宮津エコツアー · yasuda

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「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

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玉子さんの名、久しぶり。にぎわかしたのは、静岡県の川勝平太知事

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ここでガラシャさんのこれお使いになるか!と思ったら、案の定

「ガラシャというのは、正しいと思ったこと、信念を貫く強い意志を持った女性。夫・忠興との約束を見事に守り抜いたそういう女性ですよ。その時読んだ辞世の句なんです。川勝さんの辞め方、散り時、引き際、どこが美しいんですか。ちっとも美しくない。自分の失言をきっかけにお辞めになっただけの話でしょ」とご先祖筋に当たる政治評論家の細川隆三さん。※ 「ABEMA的ニュースショー」

「川勝さんはまったく勘違い甚だしい。使い方が間違ってる。政治家の失言とよく言うが、あれは失言じゃない。信念なんですよ。誰に対して無礼かと言うと、まずは細川ガラシャに対してですよね」。

川勝さんの勘違い、細川さんに同情ですね、

リニア、リニア、リニア!と浮かれることなく、水はどうなる?!と論陣を張った戦いは評価されるべきです。新幹線丹那トンネル工事では、水田の水が影響を受けたということが実際にあったということですから、始めにリニア在りき!か?と問われたのはある意味当然でしょう。

そんな武勇の知事、その辞職に際してここは、玉さんの父、明智光秀に裏切られ本能寺で最期を迎えた際の織田信長の辞世の句:「是非に及ばず」だったら、、、、と残念に思いました。

さて、本能寺の変その時、夫忠興さんは玉さんを守ります、殺さぬ、生きよ、

DSCN0772がらしゃさんこの谷を登っていきみどのへ
その時の避難ルートがこの世屋川の谷。※諸説あります
味土野は、正面の三角の山の後ろに当たります。

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その避難行は極秘だったはず、

DSCN0835ガラシャ古道はこっちこっち

今、その街道辻々の標識が、謎を解き明かし顔で立っています。

羽衣天女の壁画アート、9日目。

DSCN0955いいねえという人もありゃーというひとも 芸術
いいねという人も、一方、ありゃーという人もあるでしょう

ピンとこないなあ

当然です

今までと像とは違いますから

DSCN0630あらためて 町が変わります
誰も、「天女」を見たことがないのです。

312a1a319bdd16ebce8f3d6b55743792--fallen-angels-guardian-angelshagoromoはごろも
ああだろうこうだろう 想像したのです

ec0c26f364e8a69454e614903268a43c--chinese-artはごろもアート

今までの蓄積にさらに想像を加えて、新しいものを創造するのが芸術

DSCN0959見送る帰れない残ります哀しみと決意
羽衣天女丹後バージョンの特異さは天女は、天に戻れなかったこと、

そしてこの壁画には、地に残されてことの哀しみとそれを受け入れた決意と、その両面が描かれていること、それがこアートの新しさだと思います。

、、、、

先輩、いかがですか、この解釈は!

丹後羽衣伝説 磯砂山 モニュメント に対する画像結果

「ま、よかろうで!」

以下、Copilot氏のまとめ。

。。。。。。。。。。。。。。。。

丹後羽衣伝説には、主に二つのバージョンが存在します。一つは「丹後国風土記」に記されたもので、もう一つは安達家に伝わる伝承です。どちらの伝説も、8人の天女が池に舞い降りて水浴びをし、その羽衣を隠されるという共通点がありますが、物語の展開には違いがあります。

丹後国風土記の羽衣伝説: この伝説では、比治山(磯砂山)の山頂にある真奈井の池に8人の天女が舞い降り、水浴びをしていました。地元の老夫婦が1人の天女の羽衣を隠し、天に帰れなくなった天女は老夫婦の願いを聞き入れ、彼らの養女として一緒に暮らすことになりました。天女は酒造りが上手で、そのお酒によって老夫婦や村は豊かになりました。しかし、数年後、老夫婦は天女を家から追い出し、天女は奈具神社に豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として祀られました12

安達家に伝わる羽衣伝説: こちらの伝説では、若い猟師が天女を妻にしました。磯砂山の山頂近くで水浴びをしていた8人の天女の中から、1人の天女の羽衣を隠し、天に帰れなくなった天女は猟師の妻となり、3人の娘をもうけました。天女は米作りや酒造り、養蚕、機織りを人々に教え、村は豊かになりましたが、天女は最終的に天に帰ってしまいました。この伝説は七夕にも関連しており、天女が「『七日七日』(七日ごと)に会いましょう」と言ったことが、七夕の由来とされています1

これらの伝説は、日本各地に伝わる羽衣伝説の中でも特に古く、日本最古の羽衣伝説とされています。丹後地方にはこれらの伝説に関連する場所や神社が今も残っており、地域の文化や歴史に深く根ざしています2

ひょっとしたら、貴方、天女の化身?!

