同じ字を使っているが、一五〇〇年頃(永正年間)に書かれた細川政元記には、「賀屋」が使われている。また、算所の小巻家文書には、「薩屋」(私注→薩ではなく産が段の造りである)とあるが、何れもあて字であろう。

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カヤという地名は全国に多い古代地名である、それらを丁寧に調べた上でないと確かなことは言えないかも知れないが、

『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸)

加悦の町(かや)
加悦は間人と同じく、日本でもよみにくい町名の一つといわれているが、大伴金村が支配した五三○年頃、朝鮮の任那(みまな)の中に加那(かや)という国があった。また加悦の安良(やすら)は昔安羅と書かれたが、これも任那の都市に安羅(あら)という町があった。いまの威安(かんあん)である。
もう一つは野の神のことを「萱野媛」(かやのひめ)というところから、広々としたこの加悦谷盆地にその名がつけられたとも考えられる。加悦の式内社吾野神社には萱野媛が祀ってあることもつけ加えておこう。
古い文書には「賀悦」「加屋」「賀屋」などの文字が使われているが、南朝の忠臣といわれた名和長年の臣嘉悦氏が一色氏の支配になる前に領主となっていたのでこの字が使われるようになったという。嘉悦氏は熊本と東京に現存する。…

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『日本の中の朝鮮文化6』(金達寿・講談社文庫)

「いま言ったように、この加悦谷は古墳の多いところですから、いまでもあちこちの畑などからいろいろな土器が発見されます。するとここの人たちはそれをみて、朝鮮土器が出た、と言っているのですよ」
「そうですか。なるほどね。なにしろ、ここはほかならぬ加悦ですからな」と、前の席でクルマを運転していた鄭詔文がそう言って笑った。
つられて私たちも笑ったが、しかし鄭はただ笑うためにだけそう言ったのではなかった。その加悦谷、あるいは加悦町の加悦というのが、どういうことであるかという前提があってそう言ったのだった。
そのことは梅本さんの 『丹後路の史跡めぐり』にも書かれているが、加悦というのは、これも安羅同様、のち新羅に併合された古代南部朝鮮の小国家加耶・加羅・加那からきたものであった。『丹後路の史跡めぐり』によると、加悦はもと「加屋」「賀屋」とも書かれたもので、それが現在の加悦となったのは、「南朝の忠臣といわれた名和長年の臣、嘉悦氏」がここの「領主となって」からだったという。
それだけではなかった。加悦町には、これももと「加耶の媛」ということだったかもしれない萱野媛を祭る『延書式』内の古い吾野神社があり、また、安羅・安那・安耶からきた安良というところや、安良山というのもあって、これは古文書にはっきり、安羅山と書かれていたものだったという。
加耶(加悦)、安羅(安良)どちらものちには新羅に併合された小国家であったから、したがってこの加悦に白米山、すなわち新羅山古墳があるのもふしぎではなかったのである。しかもそれが四世紀の前期古墳であるということは、いっそうその意義を大きくしている。
要するに、これから逐次みて行くように、古代の丹後や北陸の国々は日本海をへだてて向き合っていた、朝鮮の新羅文化圏のなかにあったといっても決して過言ではない。われわれがいま加悦谷でみているのほほんのその一部にすぎないが、イナナキという斜面台地の山となっている白米山古墳は、まわりの一部を竹林で囲まれた美しい古墳だった。

この書によれば、当HPもお世話になっている梅本さんは当時は栗田中学の校長さんだったとある、白米山は新羅山とは私は考えないが、加悦や安羅山は気になるし、合楽という小字、何と読むのか知らないが後野だが面白そうだ、アラかも知れない、安羅国かどうか単にAR地名かも知れない、さらに奥には与謝と滝、全体が謁叡郷、掘れば「朝鮮土器」(須恵器のこと)がゴロゴロ、地名などからは古代は新羅文化圏・伽耶文化圏と見てもムリはない、そう考えないと解けない地名もある

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合併与謝野町歌

1番

大江の峰を 輝かせ 希望に満ちて
日が昇る あふれる緑に 恵まれて
ふれあう心の あたたかさ
ああ与謝野 幸せ創る 与謝野町

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2番

大地を潤す 野田の川 生命育み
響き合う 文化の薫りと機の音
新たな世紀へ 伸びてゆく
ああ与謝野 笑顔かがやく 与謝野町

20220909_150606須代岳

3番

天の架け橋に 夢はせて 水鳥遊ぶ
阿蘇の海 自然と歴史と未来とが
織りなす絆も たくましく
ああ与謝野 あしたを拓く 与謝野町

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