ここは、竹野川に大谷川が合流する付近。
春と冬を分ける春分の夕日が隠れる山を、久次岳というのだけれども、この「ひ・さ・つ・ぎ」という意味不明な音は、稲作を定着させた朝鮮半島からの渡来人が付けたものらしい、そんなことをおもいながら見つめていました。
そしたら、ふと、その前にすんでいた縄文人、彼らは、冬と春を分ける太陽が沈むこの景色をどうよんでいたのだろうか、とも思われ、アイヌ語ではなんといったのか、チェックしてみました。
アイヌ語で 「ペケレチュプカムイ」といえば太陽 月は「クンネチュプカムイ」、山は「ヌプリコロカムイ」、川は「ペッオルンカムイ」、疫病は「パヨカカムイ」、人に恩恵を与える神は「ピリカカムイ」など。 mataマタ は 冬 paykarパイカラ は 春 というらしい 夏 sakサク
秋 cukチュク cup ahun(日が沈む)
縄文人=アイヌ人ではないのだけれども、
まずは現代日本語混じりのアイヌ語で
山ヌプリコロカムイに春パイカラと冬マタを分ける太陽ペケレチュプカムイが山ヌプリコロカムイに沈む
チュプアフン
次にアイヌ語だけで
ヌプリコロカムイ、パイカラ、マタ、ペケレチュプカムイ、ヌプリコロカムイ、 チュプアフン
繰り返し
ヌプリコロカムイ、パイカラ、マタ、ペケレチュプカムイ、ヌプリコロカムイ、 チュプアフン
みんなで
ヌプリコロカムイ、パイカラ、マタ、ペケレチュプカムイ、ヌプリコロカムイ、 チュプアフン
ヌプリコロカムイ、パイカラ、マタ、ペケレチュプカムイ、ヌプリコロカムイ、 チュプアフン
ヌプリコロカムイ、パイカラ、マタ、ペケレチュプカムイ、ヌプリコロカムイ、 チュプアフン
さて、ここは、竹野川に大谷川が合流する場所に架かる橋、
その名が、大日本帝国海軍河辺飛行場海軍橋!
なんとも古めかしく直立不動した名ですがその由来を知れば、また頭が下がるというかいきなり現代のきな臭い現実に引き戻されます。
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia
海軍橋
河辺飛行場(こうべひこうじょう)は、かつて京都府中郡河辺村と新山村(いずれも現・京丹後市)にまたがる地区に存在した大日本帝国海軍の飛行場である。
太平洋戦争中の1941年(昭和16年)、峯山海軍航空隊の施設として長さ800メートル・幅80メートルの滑走路などが建設された[1]。1945年(昭和20年)2月以降には特攻隊員の飛行訓練が行われた[2]。同年7月下旬には隊員が鹿屋航空基地や岩国航空基地などに派遣されたが、全員とも出撃しないまま終戦を迎えた。河辺飛行場自体は7月30日の峰山空襲で破壊されている[3]。
立地
飛行場建設にあたり、丹後半島でまず候補地となったのは弥栄盆地だったが、霧が多発する気象条件や周囲の地形や風向きが好ましくないとされ、次に候補地となったのが竹野川右岸の中郡河辺村(現・京丹後市)から新山村(現・京丹後市)にかけての約50町歩の田畑であった[4]。21世紀現在の峰山町新町にあるショッピングセンター「マイン」付近から大宮町河辺にかけての峰山盆地(中郡平野)の中心にあたる[5]。峰山盆地は、南北約5キロメートル、幅1キロメートルほどの谷間のような狭さであったが、山間ながら比較的風向きが安定しており、その風向きと平野が開ける方向が同じであるなどの特徴がある[6][7]。一帯はほぼ平地ではあるものの、集落から竹野川にかけてゆるやかに勾配があったため、これを平坦にするため、山を削り、田を埋める工事が行われた(後述)。
飛行場基地の正門は河辺村の集落の東南にあり、大谷川を渡ったあたりに隊門があった[8]。竹野川の土手から峯空園に入る「海軍橋」を渡った辺りには練習生が主に使う門があった[8]。
航空隊の本部は口大野村余部の旧国道沿いにあり、2021年現在は府営住宅が建っている[8][注 1]。この本部から約200メートル北西の青年山に通信室、工作科、整備科の作業場が建設され、緊急時に司令部を移すことができるよう大規模な防空壕が掘られた[8]。この場所には2021年現在、特別養護老人ホームおおみや苑がある[8]。
、、、、、
武力行使など、人間のすることか、、、、
ヌプリコロカムイ、パイカラ、マタ、ペケレチュプカムイ、ヌプリコロカムイ、 チュプアフン
絶対に、絶対に、絶対絶対平和です。
さて、この橋、あるところのあるものと連動しているのです、、、続く。