 

すっごーいー!

DSCN0645すっげー

壁画アート制作中。

20240411_153258外装塗装?ありゃ 体育祭の乗り!

場所は、京丹後市大宮町小町温泉セントラーレ付近の交差点角。

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テーマは?

DSCN0604名所また海

羽衣伝説丹後バージョンなんだそうです。

20240411_153140町を面白く、壁が行く道を閉ざすなら、その壁に絵を描く

世界各地に伝わる羽衣伝説、Copilot君が次のような情報を、おくれなりました。

※おくれなる くださるの丹後弁。最大の丁寧表現

。。。。。。。。。。。

天女が羽衣を着て天から降りてきたという羽衣伝説は、異類婚姻譚の一種であり、天女を祖先神とする小規模な創世神話の型をとることもあります。また、この伝説は豊穣や繁栄の象徴としても語られることがあります
日本の他、朝鮮半島、中国、ベトナム、インドネシアなどアジア各地にも似た話が伝わっており、ヨーロッパや西アジアにも同様の伝承が存在します。

日本の羽衣伝説には「近江型」と「丹後型」の二つのパターンがあります。近江型では、天女は羽衣を見つけて天上へ戻りますが、丹後型では天女は地上で生活し、最終的には難題を解決して天に帰るという話です。

朝鮮半島:金剛山にまつわる伝承では、貧しいが誠実な樵が猟師に追われた動物を助けたお礼として、天女を妻にする方法を教わります。天女はやがて衣を取り戻して天に帰りますが、その後の展開にはいくつかの系統があります1。
中国:『捜神記』によると、新喩県の男が田で女性たちを見つけ、彼女たちが鳥となって飛び去る中、衣を失った1人を捕らえて妻にします。後に女性は衣を取り戻し、娘たちを連れて去ります1。
ベトナム:樵の男が泉で沐浴する仙女たちを見つけ、1人の着物を隠します。仙女は着物を見つけて去りますが、後に夫と子を認めて共に暮らすことになります1。

インドネシア:セレベス島では、天女が蟹や鳩の姿をとる伝説があり、ジャワ島には「羽衣天女」と「鶴の恩返し」の要素を持つ伝承が伝わっています1。

フランス:『グラアランの短詩』では、森の中で真っ白な雌鹿を見かける主人公の話がありますが、これも羽衣伝説に類似しています1。
これらの伝説は、天女や神秘的な存在が人間界に介入し、その後に天界へ帰るという共通のテーマを持っています。地域によって細部は異なりますが、文化や地域の特色が反映された興味深い物語ですね。

。。。。。。。。。。。。。。。。。

武田鉄矢さんも、ユーチューブ三枚おろしで、熱く語ってらっしゃいますので、検索してみてください。

さて、この壁画アートを眺める若者たち!

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「これからあー 羽衣の山、磯砂山にー 登ってきまあすー」

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丹後の安寧世界の平和のために、頑張るぞー

この壁画アート、世界のスラッガー野村選手とも協演します、

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完成が楽しみです。

花はええですなあ

DSCN0453 花はええですな

桜を見ていたお婆ちゃんは、花になりました

DSCN0454お婆ちゃんはさくらになった

お婆ちゃんの名は、テルミさん

IMG_9931てるみさん

「咲くも無心。散るも無心。花は嘆かず 今を生きる。」と真民さん。

花に名前がつきました、テルミ桜

DSCN0440てるみ桜と詠んでください

、、、、、、

さくら  武鹿悦子

さくらが さくと

うれしくて

かぜも  さくらを みにきます

DSCN0019花の饗宴

さくらが さくと

うれしくて

あめも さくらを みにきます

20240409_164139雨も

か火

すい水

もく木

きん金

ちら

ちらちら

 

ことしの さくら

さようなら

春の光、さんさんと浴びて、高原に、桜、一本。

DSCN0032しん

松と組み合わせてみたら、栗田半島が天の橋立に見えた!

