宮津エコツアー · 泣いた赤鬼~「走れメロス」に匹敵する美しくも切ない友情ものがたり~

泣いた赤鬼~「走れメロス」に匹敵する美しくも切ない友情ものがたり~

泣いた赤鬼、浜田広介作 あらすじ 前段

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とある山の中に、一人の心優しい赤鬼が住んでいた。赤鬼はずっと人間と仲良くなりたいと思って、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておいた。

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しかし、人間たちは疑い、誰一人として赤鬼の家に遊びに来ることはなかった。赤鬼は非常に悲しみ、信用してもらえないことを悔しがり、終いには腹を立て、せっかく立てた立て札を引き抜いてしまった。

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一人悲しみに暮れていた頃、友達の青鬼が赤鬼の元を訪れる。赤鬼の話を聞いた青鬼
さて、どうしたもんかいな!

思案の末、思い至って、提案した方策がこれ、

「ぼくが人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ君が出てきて、こらしめる。そうすれば人間たちにも君がやさしい鬼だということがわかるだろう」。

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この作戦、正しいとかおかしいとか、各論あるでしょう、問題はその前、そうかそうだなあ、と寄り添う、聴く、受け止める。そこが全て、
葛藤があったはず、無理筋だ、止めた方がいい、と青鬼は強くアドバイスしたかもしれない、その願いの根拠を赤鬼は熱く話しもしたのでしょう、二人、深く長い思案の末、課題解決のための協同作戦として思い至った方策と実行

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そのドラマは友情ものがたりとして、「走れメロス」に匹敵する深さをもったものがたりとして読めるのではないでしょうか。

ちなみに、この「走れメロス」は1940年初版、『泣いた赤鬼』の連載初発はそれに先立つこと7年、昭和8年(1933年)のこと、

これを知れば、単なる児童文学として読んではいけない気がします。

日本が『国際連盟』から脱退した、それが1933年だったのです。

1.1 日本軍,山海関で中国軍と衝突。翌2,関東軍出動(山海関事件)。

1.27 関東軍司令官武藤信義,熱河作戦の発動準備を命令。 2.23熱河省に侵攻。
2.14 国際連盟19人委員会,リットン報告書の採択と,満州国不承認を内容とする英・仏・独などの9か国小委員会案を全会一致で可決。
2.24 国際連盟総会,19人委員会の報告書を賛成42,反対1(日本),棄権1(シャム)で採択。日本代表松岡洋右丿日本は日支紛争に関し国際連盟と協力せんとするその努力の限界に達した」と宣言,議場より退場。
3.27 外相内田康哉,連盟事務総長ドラモンドに日本の国際連盟脱退を正式に通告。詔書発布。

つまり、地球村から孤立して、不信の極み、戦争、被爆、敗戦への道が始まった年なのです。

昭和8年

このような時代の状況は、作家の創造活動に大きく反映されます。不信と信頼が大きく問われた時代に生きた浜田広介さんや太宰治さん、二人は、今は友情ものがたりとしてしか読まないメロスや鬼に何か別の何かを託されたとおもえてなりません、ね。

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