DSCN0029しっm

青い海の底の桜貝。

DSCN0033しん

アングルを変えてみましょう

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山の神様は女神だといいますよ、の説明に納得しますよ。

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、、、、、、、、、

今年の松尾の一本サクラ、ピークが昨日今日、これは麓の日置の桜も同じ

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海辺の桜と山の桜、二箇所の標高差400m。

温暖化が、この標高差をなくしてしまったのなら、桜きれいねとうっとりみていられない気がしてきます!

天皇家のお使い勅使をおむかえする門を飾る二本の桜。

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秘密山 金剛心院、、、秘密谷世屋のさとの桜旅はここからスタート。

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8キロつづらの道を登って、標高500mに咲くのは一本桜。

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風雪嵐に咲く根性桜。

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景色になじんだ上世屋桜

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耳を澄ませば、花の中からよいしょよいしょの声。

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今年の桜はヘンですは、日置ザクラもザクラも、時期がいっしょ。

天気が回復する今日明日が、ピークのようですよ、、、。

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五感でとらえた春を唱った照屋林賢さんの世界が息づく世屋谷

この谷の秘密兵器、本とは人が植えた桜ではありませんよ、わたしですと宣う樹。

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芽吹くばっさかカツラ、世屋姫神社手前の急坂谷側です、見逃さないでください、ね。

 

 

「大宮の民話」所収の 『ひいふ谷の山桜』の話は、こう始まる

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「新宮の奥に、ひいふの谷いう所があるが、そこに、なんでもむかし、大きな桜の木があったげな。その桜は、宮津の町からでもよう見えたということだが、宮津の殿様は毎年お城から花見をしとったそうな。」

新宮は、今の京丹後市大宮町。ひいふの谷から、宮津の御城下が見えるかが問題だが、新宮は、鼓ヶ岳を境にして成相寺の裏手に当たる。鼓ヶ岳の稜線に生育していたとすれば、宮津の殿様が毎年お城から花見をしとったというのは、あり得る噺だ。

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話は、こう続く。
ところがある年、一向に花が咲かん。それで家来をやって、調べさせたところ、なんと花が咲かんはずだった。その木をえぐり取って、木地わん作りが住みついとって、仕事をしとったそうな。その一の枝でつくった立臼が、つい、ひとむかしまで、茂さん家にあったそうだが、あんまり重たいので、つづみ形にしてあったということだ。その枝でつくった不精盆いうのが、あっちやこっちやに残っとるという話だ。
(大宮町教育委員会1991年)

「立臼が一の枝でつくれた」そりゃあどれだけ大きい木だだったろうなあと座は盛り上がったのだろう。
井上喜一郎さんのお話だ。

 

さて、この話、今の人たちはにわかには信じないかもしれない、しかし、大げさなホラ噺と違うぞとい山山桜が上世屋に咲いています。

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化石燃料が木や炭に置き換わって、山村の暮らしが変わり、獣害被害も厳しい。「田園まさに荒れなんとほっす」、人は守勢一方の現実が進行しています。しかし、それでも、世屋川流域全体には海岸から内陸の村々を経て分水嶺をなす稜線にかけ、シイノキ、タブノキ、カツラ、トチノキ、イタヤカエデ、ホオノキなど気候帯にふさわしい樹種が、巨樹巨木を含め、さらに相当数の準巨樹が巨木になるべく息づいて 豊かに美しく充実した自然を保っています、

里山再生は可能、そのことを、私たちに確信させるように咲く山桜。

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舞鶴湾を望む「アスペン泣いた赤鬼の森・マルヤ農林園上世屋」の近くです。

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案内しますよ。

ちなみにこの「アスペン泣いた赤鬼の森・マルヤ農林園上世屋」の今のメニュー

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ジャガイモの植え付けです。

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お代?!

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もらったことないな、遊びに来てくれる人から!

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この農林園の開設目的は、暮らしや学びの幅や深さそして視野、明日を思う人と人の絆、そういったものたちがより豊かになっていくこと、だから。それでは、こまる?、

それじゃ、種イモ一個50円でどう。植え付けから収穫まで、シカ対策もしっかりして、手伝いさせてもらうで、七つ八つは収穫できるから。

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「つながりあって楽しんでもらったらええんじゃ」

 

 

東日本大震災を機に導入された「震災復興税」、徴収期間が終了するというのをご存じか。と問われました。そうかぁと答えました。また
「森林環境税」というのが開始されるのをご存じか。とも問われました、なんだねそれ!と答えました。

20240330_142701しかりと対策とびこえるしかまさかいいやスイセンたべるしか忍者しかでるぞ

終わる「震災復興税」と始まる「森林環境税」、なにかつながりがあるのかいと尋ねたら、あると説明してくれました。
その説明曰く、住民税に上乗せされ国民1人当たり徴収金額が1000円。
「1000円が終わっても1000円が始まるから、変わらない、軽くならないということか、 震災は日本の宿命、森林環境整備もまったなし うまいことやるねえ、」と思いながら、『森林環境税が、官・行・民の連携のもと里山の保全整備に手厚く使われていくようにねがいます。とまずはいいたいね」というと、説明子、、

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(↑ 世屋川源流 ミョウガ谷の大サワグルミ)

森林整備に使われるという一見もっともらしいふれこみ。 必要なところに回ればね、しかし実は国はこの税の導入の前に19年から全国の自治体に「譲与税」として600億円を配っている。ところがこの配分金は森林がない都市部にもばらまかれているので使いようがないのだ。都市部にも配分されるのは配分基準に人口が入っているからで過疎の山林自治体よりも多いという構図。

20220607_110232女池とブナ

(↑ イサナゴ天女の水浴び池)

東京の中央区では使いようがないので東京都桧原村の森林保全活動に寄付、墨田区では公共施設に木材を使う取り組み。しかし、他の区の大半は使いきれず、新宿区など翌年の一般財源に入れ込んでしまい、どう使ったかは分からない。
こういうことがあった、と。

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税金が必要なところに回るよう、しっかり見張る必要に戒めと聞きました。

おや、あれはなんだい、

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府中、籠神社を過ぎて伊根へと走るすぐ左、

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府中公園の道向かい付近山側に薄薄ピンクの大きな花塊。

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枝振りも見事な大しだれ桜です。

DSCN0088おお

その枝を支える根元がしっかりして風格充分。

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人影はない。真名井、籠のビックネームの観光導線からは少し外れているためだろう、

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しかし、桜って見てもらってなんぼと入りを入りを計算して咲いているのではありますまい。

DSCN0084翼

府中大垣のこの大しだれ桜、お薦めですよ

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桜もあなたと、二人きりで対話ができること、喜んでいるのではないでしょうか。

※この桜撮影の狙い目は、海からの満月の月の出ですよ。

 

日本の春はサクラてんこ盛り。学校に、公園に寺社に駅に堤防にと全国に植えられています。

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このサクラたちの、開花の気温の目処は15度、名付けて桜前線、これが出会いと別れの春を彩りながら、南から北まで遡っていくのです。

この前線、上世屋にもやってきましたよ。

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さて、改良に改良を重ねて生み出された品種、その数300種以上とも言われます。

↑ 地主神社の「ミクルマカエシのサクラ」。

この新品種改良も、長い旅。

このあたりの事情は、「農水省 日本の桜の歴史」が詳しいようです。

① いま、お花見といいます。しかし、平安時代初頭の嵯峨天皇までは、花見といえば梅だったといいます。
なぜ嵯峨天皇の時に「梅→桜」という変化がおこったのか、そのきっかけは、嵯峨天皇が地主神社に植えられていた桜をたまたま見かけて、そのあまりの美しさに魅了されたからだといわれています。
地主神社の境内に咲く見事な桜の美しさに、牛車を二度、三度と引き返させて眺めたと伝わっています。
それ以来、嵯峨天皇は毎年神社から桜を献上させ、梅ではなく桜の花見を催すようになったようです。
地主神社の桜(地主桜)―嵯峨天皇の故事から「御車返しの桜」とも呼ばれるように
こうして桜の花見は、貴族たちにも一気に広まっていきました。
やがて桜の花見は天皇主催の定例行事として取り入れられるようにもなり、皇族や貴族などの上流階級のあいだで定着していったのです。

京都の東山などに桜が植えられ、現在にも続く花見の名所が誕生していきました。
また貴族たちも屋敷の庭に桜を植え、常日頃から桜を愛でるようになっていきました。

② 3月3日の桃の節句は、もともとは中国から伝わったもので、春を祝い無病息災を願う厄払いの「上巳(じょうし)の節句」という儀式でした。奈良時代まではその儀式に桃や梅を使用していましたが、いずれも中国から持ち込まれた観賞用の植物であり、日本には自生しない外来種でした。
「桃や梅は貴族社会で珍重されていましたが、平安時代になるとどこにでもある身近な桜を愛でようという機運が高まり、儀式や行事に桜が用いられるようになりました。奈良時代の『万葉集』にも桜が詠われていますが、儀式的な意味は無かったようです」(勝木先生)。
春の花の象徴として桜が詠まれるのは平安時代の「古今和歌集」からで、桜を愛でる文化が生まれたのは、この時代からだろうと推測されます。
平安時代には、ヤマザクラを用いた桜の栽培化も行われるようになりました。
「桜の鑑賞性が高まったのでしょう。庭に植えるための苗木生産も始まり、野生種ではない栽培品種も誕生しました。もっとも古い歴史を持つのが‘枝垂桜’であり、平安時代の文献に名前の記載が確認されています。なお、‘枝垂桜’は野生種であるエドヒガンの突然変異だと考えられています。現在も調査中ですが、当時、育てられた個体の子孫が、日本全国に広まったと推測されます」(勝木先生)。
伊豆諸島から鎌倉へ渡ったと思われるオオシマザクラ。歴代の“鎌倉殿”も白き桜を愛でていたのかもしれません。
オオシマザクラは、第1週目のもっと知りたい! 身近な桜たちで紹介したとおり伊豆諸島の大島などに自生していた野生種であり、当時の京都の人々はその存在を知りません。しかし、室町時代の文献にはオオシマザクラらしき記述が見受けられるようになりました。
「伊豆諸島から鎌倉に渡り育てられていたものが、すでにヤマザクラが栽培されていた京都へ持ち込まれたと考えられます」(勝木先生)。
平安時代に始まった桜の栽培は鎌倉時代に発展し、流通が始まっていたのかもしれません。 (農水省 日本の桜の歴史)

という歴史は、一面、けたたましい喧噪の競い合いの歴史。御所やお城のサクラのお下がりをもらうような気分もしないわけでもありません。

ところで、さざ波立つ水面に姿映す花、これもサクラ。

「古池やかわず飛び込む水の音」のわびさびに通じるものが感じられて、いいサクラです。

20240404_144522都にはありますまい
このため池の水で米を作るお百姓は、天水だけを貯めた雑排水が混じらん水だ、と米の品質を味を自慢します。

そのサクラ(桜)の語源は稲作と共に?と思えたので

では、と調べて見ましたら、韓国語では、pŏt-kkot、ポッコッ。
(ポッコチピダ) 桜が咲く(ポッコッチョンソン) 桜前線

中国語か、 yīnghuā イン フゥア

どうもその気配はありません。

としたら、日本語起源。そこで、Copilotさんにとりあえず、見当をつけてもらいました。

そうしたら、「**桜(さくら)**という名前の由来や語源について、いくつかの説があります。どれも未だに「これが正しい説」という確証は得られていませんが、」と諸説ある中、認知度の高い説として二つを紹介してくれました。

以下、まずやりとり。

「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」からきている説:
古事記や日本書紀に登場する「木花之佐久夜毘売」が由来とされています。
逸話によれば、富士山の上空から桜の種を蒔いたとされ、その名前が「さくや」から「さくら」に変化したと考えられています。
「田んぼの神様」からきている説:
桜は「豊作をもたらす田んぼの神様が宿る木」と考えられていました。
「さ」は稲の精霊、「くら」は稲の精霊が降臨する場所を指す古語で、このふたつが組み合わさって「さくら」となったとされています。

◆自分
「木花之佐久夜毘売」説と「田んぼの神様」説、この有力説の二つを比較して、どちらが成立的に早いと思われますか
◇Copilot
「木花之佐久夜毘売」説と「田んぼの神様」説の比較を考えてみましょう。
「木花之佐久夜毘売」説:
この説は、古事記や日本書紀に登場する神話的な人物「木花之佐久夜毘売」が由来とされています。
逸話によれば、彼女が富士山の上空から桜の種を蒔いたことがあります。
この名前が「さくや」から「さくら」に変化したと考えられています。
成立的には、古代の伝説や神話が存在しているため、比較的早い時期に名前が付けられた可能性が高いです。
「田んぼの神様」説:
桜は「豊作をもたらす田んぼの神様が宿る木」と考えられていました。
「さ」は稲の精霊、「くら」は稲の精霊が降臨する場所を指す古語で、このふたつが組み合わさって「さくら」となったとされています。
成立的には、日常的な農耕文化に密接に関連しているため、比較的早い時期に名前が付けられた可能性があります。
どちらが正確に早い時期に名前が付けられたかは、歴史的な文献や証拠が限られているため断定できませんが、いずれの説も桜の美しさと日本文化との結びつきを感じさせてくれますね。

ありがとさん、しかし、Copilotさん、逃げたかな!と思いました。

この花説 比較的早い時期に名前が付けられた可能性が高いです。
稲の精霊説 比較的早い時期に名前が付けられた可能性があります。
どちらが正確に早い時期に名前が付けられたかは、歴史的な文献や証拠が限られているため断定できませんと避けたのです。しかし、どちらが正確に早い時期か、古事記や日本書紀は、稲作文化が作った国家の記録ですから、農耕の現場から生まれたとする説が先とするのは、そう難しい判断ではないはずです。

桜は、 尋常小学校教科書 一年生 国語に、こう取り上げられています。
サイタサイタサクラガサイタ(咲いた、咲いた、桜が咲いた)
コイコイシロコイ(来い、来い、シロ来い)
ススメススメヘイタイススメ(進め、進め、兵隊進め)
オヒサマアカイアサヒガアカイ(お日様赤い、朝日が赤い)
ヒノマルノハタバンザイバンザイ(日の丸の旗、万歳、万歳)

西条八十は 「二輪の桜」として雑誌『少女倶楽部』【昭和13年(1938年)2月号】発表した軍国歌謡詩。

君と僕とは二輪のさくら  積んだ土嚢の陰に咲く
どうせ花なら散らなきゃならぬ  見事散りましょ 皇國(くに)のため

君と僕とは二輪のさくら 同じ部隊の枝に咲く
もとは兄でも弟(おとと)でもないが なぜか氣が合うて忘られぬ

君と僕とは二輪のさくら 共に皇國(みくに)のために咲く
昼は並んで 夜は抱き合うて 弾丸(たま)の衾(ふすま)で結ぶ夢

君と僕とは二輪のさくら 別れ別れに散らうとも
花の都の靖國神社 春の梢で咲いて会ふ
つまり、戦前の国策花というサクラの持つ側面に、いまだにCopilotも忖度するか!と思いました。

20240404_144318桜池

それはそれとして、安易なコピペが出回らないことを願います。

そんな中で、なるほどと思う紹介さてていたのは
いにしえびとの音楽会 古人(いにしえびと)の息吹を感じる古代史サイト
花見の起源~なぜ日本人はサクラを愛でるようになったのか~
2019.03.24 文化・民俗
ですね

、、、、、
昔々、田の神様は普段は山の上にいると信じられていました。
その神が春になると山から降りて来て桜の木に宿ります。すると、その桜の木は開花すると考えられたのです。
桜の開花=田の神様が山から降りてきた証拠であり、その合図をきっかけに、昔の人々は田植えを始めました。

古代には正確な暦もなかったし、現代のような気象観測技術もありませんでした。春になってなんとなく温かくなってきたことはわかっても、はたして本当に田植えに適した時期がやってきたのかは、なかなか判断するのが難しかったのです。
稲というのは繊細な植物で、気温が15度以下の時期に苗を植えても育ってくれません。田植えする時期を間違えると大変なことになってしまうのです。そこで参考にしたのが桜の開花でした。

桜は春になり気温が15度を超えてくる時期に開花を始めます。岐阜県下呂市和佐にある樹齢350~400年の2本の桜が、苗代桜(なわしろざくら)「暦桜」や「薬師様の桜」とも呼ばれるように古代の人々は、開花する美しい桜の花を見て、「もう田植えの時期だよ」という神からのメッセージを受け取っていたのです。

このように春のサクラは、農民のものだったのです。

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もう一度copilotさん

「稲(サ)の神」とは、一説によれば、古語では「さ」は山の神を意味し、春になると里に降りてきて田の神・稲の神(稲霊)となると信じられていたという。これを仮に「サ神」説と呼ぶ。稲の苗を早苗(さなえ)、苗を植える女性を早乙女(さおとめ)、田植えをする5月を皐月(さつき)と呼ぶが、「サ神」説では、これらの先頭に「さ」がついているのは、「さ」が田の神・稲の神(稲霊)を表しているから、と説明される。そして「サ神」説では、田の神・稲の神が憑依する「座(クラ)」が早春の山の桜の木であるとして、サ神の座(クラ)を「サクラ」の語源として導き出している。

、、、、、

20240404_144550サクラわたしもサクラ米は美味い天水だけを貯めたため池

納得です、

下呂市の苗代サクラの画像がほしいです に対する画像結果.サイズ: 132 x 104。ソース: cooljapan-videos.com

岐阜県下呂市和佐にある樹齢350~400年の2本の大桜は、苗代桜(なわしろざくら)「暦桜」や「薬師様の桜」とも呼ばれているということです。

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